第10話「理由」

この連載も10回を迎えることになりました。リアルタイムで書いてる以上、どうしても全体の構成には行き届かないトコがあり、最初にドナー通知が来てから、ドナー不適合とか患者の病状変化とかで、このイベントがいつ中止になってもおかしくないので、続けられてるコトが嬉しいよ!ネタになるもんね!


ドナーやると言うと、「何でそれやろうと思ったん?」て理由を問われます。それはもう、関係者全員ですよ。本人にボランティア精神がなさそうに見えるってのが最大の動機でしょうが、それにしても多い。コーディネーターの本田さん(仮名)にも会うなり問われたし。10回記念にコレについてダラダラ書いて話数を稼ぐよ!


「友達が病気になったからヨ。」


私が団長やってる楽団で一緒に合奏してたヤツが病気で死にかけてまして、本人は病名はおろか、何をどうしてほしいとか全然言わないのだけれど、そこはそれ、私のネットストーカー気質により病名を調べ上げ(キモい)、その病気の進行度合いや治療法もアタリをつけ(ホンマキモい)、そそくさと骨髄バンク登録を済ますばかりか、共通の知人にも「アイツこういう病気だから骨髄バンク登録して!なう!」みたいな情報漏洩すらやりました。こういうの、本人が他人に頼むことじゃないと思うのよね。私がこのテの病気でもお願いしないもん。そうじゃなくて、周囲が勝手に動くモンだろうと。


「喜ばないと思いますよ。」


共通の友人で、病人と最も仲の良かったヤツは、私にこう言いました。別に喜ばそうと思ってやってるワケじゃねーし。怒られても構わんし。怒られるのも生き延びたらのハナシやし。病人を喜ばすってより、私が病人にどうしたいかってハナシやし。


数え切れないくらい病気があって、人は病気で死ぬだけじゃねーし、事故とか天災とか戦争とか自殺とかダーウィン賞とか、想像を絶する死に方がある中で、「自分が助けになれる」ってモンは物凄く少ないのよね。特に私たちは友人の関係で、看病することも出来ず、遠方の病院では見舞いにもホイホイ行けない。でも心配ではあるし、生き延びてほしい。


正直に言おう。誰か大切な人が死にそうなとき、自分に出来ることがあるってのは、私自身が嬉しいことだ。心配とか願望とか、そういう気持ちの置き所があるのだもの。イキナリ葬式とかマジでやめてよね!私なりに出来ることをやって、それで死なれるなら仕方ないと諦めもつくというもの。どうせ誰もが死ぬのなら、みんな私に何か出来る死に方でお願いしまっす!


という身勝手な吉村なので、「喜ばないと思いますよ。」と言って、私から見て何もしてないヤツに、私、身勝手に腹を立ててまして。お前は骨髄バンク登録したのかと。病名知ってるのに何もせず、友人の不幸にメソメソするだけなのかと。いや、知らんよ、何かしてるんかもしれんよ。でも先ず出来ることといったら骨髄バンク登録やろうって、思った。言ってない。この暴言に対しては沈黙したよ。私もヤツも、価値観が異なるだけだし、ここで議論しても無意味だし。


私がお願いした人で、骨髄バンクに何人登録してくれたかは知らない。でも、そこが重要なんじゃなくて、「私が」「お願いした」って事実が、病人が助からなかったときに私を助けるだろう。結局病人は、骨髄バンクではドナーが見つからず、臍帯血バンクで生き延びました。緩和ケア予約とかしてガチで死にかけてたのにそこから復活して、また私と遊んでもらえるようになり、本当に嬉しい。ちなみに未だ怒られてはいません。


だが私は未だに怒っている。何に対してか。「喜ばないと思いますよ」という暴言に対して。もう発言者がどうこうじゃなくて、こういう考え方を憎悪する。病人本人が何も要求しないので、その意を汲み取って両思いに丸く収まってるつもりかもしれんけど、私は他人の意思を尊重しすぎて自分の願望が曲げられることをヨシとしないからな!一方通行でも、自分の理想を、絶対に諦めたりはしないからな!←こういう思考回路がストーカーを生み出すヨ


この怒りが数年経過しても私の中でくすぶってて、当分消えそうもない。そんな中でドナー通知が来たモンだから、化学変化を伴い再燃していまして。


「ここで骨髄移植拒否したら、私の怒りって偽物じゃん!」


読者諸氏にこの化学変化、ご理解いただけるでしょうか…。私、ここらへん書いては消し書いては消し、自分でも上手く説明出来ないので諦めました。友人は生き延び、患者は全くの別人にもかかわらず、私は今、自分の友情や価値観が、試されているような気がしてならないのです。


何でもいいや、酷いコトが起こるとするやん。友人が死にかけたり、災害に遭ったり、イロイロ。そりゃ、ハナっからボランティア精神でハタチになったら骨髄バンク登録したり、防災用品備蓄したりするのがサイコーよ。でも私はそんなふうには出来てなくて、のほほんと何も考えず生きてるだけなんで、せめて、酷いコトが起こったら、少しだけ自分を変えて反省したことにしてる。それは献血みたよな、今100%趣味、楽しみでやってることでも、当初はその「少しの変化」にならないモンかなって動機だったし、その程度でよいと思ってる。


それが今回は、友人の病気であり、「喜ばないと思いますよ」であるのだ。これは酷いことではなかろうか。ドナー拒否したら、友人の病気や、この怒りに対し、自分がスルーしてるってことになりはしないだろうか。ドナーを引き受けることが、自分の気持ちの証明になるような気がしているのだ。


勿論、第一の理由としては好奇心だ。やってみたい、が最大の理由、割合にして9割は占めてる。残り1割、意地みたいなモンが、確実にあるね。これで全部です。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る