第3章 1-2
美紅からの連絡を待って、二日間が過ぎた。既に学校は冬休みに入っていて、携帯電話以外での連絡は不可能だった。
うつらうつらしては、すぐに目覚めを繰り返す長い夜。幾度か自宅の電話を鳴ら
そうと思ったけれど、そんな危険を冒すことはできなかった。
こんなことなら、ネットのメールアドレスも聞いておけばよかった。コンピュータの画面を見ながら、動けない自分に歯噛みしていた。
何をしても、どんな場所にいても、美紅の姿と声が離れずそばにあって、ただまんじりとしていることが罪に思えた。何かをせずにはいられず、意味もなくマイケルを連れては散歩に出かけた。
けれど、決して川沿いの道を西へと向かうことはしない。小観音の林に近づいてしまえば、自分を制御する自信がなかった。橋の上から見える白く化粧した村の景色。ゆっくりと流れる冷たい水面を見つめて、願うことしかできない。
どうか、美紅が守られるように。彼女を傷つける全てが遠ざかるように……。
「雪生、雪生はいるか」
ベッドに横になり、低い天井を見つめていた三日目の夜。土間から響いてきたのは、聞き慣れた太い声だった。
「雪ぃ!」
家中に鳴り渡る声の調子が、俺の背中に慄とした予感を走らせた。飛び起きて襖を開け、居間の床を軋ませながら応える。
「……なんだ、爺ちゃん」
板の間に足を踏み入れ、土間を見下ろした時。
グレーの作業着に煤けた茶のジャンパーを羽織った出で立ち、灰色の帽子の下の厳つい表情、吐き出される白い息。
そして灰色の眉の下、俺を真っ直ぐに見上げた、目。
その、奥に宿る色。
「雪生」
巌のように仁王断ちになった姿、そして低い声とともに、俺は何が起こったのかを悟っていた。
「爺ちゃん……」
「雪、そこに座れ」
顎でしゃくったその様子は、決然としたものだった。
足の下の板張りが、ぬかるみになって足が動かない。勝手に奥歯が噛み締まり、腕が震える。
「爺ちゃん」
声が出ない。何か言わなくていけないんだ。美紅さんを守る、俺の気持ちを証明できるなにかを。
「座れ、雪。話は、わかっとるな」
座ることはできなかった。爺ちゃんの顔を見ればわかる。その瞬間に、俺は屈服したことになってしまう。
「違う、爺ちゃん、俺は……」
「何が違う。いっから、そこに座れ。如月先生からおよその話は聞いた。お前にも、聞かなならんことがある」
「違うんだ、爺ちゃん。俺達は、俺と美紅さんは、適当な気持ちで付き合ってたんじゃない。覚悟は、あるんだ。俺達は……」
皺の刻まれた口元がさらに引き締まり、目を逸らさぬままに首が振られた。
「そんなことやない。気持ちとは別の事だ」
何かを言わなくてはいけない。慣れた土間の眺めが、ひどく狭く、歪んで見えた。
「雪。好きじゃすまんこともある。突き通しても、なんもよくならんこともある。お前の気持ちがわからんわけじゃない……」
違う。そんなんじゃない。
握り締めた手の平に、つめ先が食い込む痛み。同時に、足の下のぬかるみが解た。
俺は、美紅の、かけがえのないひとが見つめる先にまっすぐでいたいだけだ。俺の気持ちなんて、どうでもいい。そんなこと、最初から決まっている。
話さなきゃいけない。どんなことがあっても、彼女と。
「雪! 待て」
一瞬肩にかかった手を振り払って、俺は外へと飛び出した。
外は真っ暗だった。
星の光すらない。
ただ、美紅の顔だけが全てを埋め尽くしていた。
どう走ったかなんて、わからない。
ただ、触れると痺れるほどに冷たい、鉄の感触。内側から閉まった門扉を登り越えると、玄関を照らす灯火を目当てに、植木の並んだ庭を抜け、格子のはまった引き戸の前に立った。
握った拳で力の限りに叩く。二度、三度、四度。
「開けてください!」
こだまが返るほどの声で叫ぶと、また叩く。戸が軋み、はめられたガラスが鳴った。
「開けるな」
小さな声が中から聞こえた。
「でも、これでは……」
玄関に下りる音と、どこかで聞いた女性の声。中の電灯が付けれられると、ガラス越しに背の低い影がうつった。
開けられた扉の間から見上げた丸顔の中で、小さな目が一瞬視線を合わせて、すぐに伏せられた。そして、小柄な頭越しに見えた広々とした玄関に立つ、背の高い、細身の男性。
白衣姿しか知らない俺にとっては、トレーナーとソフトパンツのくだけた姿が、ひどく違和感を感じさせた。
「用はないはずだ、雪生君」
腕を組んだまま、抑揚なく発された声がひどく冷たく感じた。
「美紅さんは。話をさせて欲しいんです。美紅さんは……」
「美紅はいない。話すこともないよ、雪生君。話しても何も変わらない。意味がないだろう」
「どうして。美紅さんと俺の間のことじゃないですか。いい加減な気持ちじゃないです。美紅さんだって、真剣に……」
堪えなくてはいけない。心を乱したら、何もかもが終わってしまう。
「気持ちは関係ない。自分のやったことを考えろ。やっていいことと悪い事があるだろう。高校生程度で付き合いのまねごとをすれば、こんなことになる。美紅には、もう会うなと言っておいた筈だ。隠れて会って、こんなことになったら、自業自得だろう」
低く繋がった声には、糸口が見つからない。違う、そんなことを言いたいんじゃない。美紅の気持ちを、声を聞きたい。気持ちは、決まっていたはずなんだ。
「違うんです! 美紅さんの気持ちが……」
「関係ないといってるだろう!」
怒気を含んだ声が響き渡った。やや伏せ気味になっていた落ち窪んだ眼窩の中で、険しく俺を射る激しい目の色と共に。
「……お父さん」
扉に手をかけたままだった小さな肩が振り向き、俺と同じ方を見た。
「お前は黙ってろ。最初から言ったろう、子供の付き合いは、子供の付き合いだ」
どうすればいい。俺は、どうすれば美紅を守ることができる?
「雪生!」
言葉を捜して歯を食い縛った時、後ろから太い声が響いた。
「飯山さん」
腕組みのまま、頭越しに視線をやったその先に振り向くと、がっちりとした身体が、肩で息をついていた。
「……爺ちゃん」
「雪生、失礼だろうが。帰るぞ」
感情のこもらない声だった。
どうしてだよ、爺ちゃん。俺は、いい加減な気持ちで言ってるんじゃない。爺ちゃんはわかるはずだ。
「困りますよ、飯山さん。ほんとに、困ったお孫さんだ」
灰色の眉の下、色のない目が閉じられると、ゆっくりと頭が下げられた。
「……申し訳ない限りです。よく言って聞かせますから。なにとぞ、穏便にお願いします」
腕組みを解いた美紅の父親は、軽く息を吐くと、小さく頷いた。
「それは、さっきも言った通り、こちらこそです。他に漏らすことだけは……」
無言で頷きを返す祖父。
背中を、どうしようもない震えが過ぎる。これはなんだ。どういうことだ。なぜだ、これは俺達のことじゃないか! 俺と美紅の!
「違うんだ! そんなんじゃねぇ!」
「雪ぃ!」
玄関の中へ詰め寄ろうとした瞬間、後ろから腕が回り、両腕を押さえつけられた。
「放せ、爺ちゃん! 俺は、俺は……」
「ダメだ、雪。ダメだ」
身体を捉えた腕は岩のように重く、どう抗っても解けない。後ろへ引き摺られると、目の前で玄関の扉が閉まる。
すぐに電気が消え、鍵の落ちる音が響いた。
「どうしてだよ! 俺は、本気なんだ! 何にもいらない。俺は!」
頭の中で血が沸騰して、まともな言葉が紡げない。
美紅、どこにいるんだ。美紅。
俺の声は、もう、雄叫びのようでしかなかった。
そう思う。
それでも、祖父の腕は決して緩められることなく、俺を押さえつけたままだった。
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