第2章 2-1

 俺と坂尻先輩の私闘事件は、すぐに学校の知るところとなった。

 先輩は全治一ヶ月の怪我。俺は……、特に治療の必要はなかった。


 停学三週間。それが、俺に下された処分だった。客観的に考えれば、仕方がない。去年の放送室占拠事件。そして、今回の喧嘩騒ぎ。

 内面を知らない第三者にしてみれば、俺に非があるとするのは、当然の判断だと思う。


 祖父は、ほとんど何も言わなかった。「ま、いろいろあるわな」――いつも通り、口数少なに言うと、それ以上は何一つ付け加えなかった。


 ありがとう、爺ちゃん。

 俺は心の中で礼を言った。そして、祖母の繰り言も、それほど厭わしく感じずに受け止める事ができた。


 ただ、今度の事で最も被害を被ったのは、美紅さんだったのかもしれない。


 事件があからさまになった結果、全てが知れ渡ってしまった。美紅さんが、隣村の議員の息子である坂尻先輩と付き合っていた事。

 そして、村のやんちゃ坊、外れものの俺が、この郷一番の御曹司と、彼女を巡って恋のさやあてを演じた事。


 携帯も取られちゃった――それでもとても明るい声で、美紅さんは電話をよこした。

「せいせいしてるんだ。もう、隠さなくてもいいし」

 少しも淀んだ感じの見えない張りのある声が、受話器越しでも勢いよく飛び込んできて、俺は微笑まずにはいられなかった。


 きっと、落ちこんでいるはずなのに――駆け寄れるものならすぐにでも西の林を抜けて、彼女に会いに行きたい。そう思った。


「全部、私が悪いんだ。坂尻君に、勝手な思い込みをしてたせいで、あんな風にしちゃったんだから」


 雪生くん、ごめんね。そう言った後で美紅さんは、先輩とのいきさつを、事細かに話してくれた。辛い話だったはずなのに、少しも淀むことなく、俺を気遣いながら。


「私、言っていることと、していることって、それなりに一致してるもの、させていくものだと思ってる。

 そう言うところ、女っぽくないって言われる時もあるけど」


 俺は、短いあいづちを打ちながら聞いていた。


「だから、彼が言ってる事と私が思ってる事―凄く近いと思ったから、一緒にやっていける、そうやって勘違いしてたんだと思う。

 私が考えている事も、全部話してたし。

 でも、それは、彼にとって重荷でしかなかったのかもしれない。こんな言い方、してはいけないのかもしれないけど、私が決めていいのかわからないけれど……。

 たぶん、彼は言葉で言っていただけ。概念だけだったんだと思う」


 坂尻先輩と美紅さんの間に交わされた言葉が何だったのか、不思議なほど具体的に思い浮かべる事ができた。


 俺だってそうだ。美紅さんが見つめる、遥か高い理想。美しい未来。自分の心と身体もそちらへ向けなければ、美紅さんを憎むことになってしまうかもしれない。自分が決して及ばないものとして。


 先輩と俺の間に違いがあったとするなら、それは僅かなものだったと思う。俺は、先輩のように、自分のことが信じられないから。どんなに口で偉そうな事を言っても、結局地面を這いずるしか道はないと知っている――ただそれだけの違いだと思う。


「ごめんね、雪生くん。アタマ、痛くない?」

 最後まで明るい調子を崩さなかった美紅さんが、声のトーンを落として言った。


「大丈夫。……慣れてるし。あ、威張れないか」

「もう。でも、よかった。連絡があった時、どうしようかと思った。雪生くんに何かあったら……、私」

 声が一瞬、掠れたようになったが、すぐに元の調子に戻った。


「ッ、だめだよね。痛いのは雪生くん。私は、両天秤がけの悪女だもの。……ふふふ」

 軽く笑った後で、また会おうね、の言葉を残して通話が切れた。


 それから俺は、密閉型のヘッドフォンを耳にかぶせ、移り変わる音の流れに、ずっと身を浸している。


 サックスとピアノの掛け合い。いつ終わるともなく続く、フリーフォームのセッション。


 あの人は、どの音楽よりジャズが好きだった。俺も、それに憧れて、トロンボーンを吹くようになった。

 才能なんて、元よりなかった。

 ただ、俺をあの場所から救い上げてくれた人と同じ場所で演奏していたかった、それだけの事だったのかもしれない。


『音楽は、自由だよな。雪生。生まれも、肌の色も、言葉も関係ない。お前、体力あるじゃんか。ラッパ吹いたら、結構いけると思うよ』


 目を閉じて、ずっと音だけを聞いていた。

 木の格子窓から吹きこんでくる風が冷たい。季節外れの半袖の腕に、震えるほどの寒さが駆け上がっていく。

 それでも俺は、音の流れゆきに任せて、ずっと目を閉じていた。

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