第3話 電車のバスガイドさん

いつからだろう。

心の奥底から込みあげる『笑い』を抑えるのに必死だった。

なぜなら、この世界のあらゆるものがおかしくて堪らない。

どうしてみんな、笑わず平常心でいられるのだろう?

不思議だった。


今朝も、笑いを抑えながら目覚まし時計の『声』で目を覚ます。

何しろ、目覚まし時計の『声』がおかしくて堪らない。


「ピヨロロン、ピヨロロン、おはようございます、僕、ゴリエもんです。ピヨロロン、ピヨロロン…」


どうしてこの目覚まし時計、朝から自己紹介してるんだ?

変な音まで立てながら。

腹を抱えて大笑いしたくなるが、そんなことをすると家族にまで『頭がおかしい』と思われるため、ぐっと堪える。


『頭がおかしい』と思われる?

自分でそんなことを思ったのが、また面白い。

でも、笑ってはいけない。

頬をつねり、必死で笑いを堪えながら朝食をとろうとする。

見ると、御飯の上に秋刀魚が乗っかっている。


「秋刀魚の蒲焼丼よ。」


母が言う。


秋刀魚の蒲焼丼?鰻なら丼にするのは分かるけど、秋刀魚まで丼にするのか、この家は。

それに、蒲焼丼って響きが笑える。

体の奥底から込みあげる笑いを抑え、蒲焼丼なぞ食べることもできずに家を出る。


家を出ると、真っ直ぐ前を見て規則正しく両手を動かしながら歩く。

間違っても左右なぞ見てはいけない。

そんなことをしたら、『挙動不審』と思われる。


ん?何だ、挙動不審って。

いちいちそんなことを気にする自分自身がおかしくて堪らない。


しかし、笑ったらそれこそ不審だ。

笑わないように、頭を空っぽにしてひたすら歩く。


すると、横から小さい自転車に乗ったおばさんが自分に突っ込んできて横転した。

横転したまま、動かない。


「大丈夫ですか?」

さすがに気になり、声をかける。


「大丈夫ですか、ってあんた」

おばさんが起き上がる。


「ちゃんと前を見て歩きなさいよ。」

怪我をした膝をさも痛そうにめくる。


「どうしてこんな目にあわないといけないの?私、真っ直ぐ進んでただけなのに。」


真っ直ぐ進んでただけなのに?

何を言ってるんだ、この人は。

真っ直ぐ進んでいただけなのは僕なのに、あなたが勝手に突っ込んできたんじゃないか。


僕の中で、この人を『真っ直ぐおばさん』と命名した。


『真っ直ぐおばさん』、いい名前だ。

真っ直ぐ生きるおばさんだ。

人間、脇道に逸れることも多いけれど、このおばさんは常に『真っ直ぐ』生きているのだろう。


そんなことを考えていると、またまた笑いが込みあげてくる。

必死で頬を掻いて堪える。


その時、『真っ直ぐおばさん』の知り合いと思われるおばさんが通りかかった。

怪我を見て、驚いて言う。


「まぁ、みっちゃん。何て怪我。救急車を呼びましょうか?」


救急車?

たかが擦り傷で、どうしてそんなもの呼ばないといけない?

このおばさんは、『救急車おばさん』だ。


そんなことを考えると、いよいよ吹き出しそうになる。


「救急車なんて、呼ばなくていいわよ。」


さしもの『真っ直ぐおばさん』もさすがにそう言って、僕に一瞥をくれ帰って行った。


救急車おばさん、真っ直ぐおばさんよりも強し。

駅への道中で考えてしまうとやはり笑ってしまうため、心を空っぽにして歩いた。


駅にはもう電車が到着しており、急いで乗り込む。

すぐにドアが閉まり、やれやれと思った。

しかし、その密室内で地獄が待っていた。


突如、大学生くらいの青年が大声を上げる。

「皆さん、注目して下さい。僕、バスガイドやります。電車の中だけど、バスガイドです。」


電車の中がざわつく。

しかし、青年は続ける。


「電車のバスガイドは、歌を歌います。皆さん、どうぞリクエストして下さい。」


当然、誰もリクエストなぞしない。

当然、僕の笑いのボルテージは最高潮に達している。


「皆さん、ノリが悪いですねぇ。そこのお姉さん、笑っていないでリクエストして下さいよ。」


お姉さんも笑っているのなら、僕も大爆笑していいのだろうか?

しかし、笑わないのが人前でのエチケットというものだ。

ぐっと堪える。


「分かりました。誰もリクエストしないようなので、『カエルの歌』を歌います。皆さんに聞いていただけるように、電車の端から端まで走りながら歌います。皆さん、聞いて下さい。」


何?

カエルの歌?

しかも、走りながら?

もう、完全にツボなのだが頬を必死に掻きむしって笑いを抑える。


すると、青年は電車の中を走りながら歌い始めた。

「カエルの歌がぁ、聞こえてくるよぉ、ゲロっ、ゲロ、ゲェェ、」


俄かに、青年はえづきはじめた。

「僕、バスガイドなんで、電車は苦手なんですよ。苦手だから、ゲェェって、気持ち悪くなってしまうんです。あれ?何か、僕の周り、空いてきてません?皆さん、どうしたんですか?」


電車が停車すると同時に、ドアの開くボタンを押して降りた。

降車駅ではないが、もう限界だ。

これ以上ここにいると、堰を切ったように大笑いしてしまう。


会社までの長い道のりを、笑いを堪えながらひた進む。

何とか着いた時には、会議の直前であった。


会議の議題は、マーケティングの今後について。

しかし、そんな議題など全く頭に入らず、僕の頭の中では『電車のバスガイドさん』の記憶が反芻し、笑いを抑えるために右頬をつねったり掻きむしったりで忙しかった。


「…について、原田くんはどう思うかね?」

「は?」


必死で笑いを堪えていると、急に課長から意見を求められた。

しかし、頭は真っ白だ。

何か言おうとして、口をついて出た。


「電車に、バスガイドさんを設けたらいいと思います。」


会議室が、ざわつく。


「バスガイドさんが歌う歌は、乗客のリクエストに基づいて決めるのがよいかと思います。リクエストがない時は、バスガイドさんは電車の端から端まで走りながら『カエルの歌』を歌わなくてはなりません。」


僕は真顔で言う。


「ちょ、ちょっと、待ちたまえ、原田くん。」


課長が僕を制した。


「君も、色々と疲れているんだね。今日はもうよいから、帰ってゆっくり休みたまえ。」


帰路につくことになった。

帰りの電車は通勤時間を外れていたためか、一人も乗っていない。


僕は、大声で言った。

「皆さん、注目して下さい。電車の中だけど、バスガイドやります。電車の端から端まで走りながら、カエルの歌を歌います。」


そして、全速力で走りながら大声で歌った。

息が切れる。

しかし、同時に大笑いした。

腹の皮がよじれるほど、笑いに笑った。


こんなに笑ったのは、何年ぶりだろう?

周りの目を気にする年齢になると同時に、笑うのが恐怖となりこんなに笑えなくなったんだ。


腹を抱えて大笑いしているうちに、涙が出てきた。

その涙は、笑い涙なのか、他の涙なのか自分でも分からない。


でも、明日からは少し自分の感情に素直になって頑張ろう。

そう思った。

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