第3章 2-2
『分娩室』と書かれた部屋の向こうに美紅の姿が消えてから、十数分が過ぎていた。
美紅の父親にも、俺の祖父・祖母にも内緒で病院への車に同乗させてくれたのは、美紅の母だった。
「一緒にいてあげて」
多くは語らず、俺の背中を押してくれた表情の意味が、俺には掴み切れなかった。
切なさとも、悲しさともつかない淡い色を浮かべた目の色と、口元。身体全体から醸す穏やかさは普段と変わりない美紅の母親は、何を思って俺を彼女の側にいさせてくれたのだろう。
書類にサインをして、『楽にするための薬』を投与された後、俺はずっと美紅の側に寄り添っていた。
つまらない話ばかりしていた。
学校で誰それがバカなことをやったとか、文化祭の騒ぎとか、もう忘れかけていた小さかった頃の思い出とか。
美紅も、軽く笑ったりしていた。どこか色の抜けた、空気のような感じだったけれど、緩んだところのないしっかりとした様子で、俺の側にいた。
何時間くらいそうしていただろうか。
「それじゃあ、如月さん」
名前を呼ばれて、ゆったりと着流した黄緑のセーター姿が消えた後、俺は自然と気持ちが一つにまとまらないようにしていたように思う。
ドアの向こうで行われている事を考えたら、到底まともに座っていることができそうになかった。
看護婦に背中を押された美紅が現れたのは、思っていたより、ずっと早い時間だった。待っていた間に比べ、あっけないほどに早かった。
ベッド脇の椅子に座っていた俺は、美紅を迎え入れるように立ちあがった。
ばらけた長い髪の下、綺麗な稜線を描く瞳が俺の目に合わせられ、一時微笑んだようにすら見えた。
ほとんど色のない頬。ぼんやりとした口元。目だけが辛うじてそこに踏み止まっているようで、俺は、何の言葉もかけることができなかった。
背の低い看護婦の手が離れると、美紅は目を閉じ手を両脇に落としたままで、額を俺の胸に預けた。
そして小さな声で、
「終わったよ」
とだけ言った。
正月が終わり、全ては元通りになったように思えた。隣県に住む親父の従兄弟が顔を出し、遠縁の子供達が騒ぎまわったりして、いつもは三人だけの家は、少しにぎやかになった。
こうして普通の暮らしが戻ってくるのだろうか。日々に追われている時はそう思えたりもした。
しかし夜に帳が下り、一人になると、胸の奥に鉛が詰まったような苦しさが訪れて、眠ることができない。処置が終わった後に見せた色のない美紅の表情が心の内を占めて、夜が明けるまで煩悶した日もあった。
そして、冬休みも残り僅かになった、一月の初め。
再び景色は白に包まれ、夜通し続いた雪は、縁側近くまでの積雪になって、辺り一面を埋めていた。
祖父も祖母も、新年の挨拶回りで家を空けたその日の午前中、俺はまた縁側に独り腰掛けて、純白に輝く世界に身を置いていた。
裸足の足を伸ばして、縁側近くまで迫り出した冷たさの中に差し入れた。
足型の小さな穴ができて、中が白く光って見える。
その時、古い記憶が何処かから降ってきた。まるで、この景色の中に埋めこまれていたように。
そうだ、あの日、俺は……。
何時間も待っていた、大雪の日。何度親父を問い詰めても、爺ちゃんにすがり付いても、『その内、戻ってくるから』としか教えてくれなかった。
そして、何日経ったのだろうか。数日だったか、それとも、一ヶ月だったのか、よくはわからない。ただ、雪の日には必ず作ってくれた雪だるま。こんなに降り積もれば、絶対に作りに来てくれる。そう信じて待っていた。
夜が更け、親父が声をかけても、爺ちゃんが手を引っ張っても、絶対に動かなかった。
「母ちゃんが帰ってくるまで、ぜったい嫌だ」
その後のことは憶えていない。眠ってしまったのかもしれない。親父か爺ちゃんが、無理矢理家の中に入れたのかもしれない。
どちらにせよ、俺の母は戻ってこなかった。俺は残され、数年後には父も他界し、祖父と祖母だけが残った。
そうだ。そうなんだ。
じっと雪を見つめていた俺は、あの日からずっと押さえていたものが、頬を伝うのがわかった。
それは、堰を切ったように溢れて、どうしても止まらない。
そうだ、俺は、もう一人の俺を殺したんだ……。
後悔などではなかった。ただ、切なくて、報われなかった。悲しかった。
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