第4章 それから

 社の前には五十人ほど男が集まっていた。人いきれだけで熱が満ち溢れ、湯気が立ち昇るほどの状態だった。

 足の間に白いふんどしを巻いただけの全裸の男達の身体。

 数十の目が見上げた社の踊り場の上には、袴姿の神主の姿があった。

 焼けて黒ずんだ肩に、赤らんだ背中、太って白くゆるんだ横腹まで、何のまとまりもない身体が目の前にあって、なんとも異様な感じが拭えなかった。


「おう、雪!」

 野太い声がかかると、鉢巻を頭に巻き付けた黒い顔が迫ってくる。


「おう、啓二」

 目から口まで大造りで四角い顔が、歯を剥き出しにして笑っていた。


「お前が裸練り出るなんてさ、台風でもくんじゃねぇか」

「そうか?」

 肩を竦めて鼻で息を吐くと、大きな手がポンと肩を叩いた。


「ま、いいさ。人数多いほうが、盛り上がるしさ。お、力水だ」

 神主と横に並んだ二人の男が、木の手桶を大きく振り回した。

 冷たい水が頭の上から降り注ぐ。


「おうっ!」

「やったろかぁ!」

「やるさぁ!」


 怒号に近いような声が四方から響き上がった瞬間、えっさ、えっさの声と共に、社の脇から、二本の担ぎ木に乗った神輿が現れた。

 八人の男に担がれた六角、黒塗りの屋根の頂点には、羽根を広げた鳳凰の飾りが揺れ動き、台の上には紫の鉢巻を巻いた二人の男が仁王立ちになっている。

 一斉に耳を聾する唸り声が上がり、神輿を中心に一気に人の群れが駆け寄った。

 否応無しに巻き込まれると、激しい肌の触れ合いが始まる。


「よっしゃぁ、よっしょぁ!」

 練りの中に身を置くと、えっさ、と言うより、よっしゃぁという唸りに近い掛け声であることがわかった。


 最初の違和感はあっという間に消え、激しく声を上げている自分に気づいていた。頭上から掛けられた水と、迸る汗で濡れた身体をすり合わせ、何とか中心に入りこもうと、あらん限りの力を込めて中心へとがぶり寄っていく。


 人の塊は、形を変えながら鳥居の元へと向かい、そうする中で何人かが倒れて、練りの下に巻き込まれていく。

 台の上に乗った二人が、激しく手を上下に振って、練りを活気づける。


「よっしゃぁ!」

 力の限り叫んだ時、遠巻きに見守る人の波の中に、思いがけない人影を見つけた。

 髪は短く切られ、アクティブなレイヤー風にパーマがかけられてはいたが、その顔立ちに見間違いようはなかった。


 彼女だ……。


「よっしゃぁ! よっしゃぁ!」

 背中を押しつけながら、見つめた表情。目を細め、少し微笑んだ懐かしい顔は、どこか眩しいものを眺めているように見えた。

 しかし、表情を確認できたのは一瞬で、練りの中心に巻き込まれると、その顔は人垣の中に消えてしまう。


 頭の中で、掛け声が踊り、久しぶりの目にした姿がない交ぜになって、さらに激しく身体をぶつけた。


「くっそお、よいっしゃぁ!」


 延々と続く裸練り。身体をぶつけ合う熱さに、いつまでも身を浸していたいほどだった。

 掛け声は境内に響き渡り、声が枯れるまで俺は叫び続けていた。





 振る舞い酒を申し訳程度に済ますと、集会場で身体を拭き、Tシャツとジーンズを身につけた。下足場の横に置かれた桶で顔を洗うと、軽く挨拶をして鳥居をくぐった。


 石段を下りながら、懐かしい顔が見えたことを思い出していた。


 彼女が一年半ぶりに実家に戻っていることは、村の噂で知っていた。


「綺麗なったぞ。一段となぁ。雪生、お前には手に余るってとこだったかなぁ」

 からかい混じりに知らされた時、ちょっとした里帰りだろうと思った。

 相当な決心だったろうと考えは巡らしたものの、すぐに東京へ戻るに違いないし、会う気持ちも毛頭なかった。


 きっと、元気にやっているに違いない。それでいいんだ。なんと言っても、『村はじまって以来の才女』だから。


 思えば、村で彼女のことが口に上れば、果ては外交官かニュースキャスターか、なんて調子の噂ばかりだった。

 でも、それも満更ではないだろうと思う。彼女なら、きっとできるはずだ。


 俺は、下りてきた石段を見上げた。彼女との思い出は、ここから始まっている。俺にとって、過ぎたほどの出会いと経験だった。


 けどさ。俺も、それなりにやってるさ。


 境内の木立の上には、夏の星空が輝いていた。狭くなった神社の入り口を抜け、川縁に続く小道へと足を向ける。


「雪生くん」


 俺は一度立ち止まり、しばらく背を向けたままでいた。


「雪生くん」


 もう一度、澄んで曇りのない、あの声がした。

 ゆっくりと踵を返した。そして、星明かりの下の姿を見つめた。

 フレアーなライトブルーのワンピースを纏い、唇を噛み締め、見上げた瞳。


「美紅さん……」

「久しぶり、だね」

 ゆっくりと、息を吐き出すように彼女は言った。


 俺は軽く頷くと、反射的にあたりを見まわした。


「帰ってきてたのは聞いてたんだ。元気?」

「うん。元気だよ。雪生くんも、だね。裸練りに出てるなんて、びっくりした。でも、凄く、らしかった。変わってないのに、ね」

 髪は短くなって、頬と眉の辺りに化粧の感じがあったけれど、驚くほどに印象が変わっていない。


 どうしてか、嬉しくてしかたがなかった。彼女が村に来ていると聞いた時は、早く帰ればいい、そんな風にさえ思っていたというのに。


「少し歩く?」

 彼女の方からそう言った。俺は、反射的に尋ねる。

「いいの? 見かけられたら、まずくないか」

「ううん」

 首を振った。

「気にする必要、ないよ。もう、私のこと、誰も縛れないから」


 俺は、ちょっと可笑しくなって笑ってしまった。そのツンとした調子が、高校時代を思い出させたから。


「……昔からじゃないの、美紅さんの場合」

「そうかもね」


 笑った顔はとても優しい感じで、一年半前の日々、思い詰めたように受験の事ばかりを話していた彼女は、どこにもいなかった。


 歩き出した夜の村は、ところどころから楽しげな笑い声や叫び声が聞こえて、今日が一年一度のハレの日であることを思い出させた。


「大学は、どう?」

 漏れ出した家々の明かりの中、こんな風に歩きながら話している事に、どこにも不自然さを感じなかった。あの駅のホームで、昨日別れたような気さえしていた。


「うん、いいよ。講義は面白いし、いろんな人がいる。何もかもが勉強って感じ」

「そうかぁ。やっぱ、頑張ってんだ、美紅さん」


 空を見上げて、俺は自然に漏れてしまった笑みを隠した。声だけで、どれくらい充実した日々を送っているかがわかる。

 負けずに乗り越えて、今を生きる彼女。俺は、間違ってなかった。


「ね、雪生くん」

「ん?」

 俺の家への曲がり角が近付いてきた時、彼女は手に持っていた小さな紙を取り出した。


「雪生くん、インターネットやってる?」

「あ、ああ。まあね。最近、少しは触ってるよ。こんな山奥にいるんだもの。少しは何とか考えないとね」

「……よかった。昔は嫌ってたから」

「うん、まあね」


 そんなことも言ってたなぁ、高校の頃を思い出して彼女を見下ろしたとき、メモ書きが差し出された。


「……メアド?」

 小さく頷くと、言葉を繋ぐ。


「迷惑じゃなければ……」


 俺は、大きく首を振った。そして、家へと続く細い砂利道の前で立ち止まった。

 彼女も立ち止まり、変わらぬ瞳のままで俺を見詰めた。俺は、しばらく黙っていた。不意に思い浮かんだ、あの日の眺望。もし、今もあの眺めが俺達の間にあるのなら……。


「憶えてる?」

 どうしても聞きたいことだった。


「なあに?」

「憶えてる?」

 ただそれだけを繰り返した。考えるように目を閉じた彼女は、一度俯いた。長い間考え込んだ後で、ゆっくりと、でも少し自信なさげに口を開いた。


「あの時のこと? ……山の上から見た、あの時のこと?」


 胸の中で溢れてくる想い。それはきっと、恋とかじゃない。でも、俺達の間に永遠に流れているものだ。


 一瞬、目頭が熱くなりかけて、慌てて飲みこんだ。


「雪生くん……雪くん」

 美紅は胸の前に開いた手を当てた。


「絶対、忘れない。なくならない。ここが、私の一番の美しい場所。宝物だよ」

「美紅……」


 俺は、手を差し出した。鼻をすすって、一度目尻を拭った美紅は、すぐに俺の手を握った。

 柔らかくて暖かい手が、俺の手をしっかりと握り締めてくる。

 俺も、力を込めて握り返した。


 そして長い事、何も言わずに見詰め合っていた。


「連絡、するよ。メールも書く」

「うん。待ってる。村のことも、教えて。私も、あっちのことを書くから」

「ああ、待ってる」


 手が離され、美紅は小観音の森の方へと歩いていく。

「またね、雪くん」

 一度だけ振り向くと、小さく手を振った。


「うん、美紅。頑張れよ」

 俺も手を振った。


 青いワンピース姿が、月と星に照らし出された木々の間を静かに歩み去っていく。

 その姿が小さくなり、やがてすっかり見えなくなっても、俺は村の景色を見詰め続けていた。そして美紅と繋いでいた手を開いて、静かに胸に当てた。



    完

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抱擁 里田慕 @s_sitau

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