39 第六部 はちみつに漂う心
心配になるような反応の薄さのレミィを保護して一か月、記憶はあいかわらず戻る気配はなかったがレミィは徐々に元気になっていっているようだ。
レミィは今までのように使用人として屋敷にいるのではなく、客人として世話になっていた。
屋敷という場所に依存させるのは良くないというアレイスターの判断だ。
だがそれでも、レミィのやっている事はさほど以前とは変わらないようで、暇を見つけては屋敷の手伝いをこなしていたりしている。
アスウェルの方は、クルオやフィーア達が町にいないか探したり、アレイスターが行っている禁忌の果実に対抗する組織……ネクトの下準備など、やるべき事を着々とこなしていた。
そんな日々を送る中だが、屋敷の中は変わらずに平穏だった。
「よいしょ……です」
廊下。
やるべき事を終えて戻って来たアスウェルは小さな人影を見た。
白いワンピースを来たレミィが左右へ蛇行しながら歩いている。
何かの液体がなみなみと満ちたタライを運ぶレミィ。その姿は、非常に危なっかしかった。
よろよろふらふらとどこかへと持って行こうとするレミィを見かけたアスウェルは、おどろかせてその場でひっくり返すような事にならないように声をかけた。
「何をしている」
「ひゃわっ」
気を使ってやったというのに、驚いて落としそうになるレミィの手に持つそれを背後から支えてやる。
甘い匂いが鼻に突いた。
これははちみつか。
「……アスウェルさん?」
振り向くよりやる事やれ。
タライをしっかりと持ち直したレミィの歩きに付き合いながらアスウェルは話を聞いた。
「お風呂に、……です。これを入れると、健康に良いって……皆さんが」
話によると他にも使用人達ははちみつ以外にも様々な物を試してみたいらしく、よく聞く物からおかしな物まで意見が出ているらしい。あいつらは祭りか何かと勘違いしているのではいか。
そんな事は屋敷の主がボードウィンだった頃にはなかったが、主人が変わる前にもアレイスターはしていたのだろうか。
レミィの視線はなみなみと注がれているはちみつにある。
ごくりと喉が動くのが見えた。
「食べるな」
いくら美味そうでも風呂に入れる物を口に入れるな。
そう注意すると、肩を落とす反応があった
「駄目ですか……」
図星だったようだ。
屋敷の風呂は男女共用で時間ごとに区切られて使われている。
どちらが先かは日付ごと変わって、入れ替わるのだが、たまに入りそびれる者が必ず出てくる。
そのための措置としてに三番目の時間がもうけられている。
人ごみや、うるさい人間にからまれるのが嫌いなアスウェルは、入りそびれなくともたまに利用していたことがあった。
いつの事だったか、間違えたレミィが……。いや、これは思い出すのはよそう。忘れた。
無事にレミィが風呂場までタライを運搬し終えたのを見届けたアスウェルは、その場を後にしようとするが甘く見ていた。
せめてそれを床に下ろすところまで見届けるべきだった。
「あ、……アスウェルさん、あり……ひゃんっ」
おそらく礼を言いたかったのだろうが、言葉は最後まで紡がれなかった。
レミィが足を滑らせたからだ。
ぶちまけた場所が風呂場内だったのがせめてもの救いだたが、けっかとしてはちみつを頭からかぶることになった。
近くにいたせいでこっちにも数滴飛んできた。
「うぅ……」
檸檬色の髪から、幼さの残る顔や、顎先から、ぽたぽたと金色の雫がしたたる。
「ごめん、なさい。注意してくれたのに」
黄金色に輝くはちみつの海に浮かんでいるその姿を見て……不覚にもアスウェルは何か考えたような気がする。
が、忘れた。
「うぅ……、べとべとします。服の着替え……どうしよう」
風呂はそのまま湯を入れれば何とかなるだろうが、着替えは一人ではどうしようもできないだろう。
アスウェルがとってこようとするが、下手に立ち上がろうとしたレミィが背後でしぶきを立てて二度転んだ。
まずはこいつを風呂から出していくべきかもしれない。
はちみつの海で、泣きそうになっている少女へ手を伸ばす。
「掴め」
「すみません……」
どうにかして立ち上がらせるが、近づいてきた分はちみつの匂いが濃く漂って来た。
そう言えば、今日はそれなりに忙しくて何も食べていなかった。
取った手を自然と引いていて、顎先に伝う雫を別の手ですくい取りなめた。
甘かった。
「あ、アスウェルさんずるい。……私には、食べるなって言ったのに。お返し、ですっ」
レミィはこちらが掴んでいる手をとって、アスウェルに噛みついてきた。
痛くはない。動物に甘噛みされているようだ。
「あむぅ。あまひ、れす……」
離れろ。
その体勢で幸せそうな顔になるな。
はちみつなら後で使用人共にたかればいいだろう。
「アスウェルさんがはちみつだったらいいのに」
「……」
それはあれか、俺をなめたいとでも言っているつもりか。
「好きな物が二つ合わさったら最強だと思うんです」
「……はぁ」
このお子様脳が。
「アスウェルさん、何か……困った事とかないですか。私、アスウェルさんに……助けてもらってばかりで、お礼とか全然できてません。私もアレイス君みたいに、アスウェルさんの力に……なりたいです。何かやらなきゃいけない事が……あるんですよね」
「間に合っている」
「私、戦えます。この間町で悪い人捕まえましたから」
「必要ない」
「えっと、後は……魔法も使えます。魔人ですから」
「いらん」
ばっさり断り続けるとレミィは、悲し気な表情になる。
俺は、もうお前を戦わせるつもりはない。
下手に一緒の場所にこられて、最後にお前を撃つはめになどなりたくはないんだ。
「私の力……必要ないんですね」
「……そうだ」
苦々しく肯定してやれば、それで会話は終わりだ。
そう思ったのだが、レミィは違ったようだ。
「アスウェルさんは……馬鹿ですっ」
こちらの懐に勢いののった頭突きをかましてきた。いや、飛び込んできたと言えばいいのか。
「私が……何にも知らないとでも、思ってるんですか。教えてくれるぐらいしたって……いいじゃないですか。アスウェルさんは……たまに、怪我して、帰って来てるじゃないですか。危ない事、してるって……私、ちゃんと分かってるんですから。……どうしてそれを、隠すんですかっ!」
頼られない事より、何も知らされない事をレミィは憤っているようだった。
「ひどいですっ。教えてくれればいいのにっ、どうしてっ。……そうやってだんまりしてれば、全て丸く収まるとか、そんなの……ない、ですからっ。私、ひょっとしてアスウェルさんになめられてますっ!? ちょろいちょろい簡単騙せるみたいに思われてるんですか!?」
元気が出て来たと思ったらいきなりそんな風に喋られて少しばかり驚いた。
手伝いをしている時はまだボンヤリしてることが多いのに、心の中では多くの物事を考えていたらしい。
突っ込んできた状態のまま一気にしゃべったレミィは、一度口を閉じた後。
改めて開いた。
「話せ」
いや、恫喝してきた。
目がすわっている。
「アスウェル、は・な・せ」
さん付けが消滅した。
ちょっと待て。何がどうしてこうなった。
コートの端を皺になるほど強い力で掴まれ、見上げられる視線は真剣そのものだ。
そう言えばこんな状態のレミィを相手にしたことがあった。あれは公園んのベンチで本を取り合っていた時の事だ。
怒らせるとレミィ・ラビラトリは人格が変わるらしい。
しかし。
「何も言ってくれないです」
再び元の表情に戻ったレミィは、トボトボと形容するのが最もふさわしい様子で風呂場から出て行こうとする。
「何て、私はそんなに諦め良くはないですっ。喋らないならお返しっ、です!」
鈍い音を立てて、アスウェルに突っ込んできたレミィを、足場が悪かったのか今度は支えきれなかった。
琥珀色の液体の中へ尻持ちをついてしまう。
そのアスウェルの上に乗っかるような形で、慣性のままに倒れ込んだレミィが言葉を続ける。
「大切な人が困ってたら、理由を話してほしいって思うのが……普通じゃないですか。何も話してくれないままで、もしアスウェルさんがいなくなっちゃうような事があったら……、そんなの嫌です」
「俺は……」
ただお前に幸せに日々を過ごしてほしかっただけだ。
それなのに、知らなくても黙っていても悲しませてしまうのか。
アスウェルの口から続く言葉はでなかった。
その直後やかましい声が聞こえてくる。
「大丈夫かレミィ。タライひっくり返してたりしてないか見に来たぞ!」
「ひゃっ」
ひっくり返さないか心配なら、驚かせるような声量でしゃべるな。
アレスはレミィの態勢を見て、口を開けたの後、視線を体全体に向けて、無言になった。
「……。…………。……………………」
妙な間の中でその顔が赤くなっていくのを見て、そう言えば見慣れた使用人服ではなく、私服だった事に気が付いた。
薄いシンプルな、私服のワンピース。
はちみつが滴っている……。
……。
「出ろ」
アレスを叩き出して、レミィを風呂場から運び出した後。
アスウェルは廊下へ出て右往左往しているアレスの代わりに、通りがかった女使用人に事情を説明することになった。
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