第2章 3

 まだほの暗い朝の空気の中に踏み出すと、ジャンパーの首筋から背中へと暮れかけた秋の空気が忍び込んで、自然に身体が引き締まるのを感じた。


 ナップサックの肩紐に手をかけて背を伸ばすと、冷たい空気を仰ぎながら、橋のたもとまでやってきた。少し高くなったその場所から見渡すと、視界の及ぶ限りに淡色の世界が広がっていた。


 弧を描きながら流れる川面から立ち昇った水のおとし子が、緩やかに掛けられた白いベールになって、やまあいのこの村を包んでいる。

 見下ろした川原には、背の高い葦が僅かに頭を覗かせるばかりで、そこから広がる刈り取られた田の眺めは、白の海の下に深く沈み込んでしまって見えない。西へと目をやれば、静まった海面に聳える岩のように、小観音の林が、緑と赤茶の半身を霧の海に浮かべていた。


 おぼろなスクリーンに遮られて淡く光る朝日を見つめた。そして俺は、一時目を伏せた。


 包み込む冷たい湿気が、身体に心地良かった。


 余分なことを考えるのはやめだ。今日は、美紅と……。


 足音が聞こえる前に、気配を感じていた。西に伸びる道を見遣ると、閉ざされた視界の中に人影が浮かび始めて、誰より身近な女性の姿を取った。


「おはよう、雪くん」


 俺と同じようにリュックを背負ったクリーム色のダウンジャケットと淡いピンクのトレーニングパンツ姿が、小さく手を振った。そこから小走りに橋へと上がってくるまで、ベージュのニット帽の下で、踊るような様子を見せる瞳が俺の顔を捉えたまま放さなかった。


「おはよ、美紅」

「すごい朝もやだね。少し、待つ?」


 俺は首を振った。早い時間の内に、村を出てしまいたかった。ただでさえあらぬ事まで噂にされているのに、こんなハイキングスタイルを目にされては、何を言われるかわからない。


「うん、そうだね。行こうか」


 橋から川原へと下りていく小道へと先に立つと、すぐに手の平に冷たい感触が添うのがわかった。その柔らかさを握り締めると、白の海原へと忍んで行く。


 背の高い雑草や低木が茂る川原には、細い踏み分け道が伸びていて、一歩進むごとに次の道筋がもやの中から姿を現す。

 川面のたゆとう音が、視界には適わない右手の方向から、緩やかに響き続けている。

 まだ冷たい空気と淡色の世界、そして暖かさを増し始めた手の柔らかさを胸に留めながら歩き続けていると、斜め後ろから面白そうに息を吐く音が聞こえた。


「何?」

「ううん、なんか、駆け落ちするみたいだな、と思って。わざわざ、

もやに隠れて北の方に行くなんて」

「……半分、そんなようなもんだろ?」


 広がり始めた踏み分け道。隣に並んだ美紅は、少しだけ真面目な調子になって言った。


「そうだね、雪くんもわたしも、家族には内緒の遠出なわけだし」

「どうやって、言い訳してきたわけ? 俺がぶらぶらすんのは爺ちゃんも婆ちゃんもわかってっからさ、別にどうってことはないけど」

「な~んにも。黙って出てきちゃった」

「え? まずくない? 帰るの、夕方になると思うよ」


 俺は、びくっとして美紅の方を向いた。ニット帽の中に纏め上げられているのか、後れ毛を見せた首筋が、少し俯いてからこちらにひねられた。


「書置きはしてきたけど。『夕方には戻るから』って」

「あっちゃ~」

 俺は少し上を仰ぎ見て、ため息をついた。


「そんなんじゃ、犯人が俺ってバレバレじゃん。ホントにそれが、学年三位の頭のすることか?」


 芝居がかった俺の調子に、彼女はクスクスと笑った。


「雪くんこそ、真面目に言ってないでしょ。わたし達が一緒にいなくなれば、どうやったって言い繕えないよ。最初から、計画に無理があるのよ」


 言葉と裏腹に指を絡めてくる手を、俺も柔らかく握り返した。


「……ほんと、ただの跳ねっ返りのお嬢さんだよな、美紅って」

「そんなの、我が家じゃ周知の事実だよ。母なんか、なんでお姉達とそんなに違っちゃったのか、って昔から愚痴ってるから」

「ああ、わが幻想、ここに破れたりってか?」


 美紅は、またクスクスと笑った。


「幻滅した? 戻るなら今だよ」

「……バカ美紅」


 伸びやかで屈託がない口調の一方で、奥に秘めた強い想いを、俺は知っていた。


 踏み分け道は、やがて山の斜面へと続く自然歩道へと繋がり、俺達は落ち葉の折り重なった山道へと歩みを進めた。陽差しが角度を増して木立の間から注ぎ始めると、冬の入り口を思わせる冷たさは少しずつ遠ざかり、朝もやが消え去る頃には、村の眺めも遥か眼下に姿を隠していた。


「うわ、この橋、板が抜けてる」

 整備が不行き届きな自然歩道は、所々で滑りやすくなったり、木の階段が崩れたりしていて、単調に歩ける場所ばかりではなかった。


「ほら、手」

「うん」

 その度に手を差し延べあったり、足元を確かめたりしながら歩いているだけで楽しかった。そして、登りやすい場所に来ると、取り止めもなく口を開き合った。


「いいなぁ、雪くんは。もう、代数なんて見たくもないもの」

「美紅の家なら、私学だって大丈夫だろ?」

「できるだけ、親の負担になりたくないのよ。迷惑ってだけじゃなくて、縛られるでしょう? お金がもの質になるだろうから」


 張り出した岩場の下には、彩りを越えて、寂しさを増した茶色の山肌。

「賢いって、俺が? 北高なんて、まぐれ当たりもいいところだったんだぜ。落ちたら、中卒でいいと思ってたもん」

「ううん、私なんかより、雪くんの方がずっと頭がいいよ。知識と知恵は違うんだから。勉強したら、きっと何でもできるようになると思う」

「買い被りだよ」


 岩場から迸る、澄んだ水。合わせた手で水を汲み取ると、ニット帽の頭が、手と顔の間に割り込んできて先に水を飲んでしまった。

「冷た~い」

「あ、ひでぇ。自分で飲めよ」

「やだ。手が濡れるもん」

「俺のはいいわけ?」

「うん」


 たどり着いた頂き。心地よい疲れを背に、遥か眼下を見下ろすと、村の入り口だけが微かに見て取れた。


「小さいね……」

「ああ、小さい。嫌になるくらいだ」

「出たい? ……ごめん、意味ない質問だったね」

「ううん、そんなことはないよ。俺も、気持ちだけは、美紅と同じだと思う」


 足を投げ出して腰掛けた岩場、腕を組んで寄せた身体の温もりが嬉しかった。


「ネットとか、少しやってみれば違うかも」

「あそこには、何もないよ。言葉だけが飛び交ってるだけだから。無意識の共有感がないと、言葉なんてただの記号だと思う」

「……そうかもね。私も、そんな壁に突き当たるのかな。春になると……」

「美紅は大丈夫だよ。狭いところから見てないから」

「それは、雪生もでしょ」


 斜面にかい間見えた、暗褐色の幹と、四方に広がった枝。地面には、イガに包まれた実が見えた。


「あ、拾っていこう。食べれそうだ」

「ホント? 大丈夫そう?」

「大丈夫って……、ほら」

「うわ、凄い。でも、家に帰ったらなんて説明しよう。雪生くんと一緒に山に行ってましたって?」

「いいんじゃない。どうせ、帰ったら延々説教だよ。親父さんの」

「バカ」


 そして、正午過ぎ。山頂を越えて暫く行った場所に、くすんだ木々の色とは不釣合いに目立つ、赤茶色の大きなログハウスが見えた。

 二階建てにガラス戸も填めこまれた、集会場にもできそうなほどの建物だった。


 入り口へと登る木の階段の脇には、『自然歩道展望休憩所』と木彫りがあり、その下には小さな鉄のプレートで『一九九八年度山平郡整備事業』と填めこまれていた。


「綺麗だね」

 今度は先に立って入り口のサッシを開けた美紅が、総木作りの広い空間を見上げて呟いた。

 一部吹き抜けになった二階部分の天井には太い木の梁が左右に渡されて、ちょっとした景観だった。


「中学の時にいっぺん来たけど、ちっとも変わってないな」

「私は初めて。バカなもの作るなぁとは思ったけど」

 俺は、軽く息を吐いて笑った。今では、美紅らしい言い方だと思う。


「そんなこと、思ってたんだ。みんな、結構大喜びだったと思ったけど」

「ハイカーもいないマイナーな山道に、こんな大きなもの、いらないでしょう?」


 言って、広間の真ん中に設えられた分厚い木のテーブルに、背から外したグリーンのリュックを置いた。


「……二階に上がらない? 上にもテーブルと展望台があったと思うよ」

「あ、うん。やっぱり、景色がいいところで食べたいよね。って、勝手な言い草だよね。さんざん貶しておいて」

「あるものは、利用させてもらわないと」

「雪くんも、悪人だね~」


 笑いながら二階に上ると、張り出したバルコニーに立った。リュックを外して手すりに身体をもたれると、木々の上を越えて広がる山々の稜線が、俺の視線の向こうにあった。

 ニット帽を取って結い上げた髪を見せた美紅が、肘をついて俺の横に並んだ。


 緑とそれぞれに深さの違う茶、僅かに残る赤が彩る山並みしか見えない。折り重なり、時に大きく突き出ながら、天との境界を失う遥か彼方まで、稜線は続いている。ただただ空は青く、時折木を叩くような音が響く他は、何にも聞こえない。風すらも、動きを止めているようだった。


「前言撤回」

 隣で呟く声に右隣をうかがうと、唇を閉じて少し目を細めた表情が、考えを巡らすように、視線を下に落とした。俺は、景色に背を向けて、手すりを後ろ手に空を仰いだ。


 彼女が何を想っているか、わかるような気がした。

 そしておそらく、自然にそれがわかるのは、俺の他に誰もいないだろうとも思った。


「俺さ、ここが好きだよ」


 斜めに背を向け合った俺達。手すりに絡めた俺の腕に、美紅の腕が寄り添った。


「私も、ここが好き。きっと、どんな場所に行っても、ここより美しい場所はないと思う……」

「……美紅の目には、見えてるんだ」

「うん、そうだよ」


 皆の目には見えているのだろうか。そうは思えないのは、俺の独り善がりなのか。


「忘れないで、取っておく。雪生と、同じ眺めを見ている私を。それで、許してね……。それ以上は、どうしても約束できない」


 静かに彼女は呟いた。俺に言うとも、自分に言い聞かせるともつかない口調で。

 何を許すと言うのだろうか。

 同じ宝を持っている俺達の共にする想いは、その瞬間だけで永遠だと思う。それ以上は、望む事などできはしない。たとえ、行くべき道が全く違うとしても。


「謝る事なんて、ないよ。俺さ、馬鹿だから今しか見えない。先の事なんて、どうでもいい。今の美紅は、美紅だから」

「そうだね」

 もたれていた身体を起こすと、美紅は大きく伸びをした。

 そして、ポンと俺の胸のあたりを叩くと、軽い調子で言った。


「私も、今の雪生が好き。……ね、お弁当食べよう。頑張って作ったんだから」

 お、ラッキー、と言いかけて、俺ははたと考え込んだ。

「あれ、どうやって作った訳? お忍びだろ?」

「母と一緒に」


 嬉しそうな背中と、リュックから取り出される大きな包み。広げられたランチボックスには、大きなオニギリや、卵焼き、から揚げやフライドポテトなどの揚げ物が並んでいる。

 どう考えても、付け焼刃でできる類いのものには見えなかった。


「びっくりした? やっぱり、初デートにはしっかりした準備が必要でしょ」

「って、どうやって……」


 美紅はクスクスと笑った。


「父はともかくね、母は結構認めてくれてるのよ。姉さん達がああだから」

「じゃ、置き手紙ってのは……」

「ああ、ウソウソ。本気にしてた? びっくりさせたかったし、雪くんのこと。だいたい、父に知れたら、捜索願が出るわよ、下手すると」

「そっか。やっぱりさすがだわ、美紅さんは。お母さん、味方につけちゃってるんだ……」

「さあ、何処までの味方かはわからないけど。でも、どうしてか雪くんのこと、悪く思ってないみたいなんだ」


 いつも穏やかで、激したところが微塵もない、美紅のお母さんの表情を思い浮かべていた。そう言えば、小さい頃から、あからさまな視線で見つめられたことは一度もなかった気がした。一番いい加減な格好でうろついていた、中学時代ですら。


「さ、食べよう。熱いお茶も持ってきたからね」

「お、ツボ心得てる~」

「でしょ?」


 俺は、一番大きなオニギリを手に取ると、かぶりついた。余すところなく貼られた海苔の風味が香ばしくて、あっという間に一つ食べ終わってしまった。


「う~ん、いい食べっぷり。はい、これもどうぞ」

 箸でつまんだ卵焼きが、口の前に差し出された。


「はい、あ~んして」

「よ、よせって。自分で食べる」

「いいでしょ。誰も見てないよ」

 ニコニコと笑う美紅の勢いに押されて、口の中に卵焼きを入れられてしまう。

「おいしいでしょ? チーズ入りだよ。袴田さんのとこの自家製の奴」


 甘味と酸味が柔らかく広がって、目一杯になった口のままで頷いた。満足そうな表情で見ていた美紅も、小さめのオニギリを一つ手に取って、口に運んだ。

 秋の澄んだ空気と、山を登ってきた心地良い体の火照り。そして、美紅の手製の昼食。




 ――そんな一日の終わり、「最高のデートだった」と告げた気持ちの何処にも偽りはなかった。

 そして、電話の他には声を聞く事が難しくなった秋の終わりの日々、時折思い出すごとに微笑んでしまう自分がなんともくすぐったく、愛しい人がいることの幸せとはこういうものなのだろうか、そんなことを考えたりしていた。


 だからこそ、十二月の始まりの夜更けに突然呼び出され、小観音の林の裏手で向かい合った彼女の言葉を、どう扱っていいのかわからなかった。


 パジャマのズボンに丈の長いベージュのコートを羽織り、緑のマフラーを首に巻いた美紅は、冷たい月の下で、長いこと白い息を吐き出していた。


 俺は、松の木のごつごつとした幹に身体をあずけ、彼女が口を開くのをじっと待っていた。彼女も、半歩ほど離れた木の幹に寄りかかって、口を開く時を測っているように思えた。


 電話越しに聞こえた、あの夏の日以来の、いや、それ以上に深い何かを秘めた、静かで切迫した声の色。薄着で飛び出してきた俺は、身体の芯まで染み透る冷気を堪えながら、その瞬間をじっと待っていた。


 五分だったろうか、それとも、三十分だったろうか。ずっと俯いていた美紅は、俺とは目を合わせずに低い声で言った。


「……今日、病院に行ってきた。バスで、街まで」


 そして、地面を蹴った後、俺の目を見た。揺れ動きがなく、全ての光を吸収していく、海の底のように奥深く色なき色が眼前にあって、月の光がその背中から降り注いでいた。


 ゆっくりと開いた口と、はっきりと告げられた言葉。


 俺は、激しい動悸と、背中をよぎる形容し難い震えに、しばらく発すべき言葉を見つけられずにいた。


 後悔なのか、満足なのか。絶望なのか、幸福なのか。


 ただ、未だ知らなかった瞳の色と、言葉の響きだけが長く胸に残り続けた。


「……私のおなかの中に新しい命がいる。雪くんとの……」

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