第2章 2-2
停学処分を受けてから二週間。大山村の短い秋は、すでに行き過ぎようとしていた。
十一月の声を聞くと、北の山並みから吹き降りてくる風が、冬の冷たさを予感させ始める。空は、ますます澄んで高くなり、あとしばらくすれば、白く薄い雲が遥か上空に霞みをかけ、秋の終わりを告げるだろう。
それでもまだほの暖かさが残る正午過ぎ、俺は稲の切り株だけが残る田に立って、祖父の手伝いをしていた。
長く伸びた木のはざに干してある稲を順繰りにおろし、脱穀機にかける。そして、穂の落ちた藁束を縛り上げると、次々に積み上げていく。
この作業を始めて三日目。二反近くある田からとれた全ての稲を脱穀し、積み上がった藁束は、だいたい三m四方、俺の身長と同じくらいの高さになっていた。
「雪ぃ、先に帰っとるぞ」
祖父の声が、山積みになった藁束の下から響いた。
「ああ、いいよ。ここで寝てく」
俺は、上半身だけを起こして、祖父に言葉を返した。
黄土色の作業服の厳つい背中が、あぜ道を上がり、南の方へと歩いていった。
もう一度、藁のなかに横になると、空を見上げた。掠れた香ばしさが、乾いた黄土色の茎から薫り、身体を包んでいく。
脱穀が終わった後、こうやって空を見上げるのは、小さい頃からのちょっとした楽しみだった。藁のベッドの上に寝そべっていると、世界は高い秋の空と緑に黄に彩られた山の稜線だけになって、俺の他には誰一人存在しない場所になる。
そして息を吸い込めば、ここが閉じた場所であることなんて、全く感じない。いや、誰よりも自由な自分を感じる。
……美紅さん、どうしてるかな。
両親の目を盗んでしてるから――かかってくる電話で、そんなに長い時間は話す事ができなくて、彼女が今何をして、何を考えているのか、推し量ることもできなかった。
会いたいなぁ。受験勉強だって佳境だろうし、大学行きがどうなったかだって、はっきりとは聞いていない。
俺との事が、彼女を縛る原因になったら、どうすればいいのだろう。
美紅さんの父親が、かなり頑迷で保守的であるのは、今までの会話の片端から想像することができる。
先輩との事件以来、改めてわかったことがある。
俺は、美紅さんが好きだ。誰とも比べられない、唯一人の女性だ。
でも、同時に強く思っている。彼女には広い場所に進んで行って欲しい。俺が望んでも行けない場所へ。
こんな風に感じるのは、おかしいのだろうか。誰よりも好きな人と、離れることを望むなんて。
でも、それが俺の気持ちだ。本当に想うなら、その人の行く末を縛る事ができるだろうか。
空は、抜けるように高かった。愛しいけれど、何処か痛いような胸の奥。俺は、目を閉じた。暖かかった身体も、秋の終わりの風に吹かれて――。
「雪生くん」
不意に、あるはずのない声が聞こえた。
素早く身体を起こすと、積み上がった藁束の下を覗き込んだ。
「……美紅さん」
緑色のカチューシャで止められて、秀でた額を露わにした柔らかい笑顔。濃緑のブレザーに、学校指定の紺色のカーディガンを羽織った美紅さんは、緑色の布カバンを持って、俺の方を見上げていた。
「ど、どうしたの」
慌てて周りを見渡す。稲の切り株ばかりが目立つ村の景色。人の姿はとりあえず見当たらない。
「大丈夫。誰もいないよ。……今日から、実力試験期間だから」
そうか、もう、そんな時期だったな。思い出しながら、手を差し出した。
「上、乗る? 誰か通ったら、大変だけど」
「言ってくれると思った。はい!」
カバンを投げ上げると、俺の手を握って、積まれた藁束に上ってくる。
息をついてペタリと座った姿を見ていると、懐かしい考えが思い浮かんだ。
「美紅さん、ちょっと脇に寄ってて」
「うん」
手早く藁束を周辺に寄せると、窪みを作る。上手に穴を作り、周りに取り出した束を積み上げると、ちょっとした藁束の壕ができあがった。
「あ、懐かしい~」
美紅さんが悪戯っぽく笑った。そして、その穴の中に飛び下りると、俺に手を伸ばす。
「これなら、どっからも見えないよね」
俺は思い出していた。まだ本当に小さかった頃、こうやって『美紅ちゃん』と遊んだ事を。
二人並んで、狭い藁造りの壕の中に寝そべった。
しばらくは、何も言わずにそのまま空を見上げていた。久しぶりに隣にいられる事。それだけで満足で、嬉しかった。
手の平に、柔らかい感触。すぐに握り締め返すと、細い指が強く、手の甲に力を返してきた。
「ここでやってるかな、って思って」
空を見上げたまま、彼女は呟いた。
「脱穀?」
「うん、だって、雪生くん、毎年手伝ってるじゃない。そんな人、村の若い人では誰もいないでしょう」
「ウチは、手が足りないから。俺がやらなきゃ、終わらないもの」
俺の顔の横で、彼女の髪の毛が動いた。そして、綺麗な曲線を描く瞳が、少し眩しそうな感じで、俺の方を見つめていた。
そして、俺の額にもう片方の手を伸ばすと、静かに触れた。
「……痛かった?」
「ううん、全然大丈夫。頭突きは必殺技でね」
「馬鹿」
瞳の奥にある輝きが眩しかった。愛しくて、このまま抱き締めたくなる。
「……坂尻くん、大丈夫かな」
「大丈夫だよ。先輩のお母さん、しっかりした人だから。先輩だってホントは……」
言いかけた言葉を、美紅さんの指が塞いだ。
「いい。ごめん、雪生くん。私、本当に考えなしだ……」
言って、俺の肩に頭を寄せた。甘い薫りが、藁の香ばしい匂いと混じって、鼻腔の奥をくすぐる。手は握り合わされたままで、息遣いだけがすぐ側に聞こえている。
「美紅さん、困らなかった? 家の方とかは」
「困ってなくはないけど」
少し皮肉めいた感じだった。
「お父さんが何と言おうと、私は私だから。絶対に譲れないことは、何があっても曲げない」
「はは、美紅さんらしいや。全然へこんでない。もう、俺んちなんか大変。婆ちゃんは、『如月さんのお嬢さんとなんて、畏れ多い』とか言ってるし」
肩口でクスクス笑いが響いた。
「もう。『お嬢さん』なんかじゃないよ、私。どっちかって言うと、アネゴかも」
「そうかも。でもさあ、」
俺も、少しからかった口調になる。
「ああやって自転車に乗ったり、歩いたりしてる姿見たら、どうやったってネコ被ってるもん、美紅さん。
『あら、飯山くんのお婆さま、腰の具合は如何ですか』ってな感じで」
「あ、ひどい~」
肩口から見上げた瞳。打ち解けた口元。俺は、自然に顔を近づけて、唇を合わせていた。
閉じられた目蓋に、長い睫毛。
一瞬前までの闊達さが微塵も見えない、静かで艶やかさを秘めた表情だった。
俺も目を閉じて、柔らかく湿った感触に意識を預けた。
やがて、潤いを持った舌先が、口の端から僅かに忍び込んでくる。頭に手を回すと、強く引き寄せた。やがて、くちづけは激しい唇の求め合いになって、頭の奥を衝動に染め上げて行く。
彼女の息遣いが聞こえる。
俺も、止まらない。彼女の唇を押し開き、上にのしかかる形になって、舌を絡ませあった。
ブレザーの下の柔らかい双丘が、俺の体との間で、押し潰れるのがわかった。
「あ……」
小さな声が上がる。
このまま、このまま……。
手をその柔らかい膨らみに乗せた時、細い指が手首を握った。
「ダメ、雪生くん」
開いた目に、潤んだ光。乱れた制服の胸元と、外れかけたカチューシャ。そして、濃緑のスカートは、太腿が露わになるほどたくし上がり、青いインナーが覗いていた。
到底、我慢などできそうになかった。
密着した身体の間で、自己主張を始める俺の昂まり。彼女も、その存在に気付いているはずだった。
「ちゃんと、したい。ここじゃあ……」
その時、後頭部に何か柔らかいものが当たった。
藁の束。
次の瞬間、廻りに積んだあった藁束の積み上がりが、一気に崩れて俺達の身体の上に降りかかってきた。
立ちこめる香ばしい薫り――いや、むせるほどに濃く、埃も交えて。
一瞬、完全に藁の束の中に埋もれてしまった美紅さんが、咳き込みながら身体を起こした。
「あぁ、カシカシする」
俺も同様だった。着ていたトレーナーの中に、藁の切れ端が入り込み、くすぐったいような、痛いような。
しきり背中やスカートの中を探っていた彼女が、埋もれたカバンを探り当てて、膝の上に置いた。
「もう、エッチなことするから、罰が当たったじゃない!」
「ひ、ひでぇ。だって、美紅さんが先に……」
「私の何処が先に? 雪生くんじゃない、キスしてきたの」
言葉とは裏腹に、顔は笑っている。
ぐちゃぐちゃになって積み重なった藁の窪みの中で、俺達は見詰め合っていた。
「違うって、美紅さんが、先に頭を寄せてきたから……」
「え~っ、そういうこと言うんだ。恋人同士なら、当然じゃない。こんなとこでエッチしようなんて、痴漢でしょ」
大きな瞳の奥は、確かに微笑んでいる。俺は、この女性が愛しかった。世界中の何よりも。
「……バカ美紅。ホント、猫っかぶりだ。どこがお嬢さんだよ」
彼女はクスクスと笑った。そして、Yシャツの襟元を直すと、俺の方に身体を寄せて、唇を軽く噛み締めた。
そして、一度瞬きをすると、大きな声で言った。
「好き。雪生。あなたが、大好き」
俺はさっきまでの身体の昂まりが霧散し、強く暖かい感覚が身体中に満ちるのを感じていた。
「俺も……、美紅。同じ気持ちだから」
好き、とはどうしても言えなかった。でも、言葉は必要ない、そう思った。
彼女も、それ以上は求めなかった。ただ、静かに立ちあがると、手を差し伸べた。
「私達、ほんとの恋人同士になれたのかな。幼馴染みや、先輩後輩じゃなくて」
俺は頷いた。そんな定義なんて、どうでもいい。
こうやって側にいられれば、それだけで嬉しい。長い間求めて得られなかった、初
めての同志。そんな気さえしていた。
晩秋の空は高く、風は冷たかった。でも今、俺と美紅の胸の中に吹くのは、暖かに心満たす、清く穏やかな風だった。
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