第1章 4-1
夏休みも残り僅かとなったその日、朝の畑仕事の手伝いを終えた俺は、CDから流れる音楽に身を浸していた。
一度は過ぎたと思っていた暑さが、この数日は再び外気を満たしていて、木の格子窓から吹き込んでくる風も、盛夏を思わせる蒸し暑さを孕んでいた。
パイプベッドに横になって、密閉型のヘッドフォンから流れてくる音を拾い上げながら、ぼんやりと考えを巡らしていた。コーラスとフォーンセクションが絶妙に絡み合ったジャジーでソウルフルな響きが、夏の記憶の断片を、次々に呼び出しては消していく。
ただ無為に過ぎるに違いないと思っていた日々。けれど、村祭りの日から全ての色合いは変わってしまった。
耳元に聞こえる息遣い。唐突な笑い声。機知に満ちた受け答え。時折垣間聞こえる憂いを伺わせる口調――携帯の電波に乗せられた会話は、殆どがどうでもいいような内容のものばかりだった。
けれど、言葉の向こう側にあるものが、心の置き場所がわからなくなる程に熱く、焦燥感にも似た力で身体を突き動かしている。
今すぐにでも走り出し、橋のたもとを越え、西の林を抜けて、彼女の姿を見たい。もし許されるなら、そのまま抱き締めて、叫んでしまいたい。
でも、そんなことができるのだろうか。幼い頃から感じ続けてきた、目に見えず、取り払う事もできない、張り巡らされた網の中。
年頃の男女が肩を並べて歩いていれば、数時間後には村中の共有事項になるようなこの場所で。
そして、どうしようもなくこの場所に縛られている自分と、おそらくは都会へと出て行くだろう彼女。その上、余りにも層の違う家同士。
幾つもの事象が目の前に立ち塞がり、俺の言葉を封じてしまう。
それは、彼女も同じなのだろうか。
『雪生くんと話してる時が、一番気が楽だなあ』――そんな風に言われる度、問いかけたくなる。ねぇ、今度は会って話そうよ。街まで出れば、誰にも目に付かないから。
トレイをイジェクトすると、CDを取り替えた。最近人気のある女性ボーカリストの、ラブバラードばかりのアルバム。
どちらかと言えば、今までは拒否してきた類の曲だった。でも、彼女の事を思
い浮かべると、甘い歌声と、情緒だけが迸ったような歌詞が、すぐ側でこの想いを認めてくれているように感じる。
本当は、全てが言い訳だとわかっていた。そんな堅苦しい全てを、突き破ることができないわけじゃない。
でも、心の何処かが滞ってしまったように動かない。
中学生の頃までのように、想いのままに行動できたなら。はね返って来る言葉
や、未来を恐れずに言えたなら。
俺は、もう一度目を閉じて、歌声だけを意識に残した。
愛の情熱を歌い上げる高音の透き通った声。
縺れた思考の糸を、叙情の泉の中に沈めてほぐそうとした時、部屋を間仕切った襖が、ガタン、と揺れた。
「雪生」
皺の目立つ丸顔が覗き、俺は現実に引き戻された。
「……何、婆ちゃん」
ヘッドフォンを外すと、ベッドの上で上半身を起こした。殆ど色のない唇が、僅かに戸惑ったような感じで歪められると、台所の方へ顎をしゃくった。
「電話だよ。如月さんのお嬢さんから」
机の上に置かれた携帯電話を反射的に取り上げた。着信あり――美紅さんの番号。
まずい、気づいてなかったのか。
こんな朝早い時間に電話があるのは初めてだった。俺は、八畳ほどの居間を通り抜け、台所の隅に置かれた黒い受話器を取り上げた。
「もしもし」
『あ、雪生くん。ごめんね、お婆ちゃんが出ちゃった』
「いいよ。俺、携帯鳴ったの、気付いてなかったから」
台所の間仕切りから覗き込むと、祖母が自分の部屋の方へ向かうのが見えた。
『ちょっとだけ、声、聞きたかったから』
澄んだ声が、少しだけ掠れた感じで呟いた。
「…うん」
『今日、ちょっと出掛けるから。街まで。帰るの、夕方になると思う』
「うん」
『………』
受話器越しにも、考え込んでいる様子が伝わってくる。突然の朝の電話。何の用もなく、しかも俺の家の人間に知られる危険を押してまでかけて来る人じゃない。
「美紅さん」
『うん』
「大丈夫? 何かあった?」
もう一度回りを確かめる。祖父が外から土間に入ってくる気配もなかった。
『うん、大丈夫。ね、雪生くん』
「何?」
『今の言葉だけ、持っていかせて貰っていい?』
明るさを戻した言葉が、何を伝えようとしているのかわからなかった。
「え? 何を?」
小さな息が聞こえた。
『……大丈夫。また、夜、携帯鳴らすね』
「あ、うん、待ってる」
『それじゃあ』
「それじゃあ」
通話が切れた。受話器を置いてから暫く、電話の置かれた棚の前で立ち尽くしていた。何処か重苦しい雰囲気だけが残り、彼女の事が心配になる。俺に何かできることがあったのだろうか?
「雪生」
板張りの床の軋む音と共に、祖母の声が後ろから響いた。
振り向くと、ひっ詰めた灰色の髪の下で、小さな目が見上げてた。
いつもと同じに見える、けれど、僅かに寄せられた両の目が何を言っているのかわかっていた。
「あぁ、部活のことさ。ブラスの奴の電話番号がわからんと」
「ふーん。そうかね」
灰色のズボンと白い割烹着の背中が、俺の横を通り過ぎ、土間に下りた。
「いい声や。あそこの娘さんは、みんな出来のいい子ばかりさ」
そして、古びた銀色のヤカンを取り上げると、ガス台の上に置いた。
「……茶でも飲むかい、雪生」
「ああ。そうする」
俺は頷くと、土間に足を投げ出して、板張りの床の端に腰を下ろした。
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