第3章 3
雪と寒さに閉ざされた大山村の冬は、駆け足で過ぎていった。
三学期は、何の変わりもなく始まり、いつも通りの喧騒で満ちていた。俺達二年生には一番気楽な時期。三年生には、将来の人生への選択をしなければならない、最初の瞬間が迫っていた。
はしゃぎ、大声を上げて、TVや映画、音楽やファッション、あるいは性的な秘め事の話題に興じるクラスメイトの中で、俺は今まで通り蚊帳の外にいた。
それでも、時々言われる事があった。
「飯山さぁ、ますます無口にならんか?」
そうかもしれない。適当なことを口にして、仲間の輪に入っても構わなかったが、どうにも気持ちがついていかなかった。
美紅も、始業の日から元気に顔を見せていた。廊下で行き会う時も、楽しそうに他の女生徒達と言葉を交わしているようで、何らかの変化を感じ取ることができた人はいなかっただろう。
三学期が始まってからも、時間を見つけては屋上で会った。秋までの日々でそうだったように、背の低い街並みを見下ろして、取り留めのない話をしながら。
美紅の受験勉強のこと、国際関係の学科に進むつもりであること、都会の眺めのこと、日々の暮らしのこと――。
でも、そんな機会も次第に少なくなっていった。美紅の前には高い山が聳えていたし、何より美紅自身が、ほとんど憑かれたように、受験勉強へと気持ちを集中しようとしていた。
そして、もう一つ。俺達の間にあった恋に類するだろう感情が、どこかで流れを遮られたように滞り、表われ辛くなっていた。
あのあとでたった一度だけ、夜を共にしたことがあった。
時間をやりくりして、忍び合って。
どうしようもない性欲の昂まりだったような気もする。それとも、ずっと離れていた気持ちが繋がりを求めたのかもしれない。
どちらにしても、終わった後に感じたのは、虚しさに近いような感覚だった。
そして、毛布を身体にかけたまま呟いた美紅の言葉が、今も忘れられない。
「できちゃうんだね、あんなことがあっても……。私って、女って、最悪だ」
「……美紅」
「わかってるんだ、私。私は、自分のために、一つの命を消した。
だからもう、どんな人のことも責められない。もし、何もかもを失う気があったなら、できたんだもの」
思いつめた口調。天井を見つめたままの瞳。俺には、慰めることなどできなかった。なぜなら、俺についても同じ事が言えたからだ。
「でも、これしか選べなかった。だから、どんなことがあっても、誰が邪魔しても、私は私の道で頑張る。そうしないと、生きていけない……」
俺は、美紅の長い髪に手を当てた。美しい横顔も整った目鼻立ちも、以前のように輝いて見えることはなかった。愛しさよりも共感を強く感じて、身体を寄せることが不釣合いに思えた。
それから二度と、俺達が肌を合わせることはなかった。唇を触れ合うことすらもなかった。
やがて、受験組の三年生の姿が学校から消え、二月から三月への日々は、静けさの中で行き過ぎていった。
それでも時々は携帯が鳴った。
「うまくいったと思うよ」
試験の様子を聞くたび、『やったじゃん』『頑張れ』なんて月並みな言葉しか出ない自分に苦笑いしながら、それでも俺に連絡をくれることが嬉しかった。
私立とか公立とかに拘るのをやめた彼女は、できる限りの大学を受験し、とにかくレベルの高い場所を目指そうとしているように見えた。
やがて陽射しは強さを増し、ところどころで雪の間からぬかるんだ地面が顔を見せ始めた頃、一通のメールが携帯に着信していた。
一ヶ月近く彼女の姿を見ることもなかった、暖かい春の始まりの日だった。
『三月二十九日に出発するから』
その後には駅の名前とおおよその時間が書きこんであった。
ベッドの上に寝転んでディスプレイを眺めながら、少しだけ想いを巡らせた。見送りに来て欲しい、そういう事なんだろうか。
そんなことが必要なのか、考えた後で俺は、彼女の気持ちが手に取れるような思いがした。
俺の決して行けない場所。一度は同じ場所で、一つのものを見た俺達。今だって、美紅は俺にとってかけがえのない人だ。
美紅もきっと、俺のことをそう思っている。恋人同士とはいえなくなったかもしれないけれど、旅立ちの日に俺がいれば、きっと彼女はしっかりと前へと歩んでいける。
俺の姿が見えなければ、美紅の気持ちはどこか中途半端なままで、この村に残り続けるだろう。彼女はもう、ここに戻ってくる必要なんてない。美しいものだけを抱えて、ずっと遠くの世界へ羽ばたくべきなんだ。
バスを乗り継いでやってきたJRの駅。久しぶりに訪れた街は、近郊から買い物で訪れた雑多な人が行き交って、村とは裏腹の賑やかさに溢れていた。
春の陽射しが、薄青い空から斜めに注ぎ、駅前の小さな広場を満たしていた。
バスを降り、目の前の白い駅舎を見遣ると、改札に上がる階段の辺りに、小さな人だかりができているのがわかった。色とりどりの服を着た女の子達の中には、見覚えのある顔が幾つかある。
そして、その中心にはスラリとしたロングヘアーの姿があって、周りの女の子達とにこやかに話していた。
白いカーディガンを羽織った姿は、十数人の集まりの中で、ひときわ浮き立って見えた。
俯いて大きなバッグを抱え上げ、視線を戻した顔の中で、何度も見つめあった瞳が、一瞬こちらを捉えたのがわかった。
俺は軽く手を上げた。少しだけ上がった口の端が微笑を返す。それはほんとうに微かなもので、表情の変化に気づいた人はいないようだった。
大きな荷物を抱えた美紅は、改札を通り、ホームへと歩み入った。幾人かの子が、堪えきれないように手を目の辺りに当てるのが見えた。激しく手を振る数人。「頑張れ~」、そんな声も聞こえる。
美紅は、小さく手を振って階段の方へと歩いていく。もう一度、顔がこちらを向いて、何かを語りかけたように見えた。
俺は、緑の木の板が打ち付けられた線路沿いの小道へと歩み寄ると、長く伸び出たホームを見上げた。やがて、ゆっくりと歩く美紅の姿が、ホームの端に現れた。
女の子達が、こちらに向かってくる。俺は何気ない振りを装って、線路沿いに歩き始めた。線路一本隔てた向こうで、美紅の視線が一瞬俺を捉え、また女の子達に戻って手を小さく振った。
俺は、先が尖った柵沿いに歩き続けた。美紅の姿も、表情が読み取れる距離よりも遥か向こうへと遠ざかる。
そして少し坂になり、小さくホームを見下ろす場所に立ち止まった。駅のアナウンスが聞こえた。
『到着しますのは、特急電車です。この列車は……』
青と白の車体が向こう側から進入し、美紅の姿は電車の陰に消えた。
俺は、ただひたすらに見つめていた。停車した列車がゆっくりと動き出し、陽光の中を過ぎていこうとするのを。
胸の辺りに手を上げ、小さく振った。
そして、目の前を過ぎていく大きな窓。確かに、彼女の顔があった。
こちらに顔を向け、瞬きもせずに見つめる黒い瞳。すんなりとした稜線を描く顔立ち。少し笑ったような口元。
手が振られた。俺も、もう一度手を振り返す。
「美紅」
小さく呟いた。彼女の口も、何かを言ったように見えた。
けれど列車はスピードを上げ、あっという間に後ろ姿になり、視界の外に去っていく。
その間ずっと、俺は手を振り続けていた。寂しさよりも強く、言いようもなく溢れてくる気持ちは、懐かしさに近いものだった。
その時、ポケットの中の携帯電話がメールの着信音を立てた。
慌てて開いたディスプレイ。そこには、こんな文字があった。
『雪くん、私、行くね。さよならは言わない。絶対、負けないから』
並んだ文字をしばらく見つめ続けた後、俺は携帯を閉じた。
そして、心の中で呟いた。
「さよなら、美紅。俺も、頑張るよ」
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