第2章 1-2

 次の日、先輩と待ち合わせたのは、高校近くの狭い公園。

 ベンチと時計、小さな花壇があるだけの、閉じて人気のない空間だった。


 鉄の車よけをすり抜け、踏み入ったその場所には、三人の男がいた。一人は、茶色い皮のジャンパーが目立つ、角刈りの男。

 もう一人は、襟が灰色の羊毛風にあしらわれた黒いキルティングジャケッ

トを羽織った、短い茶髪。


 そして、背の高い二人に挟まれて、白いセーターに薄茶のハーフコートを着た黒髪の下の細面は、確かに俺の知っている顔だった。


 今日一日、美紅さんとは連絡を取らずにいた。

 会えば、冷静な気持ちで向き合う事ができなくなるだろう。顔を合わせた瞬間に、ぶち切れる可能性だってあった。


「何で、ダチなんて連れてくるんだ、先輩」

 真ん中で分けられ、後ろへ流されたオールドサーファースタイルの髪が、吹きこんできた風に揺れていた。


「……一人で行くとは言わなかったろう。ん?」

 横一列に並んだ三人から二身長ほどのところで立ち止まると、俺は腕を組んで息を吐いた。


 不思議なほどに怒りは湧いてこなかった。ただ、哀しかった。どうして、先輩はこんなになっちまったんだろう。

 これは、中学の頃の俺と変わらない。そんな俺を、しょうもない俺を、あの場所から救い上げてくれたのは、先輩の言葉だったってのに。


「そうだね。でも、話くらいはできるんだろう、先輩」

「ああ。ま、話しても同じだけどな。お前には、ちょっと痛い目に会ってもらう。それが、当然だろ? 人のオンナを寝取ったんだからな」


 口の端を上げて笑った。これが、『お前がどうやって生きてきたかなんて関係ない。今が大事なんだ』――そう言ってくれた人と同じ表情なのか。


「……まったく、驚いたよ。美紅の奴が、どうあっても別れるってごねて、ぶん殴っても言う事聞かねえ。

 新しい男でもできなきゃ、ここまで突っ張るまいと思ってたが、まさか、雪生とはね」


 ぶん殴って、と聞こえた瞬間、色のない細い目を睨み付けずにはいられなかった。ただ、それでも、気分が乱れるようなことはなかった。


「確かに、俺と美紅さんは付き合ってる。それに関して、先輩に申し開きはできない。

 でも、これは俺の問題だ。美紅さんとは関係ない。俺がどうあれ、美紅さんは先輩と別れるつもりだったはずだ」


「ふ~ん」

 トーンを僅かに下げた声が、薄い唇の端から響いた。


「お前、俺を馬鹿にしてんのか。俺が、美紅に捨てられた、そう言いたいわけだ」

「そういうことじゃない」

 俺は視線を一瞬も逸らさず、先輩の目を見つめ返していた。

 誰にも公平で、優しかった先輩は、まだ何処かにいるはずだ。これは、よくあることだ。誰だって、心が荒れる時はある。


「美紅さんに罪はないってことだ。だから、これが済んだら、もう、彼女を縛らないでやって欲しい」


「おお、こいつ、ナイトだぜ。坂尻ぃ」

 角刈りの方が、四角い顔を歪めて笑った。組んでいた腕を解いた、俺と同じくらいの身長の男を、先輩が手で制した。


「待てよ、池田。こいつは、昔からこういう男なんだ。馬鹿正直で、向こう見ずでさ。ぶつからなきゃ気が済まない奴なんだよ」

 何の感情も篭らない声だった。

 つま先からせり上がり、首筋にまで走る、万本の針が流れていくような痛み。


「……なんでだよ」

「ん?」

「なんでそんなんなっちまった。ラッパ吹いて、『音楽には上も下もない』て俺に言ったやないか! 俺は……」


 美紅さんと会うまで、ずっと支えだった言葉。

 でも、次にあいつの口から発されたのは、俺と先輩の信頼の根っこを丸ごと引っこ抜く言葉だった。


「お前にはわからんさ。あばずれの母ちゃん持ちの、ててなしのお前にはさ」

 !!

「この、野郎!」


 信じられなかった。絶対に。俺が行く場所を失って、紐の切れた凧のように暴れていた、一番奥底の理由を知っているはずのこの人が。


 どうしてだ! 先輩のおかげで、俺はあの場所から出る事ができたのに。


 拳を振り上げて殴りかかろうとした瞬間、後ろから腰を抱え込まれた。

 羽交い締めにされて、近づいてきた茶髪の男に、腹部を強かに殴られた。

 衝撃と共に胃液が遡り、目に火花が飛ぶ。


 もう一発。今度は腹に力を入れて、衝撃を和らげた。


 後ろに立ったあいつは、高をくくった表情で、腕を組んでいる。どうあっても、ぶん殴ってやる。お前は間違ってる。絶対に。


 抑えつけられた腕の力、ボディに打ちつけられた拳の威力。二人の男が、見かけだけなのはすぐにわかった。


 身体が憶えていた。どうしようもなく。


 少しだけ身を竦めると、羽交い締めにした男の顎に、強力な頭突きを食らわす。うっ、と苦しげなうめき。すかさず、肘で鳩尾を痛打する。


 驚いた茶髪の男の大ぶりな拳を交わすと、最短距離のジャブ。頭を抑え、膝蹴り、背中から肘。


「馬鹿ヤロウ、なめんじゃねぇ!」

 倒れた二人に、強かに蹴りを入れる。そして、奴の叫び。


「この、できそこないが!」

 見当違いの拳、意味のない蹴り。俺は、奴の腹に、拳を叩き込んだ。一発でうずくまる、茶色のハーフコート。襟を掴んで上を向かせると、額に頭突きを入れる。


「どうしてだよ! なんでだよ!」

 頭をぶつける度に、目から火花が散った。悲しいのか、怒りなのかわからなかった。

 ただ、この男をとことん殴らなければ気が済まない。


「やめ……」

 黒髪の下から、鮮血が滲み始めていた。馬乗りになって、きつく締め上げていた手を、僅かに緩めた。充満していた正体の掴めない感情の迸りが、少しずつ潮を引いていく。うめきを上げる細い顔の中で、焦点を定めていない黒い瞳。

 手を離して、土の上へ細い身体を横たえた時、自分の額からも血が流れ落ちているのがわかった。


 頭がクラクラする。


 身体全体の力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。


「……あそこです」

 誰かの声が、公園の外から聞こえた。そして、複数の人間が駆け寄ってくる音。


 ああ、また、やっちまったな……。

 そんなことを考えながら、俺はぼんやりと秋の空を見上げた。

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