第6話 Narcissus at oasis 1
『パぁパ、早く起きて!』
娘がベッドにドスン、と助走をつけ腹の上に飛び乗る。既に身支度を整えた、お気に入りのワンピースの裾がふわりとなびく。
思わず鈍く、低い声が喉の奥から吐き出されるが、彼女は微塵も気にする様子はなく腹のあたりに馬乗りになり、肩をゆさゆさと揺さぶられる。
「あぁ…ごめん、もう少しだけ…」
わざとらしくあくびをするが、彼女には簡単に見破られてしまう。本当に眠たいのは確かだが。
『今日は何の日か忘れちゃったの?』
目に涙を浮かべかけて…悲しそうな顔をする我が子を欺くことはできない。俺もそこまで自分の都合を押し通そうとする人間じゃないし。
「大丈夫、忘れてないよ」
慰めるように、頭を優しく撫でてやる。髪の柔らかさも、表情ひとつとっても、一段と最愛の人に似てきている気がする。
「変なこと言ってごめんな」
「今日は、ママのお墓参りだもんな」
少し微笑むと大きく伸びをしながらベッドから体を起こし、重い体を動かす。
『パパ、早く!』
「うん。あの、お腹から下りてくれる?少し苦しいよ…でなきゃ用意できないよ、パパ」
『えへへ…わかった!』
残業を少なくしてもらっているといえど、働きながらの家事の両立はなかなかの重労働だ。世の中の働きながら両立させている女性全員を尊敬したい気持ちだ。
「パパもすぐ、用意するから…朝ご飯は行く途中外で食べよう。何が食べたい?」
さすがに朝ご飯を作る気力までは湧かない。毎日用意しているんだ、たまには許されるだろう。
『…ママのホットケーキ』
思わず口ごもってしまう。きっと二度と食べられないことを理解しながら言っているのだろうと分かっているから。
「ごめん、それは…でも食べたいよな、ホットケーキ。じゃあ、食べに行こうか」
『やだっ…食べに行きたくなんかない!』
「なら、パパが焼こうかな…」
『やだ、ママのがいい!』
胸がだんだんと苦しくなる。彼女は泣きじゃくりながらわがままを言う、駄々をこねる。
「じゃあ、フレンチトーストにしようか。それならパパも得意だから…」
『やだ、ママのが…』
そうか、ママが恋しいのか…
俺だって、パパだって恋しい…
未だに信じられないんだよ。
だから、そんな風にわがままを言わないでくれ。
いい加減に…
「っ…だから、ママは死んだんだ!もう、ここにはいないんだ!」
声を荒げ、はっ…と我に返る。
『うっ…っく…ひくっ…』
覆水盆に返らず、何てことだ…
別れは本当に突然のことだった。
2年前の、ちょうど今日みたいな天気のいい夏の日だった。
仕事で出張に出ていた時に、最愛の人…つまりは妻に先立たれてしまった。対面した時には既に布が掛けられていた。不思議と涙は出なかった、いつもの寝顔のように安らかで穏やかな…いつ目が覚めてもおかしくない表情だった。
医師からの話を聞かねばと、動揺する間もなく尋ねる。
「病院にはいつ…」
『倒れてからだいぶ時間が経過してから、搬送されて来ました…隣の方が尋常ではない様子で泣きじゃくっていた娘さんの声を聞き、連絡したそうです…』
「そうですか…」
傍にいた娘は驚き、パニックになり意識を失っていく妻になす術もなく、呆然と立ち尽くしていたに違いない。毎秒毎秒…ゆっくり、じわじわと弱っていく彼女を見詰めるしかなかったのだろう。
“脳出血”
それが妻の死因だった。
きっと、薄れゆく意識の中で事切れる間際まで心配していたのは娘のこと。彼女のことだから「大丈夫…大丈夫…」とひどい痛みに堪えながら、安心させるためうわ言のように呟いていたのだろうか。
医師は「もっと早く病院に搬送されていれば、助かっていた」確かにそう口にした。隣にいた娘はただ泣きじゃくっていた…
幼いのにまるで言葉の意味を理解しているように『ごめんなさい、パパ…ごめんなさい…』ずっとずっと言っていた。
正直複雑な心境だった。
―あの時、早く救急搬送されていれば…
―あの時、俺が出張でなければ…
―あの時、娘が…生まれていなければ…
…最愛の人を喪った俺の気持ちは?
言葉に詰まってしまった。
掛ける、紡ぐ言葉が見つからない。
「違う、君のせいじゃない」どうして自然にその言葉が出なかったのだろうか。口に出すことをはばかられる消化不良な言葉だけは、地層のようにどんどん降り積もっていくのに、打ち消す言葉だけはまるで出て来ない…頭の中に繰り返し、繰り返し響くのは消極的な言葉だけ…まるでエコーのように。
『パパなんて大嫌いっ…嫌いっ…バカっ!』
娘はそう吐き捨てると、勢いよく部屋のドアを閉め、自分の部屋に閉じこもってしまった。
「何で…あんな言葉、吐き出してしまったんだろう…」
溜め息を吐き頭を抱え、呆然としてしまった。父親以前に、人間として最低な言葉を吐いてしまった。後悔の念が胸の中でモヤモヤ、ぐるぐる渦巻く。
…ねえ、キミがいなくなって、こんなにも寂しくて…まだまだ一緒に居足りなかったのに、こんなにも早い別れになるなんて…一番寂しくて、恋しがってるのはキミの忘れ形見なのに…どうして、ヒステリックになって感情を吐露してしまったのだろう…
「ごめん…ごめん…」
繰り返し繰り返しエコーのように呟く。
俺だって…キミに言い足りてない言葉がたくさんあるんだ…
“愛してるよ”
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