第1章 4-2

 陽が傾き、夕方の風が吹き始めた頃、俺達家族三人は、川沿いの

道を南に歩いていた。


 少し曲がった腰に手を当ててゆっくりと歩く、小柄だががっしりとした祖母に、背筋を伸ばして力強く歩く、俺とそう変わらない背丈の祖父。

 割烹着姿をやや斜め後ろに、白い半袖のシャツと黄土色の作業ズボン姿が行く。俺は、二人の背中を見ながら、花の束と小さなヤカンを持って続いていた。

 細い舗装道の西側からは、小さな堤防を越えて、湿気を帯びた風がそよいできていた。

 耳を澄ませば、川の流れる音が緩やかな音を響かせている。

 少し高くなった空を見上げて、美紅さんは家に帰っただろうか、そんな事を考えた時、目的地が見えてきた。


 道路の中途から少し南側に上った場所。小さな丘の斜面に切られたそこには、様々な形の石が並んでいた。

 古く、灰色に煤けたいびつなものから、黒光りがする長方形のもの、小さく、腰丈ほどもないものから、俺の身長よりも高い、威圧感に満ちたものまで。


 ほぼ正方形に並べられた数十の石。間を抜けて、一番奥まった一角に来ると、俺達はその石の前に並んだ。

 腰より僅かに高い、灰色に鈍く輝く長方形の石積み。表面には、『飯山家代々之墓』と、大きな文字が白灰色で彫り込まれている。


「雪。綺麗にしてやれ」

 一度手を合わせた後で、祖父が言うと、俺はヤカンの水を上から

かけた。

 茶色の土汚れが水に流され、墓石は輝きを取り戻す。持ってきたタオルで、祖母が丁寧に表面を拭く間、祖父はじっと腕組みをして待っていた。


 そして、墓石の前の花挿しに水を入れると、持ってきた花を挿した。大ぶりな花びらに、淡い紫とピンクが鮮やかなコスモス。綺麗に光る墓石に、鮮やかな色が添えられた。


 線香に火をつけ、たもとの窪みに置くと、祖父を中心に三人、手を合わせた。


 親父の記憶なんて、おぼろげなものだった。

 俺が小学校に上がったばかりの八月の末、トンネルの崩落事故で命を落とした父親。

 ただでさえ、家を空けることが多かったその顔は、今では写真の中のイメージでしかない。

 たまに帰った時、ダンプやシャベルカーのオモチャを買って来てくれた事。そして、『デッカイ仕事をしてるんだぞ』と、重機の力強さを話していたこと、それ位しか憶えていなかった。


 ただ、時々かけられる言葉に、何処かで血を思う。爺ちゃんには余り似ていない俺が、『お父さんそっくりになってきたわ』と言われたりする度に。


「さ、帰るか」

 太い眉に角張った顔が逞しい祖父が、墓石をポンポンと手で叩いた。そして一瞬、目を閉じた。


 俺は、俯いている祖母の姿を傍らに、墓石の立ち並ぶ様をぼんやりと眺めていた。

 皆、ここに戻るのだろうか。それが当たり前のことだとしても、広い空の向こうには、別の場所もあると言うのに……。




 携帯電話が低い振動音を発したのは、食事が終わってすぐの事だった。

 面白そうなTVもなく、たまにはネットでも眺めてみようか、珍しくそんな事を考えて、机の隅に置いた型落ちのパソコンの電源を入れようとした矢先だった。


 美紅さんだろう、間違いなく。


 朝の電話からずっと、意識から離れることがなかった彼女の不安げな声。名前を確かめると、すぐに通話ボタンを押した。


「はい」

『あ』

 驚いたような声が聞こえた。いつもは、少し間を取ってから出るから、当然だったかもしれない。


「お帰り、美紅さん。何しに行ってたの? 買い物?」

 できるだけ気楽に話してみた。でも、小さな驚きの声の後、何の言葉も続いてこない。


「あれ、もしもし?」

 電波がうまく届いていないのだろうか。アンテナの数を確かめてからもう一度言った。

「美紅さん、聞こえてる?」


 その時、耳に届いたのは小さな声だった。

『ゴメン……』

 明らかに声の調子が変だった。抑えつけて、無理に何かを堪えようとしている感じに聞こえた。


「どうしたの、美紅さん」

『ゴメン。ちゃんと、気分を整理してからかけようと思ってたんだけど……』


 終わりの方が掠れ、息が混じって言葉が途切れた。泣いてる…?

 そう思った瞬間、身体中の血が沸騰して、自分で何を言っているのかわからなくなった。


「何、美紅さん。何かあった?」

 声が聞こえない。どうしたんだ。こんなこと、一度だってなかった。いつも僅かな隙間さえ見せずに、制御された言葉を使う美紅さんが、泣いて、る?


「家だろ? 今そっちに行く。外で待ってるから……」

『……違う』

「え?」

『違うの。……今、石段の所からかけてるから』

「石段? 社の?」

『うん』


 小さな声だった。

 俺は、携帯電話を握り締め、部屋から飛び出した。玄関に飛び下り、運動靴を突っ掛けると、外に走り出た。


「……雪生」

「婆ちゃん、ちょっと出てくる!」


 庭を抜け、林の横を通り抜けると、分かれ道を川とは反対側、東の方へと走る。すぐに両側に十数軒かの家が立ち並ぶ、村の中心部へ辿り着く。火の見やぐらを通り過ぎ、見え始めた社の森だけを見つめ続け走り抜けると、見知った顔が俺の姿を追うのがわかる。


 今はそんなことはどうでもいい。


 息が切れる。足が痺れ、心臓が悲鳴を上げる。それでも、全速力で走り続ける。頭の中を、美紅さんの顔だけが占め続けている。


 あの人が泣くなんて。

 俺が今行くから。俺にできることなら何でもする。

 社の入り口へと続く、茂る木の間へ駆け込むと、参道を一直線に抜け、石段の一番下で立ち止まった。


 息が激しく切れていた。Tシャツの背中を汗が流れ落ちるのがわかる。


 星の輝きが、蒼い空を埋め始めていた。見上げた数十段の石段。人気もなく、明かりも見えない、人の身長二つ分ほどの幅の斜面。

 一番上に聳える鳥居の少し下、小さな黒い影があるように見えた。

 肩を揺らし、荒い息を吐きながら、ゆっくりと石段を登っていく。見上げた先が、人影であるのか確かめながら。


 真ん中辺りまで登ってきた時、それが間違いなく女性の姿である事がわかった。上から三段目くらいの右端に腰掛け、こちらを見下ろしている髪の長い、見紛いようのない姿。


「美紅さん……」

 数段下で立ち止まり、穏やかな表情を浮かべる瞳を見上げた。泣いているようには見えない。暗がりの中でも、それだけはわかった。

 ただ今まで知っている中で、一番静かで、どこか儚げな様子に思えた。


 ピンクのクルーネックシャツに、タイトなパンツを履いた腰の脇に置いた手を突っ張らせると、彼女は一度下を向いた。そして、静かな声で言った。


「私、ダメな女だ……」


 何と答えていいのかわからなかった。視線を落としたままの彼女を見上げたまま、そこに立ち止まっていた。まだ激しい動悸は収まらず、気持ちを落ち着ける場所もわからない。


「結局、雪生くんに迷惑かけてるもの。今も、ちゃんと全部が整理できてからって、思っていたのに」

「迷惑なんて、何で」


 そんな遠慮はして欲しくなかった。もう何度も話したはずだ。何でも話せる、友達みたいな感覚っていいよね、って。


「ううん。だって、こうやって置き所のない気持ちをそのままぶつけてしまうから、何もかもがおかしくなっちゃう。私は、そういう女の部分が嫌い。だから……」

 静かだった口調が、携帯から流れ出してきた苦しい調子を帯びるのがわかった。


 俺は石段を登ると、彼女の隣に腰を下ろした。肩が擦れ合うほどではなく、少し身体を離して。


「凄い汗。……ごめんね、雪生くん」

 視線を合わせず、俺の首筋辺りを見ると、細い指先で腕に触れた。


「全然。だって、美紅さん、辛そうだったから。息が切れるくらい、どうってことないでしょ」

 横顔を見ていた。綺麗な曲線を描く目が、遥か下の参道を見やり、少し大きな唇が、微かに微笑んで見えた。


「……やっぱり、雪生くんは優しい。違うな、他の人とは」


 止まりかけていた動悸が、別の場所から兆し始めた。


「そんなこと、ないさ。俺も、結局ただの男だもの……」

 それ以上は、言えなかった。続ければ、自分から出てくる言葉はわかっていた。

「ううん、違うよ」

 そして、彼女は大きく息を吐いてから、空を見上げた。俺も同じように夜空を見上げる。もう、陽の光は何処にもなく、満天の星が辺りを包み込んでいた。


 暫く、言葉を作る事ができなかった。何があったのか、聞くべきだとも思った。でも、苦しげな表情を削ぎ落とし、いつもの華やかで、それでいて清楚な感じに戻って横に座る美紅さんに、何から問うていいのかわからなかった。


「……雪生くん、わかってるよね」

 口を開いたのは、彼女の方からだった。


「何を?」

「私が付き合ってた、ううん、まだ付き合ってる、ってことになるのかな……。その人のこと」


 唐突な言葉だった。けれど、胸の内に驚きはなかった。彼女の様子が、少しの淀みもなかったからかもしれない。


「うん、わかってる」

「曖昧なままじゃ、ダメだと思ってたんだ。それだと、何もかもおかしくしてしまうから。ほんとは、あの人をあんな風にしちゃったのって、私のせいなんじゃないかと思う。勝手な幻想を押しつけて、潰しちゃったんじゃないか、って」

「……俺、よくわかんないけどさ、……その、最近の坂尻先輩のこと、全く知らないからさ」

「……知らなくてもいいよ。だって、私の知らない場所で、雪生くんとあの人、先輩と後輩だったんでしょ? 私、雪生くんとこうやって話をするようになるまで、殆ど知らなかった。だから、余計に曖昧なままにしておけなくて。……ごめんね、雪生くん」

「どうして、謝るの? 俺、何も美紅さんにされてない。先輩との間に何があっても、俺とは関係ないだろ?」


 もう、言葉だけが口をついて出ている状態だった。何を考えて言っているのか、自分でもわからない。


「……ううん、違うよ。雪生くんが、そうやって言ってくれる人だからこそ。

 変わってしまったあの人。私の気持ちはあそこにはなくても、この気持ちを引き金にして、あなたと話してたら、私はまた止まれなくなっちゃう。そんなのは、嫌。私は……」


 俺は、石段の上に置かれた美紅さんの手の上に、自分の手を重ねた。先輩との間に何があったかなんて、どうでもよかった。こんなに苦しんでいる美紅さんが、間違っているわけがない。


 肩を窄め、身体を固くした彼女に、俺は静かに言った。

「もう、いいよ。俺、わかる。美紅さんは間違ってない。苦しんでる人は、絶対に間違ってないんだ」


 重ねた指先が解けた。滑らかな感触が指の間に差し込まれてくる。そして、柔らかく重なり合う。

 もう、止まる事はできなかった。


「美紅さん、俺……」

 言葉は、湿った感触に置き換わっていた。俺は目を閉じて、彼女の香りを受け入れた。そして、残っていた左手で肩を抱き寄せる。

 ただ合わせたままでは到底我慢できない唇の甘さ。すぐに奪い合

うほどの激しさになって、絡んでいた手を解き、互いの頭に回し合う。


 ……美紅さん、好きだ。誰よりも。

 自分の何処にそんな激しさが眠っていたのだろう。そして、彼女の中にも。


 僅かに舌が触れ合う。長い髪の中に指を深く挿し入れながら、もっと近くへ彼女を引き寄せたい、それだけを思って力を込めた。

 彼女も、少しも躊躇うことなく唇を重ねてくる。嬉しかった。ずっとずっと、こうしたいと思っていた。そして、彼女も同じだったんだ。


 抱き締めた体がどんどん密着すると、石段に倒れこみそうになるほどに身体を預け、肩に回していた手を、身体の間に差し入れる。

 シャツの布地の上からでも、熱い身体を感じる。タイトなパンツの腰を遡り、最も柔らかい部分に手が触れた時。

 喉の奥から小さな息を吐いた彼女が、唇を離し、目を開いた。

「好き。雪生くん」

 間近で見下ろした瞳。黒い色の中に、奥深い輝きが見えた。知らなかった。目が、そんな色を浮かべることができるなんて。


 胸の中に湧き上がる、強い想い。中学の終わりの小さな恋愛など、

ただの遊戯に過ぎなかったんだ、身体中に満ちるこの潮が、今まで

知らなかった、深く強い愛情のありかを教えている気がした。

「美紅さん」

「……うん」

 このまま、この場所で結ばれてもいい。言葉にしなくても、お互いの気持ちはわかっていた。でも、これ以上どうしたらいいだろう。この村の何処にも、そんな場所はなかった。


 ……あ。

 彼女の目も見開かれる。鳥居の向こうを見上げた表情で、同じ事を考えているのがわかった。


「開いてる、よね」

「ああ、多分…」


 確かに、あそこなら、大丈夫なはず。

 俺は先に立ちあがると、手を差し伸べた。重ねられる細い手。強く握り締めると、石段を登り、社とは反対側の小さな建物を目指して歩き始めた。


 予想通り、簡単な普請で作られた長方形の小さな建物には、鍵がかかっていなかった。

 時折、村の集会などに使われる、公会堂代わりの場所。

 詰め込んでも三十人くらいしか入る事ができない畳敷き一間。誰もいないことを確かめながら、サッシを開けて、恐る恐る部屋に上がる。


 光のない真っ暗な空間。靴を脱いで身体を滑りこませると、そのまま無言で折り重なった。今はただ、彼女と身体を合わせることしか考えられない。


 仰向けに横たわった彼女を腕の下に、再び唇を合わせた。行きつく場所がわからないほどの、激しいくちづけ。吐息だけが風の音に混じって、途切れることなく続く。

 身体の中心ははちきれそうに昂まって、いつでも彼女と結ばれる用意が整っていた。


 どちらからともなく、服を脱ぎ捨てた。暗闇の中で、柔らかい稜線を描く体の感触が、抱き締めた胸の下で暖かい。

 おぼろげに見える白い身体。一糸纏わぬ姿になっても、少しも凛とした様子を失わ

ず、両手を広げて待つ仕草は、燃えるような愛しさを感じさせて、俺は耳元で呟いていた。


「美紅さん、好きだ!」

「私も、雪生くんが好き。大好き」


 愛撫をしている余裕なんて、何処にもなかった。けれど、そんな事をしなくても、指に触れた彼女の中心は潤って、俺を待っていてくれた。

 両手を彼女の体の脇について、腰を進めた。一瞬、感じた固い感触は、すぐに柔らかく、包み込まれる暖かさに変わっていた。

 耳元で、彼女が小さく声を出すのが聞こえた。そして、動きを止めた俺の腰に、回される足の感触。


「好き……」

 もう一度声が聞こえた瞬間、もう俺は止まる事ができなかった。

 星の光だけで浮かび上がるなだらかな肩を抱き締め、唇を合わせる

と、腰を激しく律動させる。


「あ、ダメ……」

 顔の横で、彼女の顎が反り上がった瞬間、腰を引いた。突き抜ける快美感が追い掛けて、俺は精を放った。


 荒い息だけが残る。彼女の横に身体を落とした俺。けれど、いつのまにか指を絡ませていた手だけは合わさったままで、今の一瞬が、ただの身体の求め合いだけでないことを教えてくれていた。


 まだ、一言も口をきけなかった。


 絡んだ親指が手の甲をなぞり、時間だけがゆっくりと過ぎていく。

 深く息をついた彼女が、顔をこちらに向けた。うつ伏せになったままの視野の中に、優美な曲線を描く身体と、静かな笑みが浮かび上がっている。

 そして、視線が交わった瞬間、静かだった笑みは、今まで目にしたことのない輝くような笑顔に変わった。


「よかった、雪生くんがいて。よかった、雪生くんに気付いて。好きだよ……」


 胸の中で溢れ出す止めどもない愛しさ。今、初めて、まごうことのない真の彼女を見た気がした。

 俺は身体を起こすと、床に散った長い髪を手で撫でながら、唇を寄せた。

 彼女も少し身体を傾けると、唇を合わせた。


 そして長い間、俺達はそのまま、互いの暖かさと息遣いだけを聞き続けていた。

 ……時間がもう一度動き出すまで。

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