第3章 2-1

 気がつくと、一面が白に包まれていた。

 ぼんやりと映していた神社の境内。何か白い霞みが下りているような気はしていた。


 石段に座って膝を抱えてから、どれくらい経ったのか。


 スウェットの上下だけの身体は、凍るほどに冷たかった。

 折り重なった枝の向こう、真っ黒な空を見上げた。ゆっくりと舞い降りてくる白が頬の上に落ちて、冷たい雫になる。


 このまま雪に埋もれてしまうのも、いいかもな。


 到底、家にいる事はできなかった。かと言って、如月邸に行ったところで、美紅はそこにいない。


「戻るから」

 それだけを告げて出てきた手の中には、携帯電話があった。


 着信履歴には、何の番号もない。美紅は、どこにいるのだろう。電話もできない場所にいるのだろうか。


 独りだと思った。

 そして、報われない気持ちだけが満ちていた。


 悪かれと思ってした事などほとんどない。小学校の時の給食ボイコットだって、中学の時に先生を殴った時だって、高一の時の放送室占拠だって、坂尻先輩との経緯だって、俺はただ、自然に思うままやってきた。

 今度のことも、ただ、好きな人と当たり前のことをした、その結果のことだと思う。


 雪が吹き溜まっていた足もとの石段には、新たな白が積み重なっていく。


 ほんとうにこのまま、埋もれてしまう方がいいのかもしれない。


 俺が思うように振る舞った時、決してよいことは起こらない。周りはざわめき、嵐が起こり、傷つく人が出る。きっと、それが俺の本性なんだ。


 寒いな……。

 息が顔の周りを包み、通り過ぎていく。

 見下ろした石段は、十段目くらいで闇の中に落ち、その先は奈落に通じているように見える。葉のざわめく音が辺りを包み、微かな陰影を後ろに、闇から現れた白が積み重なっていく。


 初めて、美紅と抱き合った日のことを思い出していた。

 でも今度だけは、嘘にしたくなかった。いや、絶対に嘘なんかじゃない。あの瞬間の結果がこれだったとしても、彼女を愛しいと思った気持ちに、何の嘘もないはずだ。


 立ち上がって石段を上り、くぐった鳥居の向こう。

 一つだけついた電灯に照らされて、社の前の地面は少しのほつれもない白いベールに包まれていた。


 そのまま、そこに立ち尽くしていた。

 どうすればいいんだろう。美紅の居場所さえわからない、俺にできることはなんだろう。

 このままでは、美紅が未来まで捨てて守ろうとしたものは、新しい命は、何処かへ捨て去られてしまう。それで、いいのか。

 何もできないまま、ここで立ち止まっていていいのか。


 ……だめだ。

 俺のすることが、どんなに嵐を巻き起こしても、俺にはしなければならないことがある。もう一度、如月邸に行こう。どんなに頑な人間でも、言葉は聞こえるはずだ。俺の言葉が聞こえるなら……。

 激しく踵を返した瞬間、信じられない眺めが、振り向いた視野に映った。


 鳥居の下から、人影が上がってくる。ベージュのニット帽が覗き、緑のマフラーが現れる。厚手の白いコートを羽織った上半身、そして、俺を捉えた瞳。


「美、紅……?」

 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。幻か、幽霊かとさえ思う。


「やっぱり、ここだった……」

 小さな声が聞こえた時、実感が一気に押し寄せた。駆け寄り、肩に手を回すと、激しく抱き締めた。

 細い身体が、確かにそこにあった。肩口に当たる息遣い、背中に回された腕の感触。


「冷えてる……。雪くん、大丈夫?」

 静かな声だった。身体を放し、コートのボタンを外そうとする。

 何をしようとしているのか測りかねてから、その手を押さえる。


「いいよ、美紅。俺は大丈夫」

 俯いたまま、彼女は手を止めた。


「ごめんね、連絡できなくて。雪くんの家に電話したら、行き先がわからないって言ったから、ここかもって思った」

 細く、力のない声だった。


「じゃ、歩いて? どこから? そんな身体で」

「ううん、母の車で来た。今、姉さんのとこにいるから……。雪くんが家に来たって、知らせてくれて」


 そうか、と思う。身重の身体で、こんな雪の中を来たのではないことがわかって、ほっとする。しかも、お母さんの車できたということ。

 やはり、数時間前の戸惑ったような表情は、敵意とかではなかったんだ。


「そう。よかった……」

「うん。私は、大丈夫。元気だから。でも、雪くんが家を飛び出したって聞いて。すごく心配だった。連絡しなきゃ、いけなかったのに……」

 弱々しい声だった。俯いたままで、らしくない自責するような調子で満ちている。


 しばらく躊躇うように息をつくと、コートの下から伸びた手が俺の腕を握り締めた。


 ずっと夜の雪にさらされていた俺よりもさらに冷たい手。


 爪を立てるほどに強く力を加えられる痛みに、俺は、言葉にならぬ思いが過ぎるのを感じていた。


「美紅……」


 俯いた瞳の上に、目蓋が下りた。眉根が寄せられ、噛み締めた歯が、唇の間から覗いた。

「雪生、私……」


 その先は、聞きたくなかった。言葉より先に、身体全体から伝わる悲愴な空気が、恐怖に近い感情を呼び覚ます。俺は、美紅の肩を両手で挟むと、大声で叫んでいた。


「ダメだ、美紅。一緒に行こう、こんな村、出て行けばいいじゃないか。俺達だけだって、生きていける。俺が働けば……」


 目は閉じられたままだった。


「大丈夫だ。大学だって、勉強だって、後から取り戻せる。美紅も言ったじゃないか、『新しい命』だって。一緒にやっていける。俺が頑張るから!」


 顔は伏せられたままだった。俺の声だけが境内に響き、雪の中に消え去っていく。


「……ダメだよ、雪生。だって、そうしたら、何もかもをなくしてしまう。出て行ったら、きっと帰ってはこれない。雪生は、高校辞めなきゃいけなくなる。私の未来も、変わってしまう。そして……」


 握った手に、さらに力が篭った。


「この村の景色も……。全部を失って、一つも残らない」

「そんなことない。俺と、美紅がいれば、それで……。お父さんだって、わかってくれるはずだ」


 ゆっくりと頭を振った顔を見た時、俺は、美紅の頬の辺りが赤く腫れていることに初めて気づいた。


「ダメだよ、雪くん。お爺さんとお婆さん、残していけないよ、雪くんだって。そんなこと、できるわけがない」


 美紅の声は、どこまでも静かで、押さえた調子だった。ただ、俺の腕を握り締めた指先だけが、彼女の胸の内を伝えているような気がした。


 それでも、報われない気持ちが胸の内全てを占め、肺の奥から痛みの塊が絞り出てくる。止められない。


「……どうしてだよ、どうしてだよ、美紅。なんでそんなに落ち着いていられるんだよ!」


 腕を握った手が、激しく震え、爪が食い込むのがわかる。でも、身体の痛みよりずっと、その後で吐き出された言葉が心と身体の全てを打って、俺は立ちすくむことしかできなかった。


「落ち着いてなんかいない! だって、私の身体の中に、いるんだよ。誰よりわかってる。産みたくないわけなんか、ないじゃない!

 でも、でも、だって……」


 震える肩。俯いた目から溢れ、雪の上に落ちる涙。きつく握り締めていた手が離れ、その場にうずくまった時、俺も同じようにしゃがみ込んでいた。


 両腕をコートの背中に回した。包みこむように抱きかかえると、俺はきつく目を閉じた。


 さっきまで握り締められていた腕を何かが伝わっていく。


 気が付いて僅かに目を開けると、赤が散っていた。手首の下から親指を伝い、真白の上に、点々と……。


「……ごめん。美紅。俺、ダメだな。辛いのは、俺じゃない」


 ただひたすらにしゃくり上げる背中。それでも、くぐもった小さな声が聞こえた。


「違うよ、雪生だって、ううん、雪生の方が……」


 それだけで俺には十分だった。そのまま黙って抱き締めていると、激していた気分は潮が引くように消え去り、抜け落ちたような感覚だけが残った。


「行こう、美紅」

 肩に手を添えると、ゆっくりと立ち上がらせた。


 後は、何も言葉を交わさなかった。暗い石段を下りると、入り口でライトを灯す小さな軽乗用車を目指し、ゆっくりと歩いていくだけだった。

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