農協おくりびと (8)ちひろのノルマ


 「共済契約のノルマ、7000万円・・・何なのよ、これって!」


 ちひろが共済のノルマの額に、目を丸くする。

無理もない。農協へ入ってからまだ、たった2回しか給料をもらっていない小娘だ。

手にした給料も、最初に提示されていた額よりもかなり少ない。

12万を少しこえただけの金額だ。

あまりにも少ない額に「なにこれ!」と激しく憤慨してみたものの、

時はすでに遅く、あとの祭りだ。


 落胆したばかりだというのに、いきなり7000万のノルマが天から降って来た。

一般事務として農協へ入っただけに、ちひろに金融商品の知識はまったくない。

入ったばかりの4月。半日だけ共済に関する簡単な講習を受けた。

だがいまだに共済の契約書の書き方さえ理解していない、まったくの初心者だ。

それでも所長は今日からノルマ達成のために、知っている農家が有れば5時過ぎから

訪問しろと、ちひろに向かって言い捨てる。


 「訪問しろって・・・いったい、どこへ行けばいいんですか?」


 困り果てて尋ねても、「自分で考えろ」と軽く一蹴されてしまう。

ちひろだけではない。一緒に入って来た女の子も、7000万のノルマが課せられた。

「7000万なら安いほうだぜ。幹部の連中なんか君らの10倍の7億だ。

一ヶ月で7億の共済契約をとるんだぜ。並大抵のことじゃ目標には届かない。

自分のことだけで、精一杯だ。

君らの事なんか構っている余裕なんか、連中には、まったくないんだよ」

農協へ入って5年目だという先輩が、ちひろの耳へそっとささやく。


 「困ったことが出来たら、すぐ、俺のところへ電話しろ」と言っていた、

叔父の言葉を、ちひろが思い出す。

叔父は有機農法の先駆者で、このあたりでは名前の知られたキュウリ農家だ。

ちひろからの電話に、叔父はすぐに出た。


 「なに。7000万のノルマ?。チョロイ金額だ。今夜俺のところへ来い」

と素っ気なく電話が切れる。

チョロィ金額?・・・半信半疑のちひろが、5時になるのを待って叔父の家へ向かう。

ビニールハウスでキュウリを作っている農家は、気温の上がる6月に最盛期をむかえる。

逆にいえば春先から始まった収穫は、6月いっぱいでほとんどが終わりになる。


 曲がったキュウリをのばしていた叔父が、「来たか」と、腰を伸ばして立ち上がる。

キュウリは厳しくランク分けが決められている野菜のひとつだ。

1センチ以上、曲がっただけで、品質が、AからBランクへ転落する。

採りたてのキュウリは、水気が多く柔軟性もある。

1本でも多くAランクに入れるため、農家は曲がったキュウリを手で伸ばす。

当然。無理がたたって折れるキュウリも出てくるが、それらは自家消費にまわされるか、

近所の馴染みに、ただ同然で配られる。


 「お前。この間の呑み会で、祐三とデュエットをしただって?。

 たしかトマト農家の高橋の奴も、横から割り込んで一緒に歌っていたなぁ。

 7000万なら、この2人だけで充分だろう。

 よし。俺に着いて来い」



 農家の主な足は、毎日の仕事で使う軽トラックだ。

ちひろを助手席に乗せた叔父が、鼻歌交じりで祐三の作業小屋へ向かう。

農繁期のこの時期。午後の5時過ぎに、自宅へ戻っている農家は、まず居ない。

たいていの農家が選別や箱詰めに追われ、作業小屋にこもって仕事をしている。

叔父の家から、祐三の作業小屋まで10分とかからない。


 「居るかぁ」と叔父が入り口から声をかけると奥から、「うぉ~い」と応える

祐三の呑気な声が戻って来た。

「居た居た。最初の獲物が、お前さんが飛び込んでいくのを待ってるぜ」

叔父が獲物と言う部分に力をこめる。

呆気にとられているちひろの顔を見つめながら、

「いいか、獲物を追い詰めるときは、こうやるんだ。

見てろ。いとも簡単に落として見せるから」と、叔父が嬉しそうにニヤリと笑う。


 

(9)へつづく

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