第1章 3-2

 「婆ちゃん、行ってくる」

 裏口から土間の方へ顔を突っ込んで言うと、「はいよ」と声だけが返ってきた。


 俺は、マイケルの首輪に散歩用のロープを付け替えると、錆びたポストの脇を抜けて、外へと出た。


 五時を過ぎて夕方の風に変わった川沿いの道を、いつものコースで橋の方へ向かう。

 生後二年の茶毛の雑種犬は元気一杯に俺の手を引っ張って、先へ先へと身体を進めようとする。


 橋のたもとへと登ってくると、少し小高くなったその場所から、村の東半分を一望した。

 四方をなだらかな山に囲まれ、所々にうずたかく茂る森。川が下っていく先には緑なす田が一面に広がり、白や灰色の鷺が優雅に上空を舞っていた。


 あの辺か……。


 田の間を走る細い舗装道路。数百m先、まだ記憶に新しい場所に自然と目をやっていた。


『あ、これ見つけたんだ。懐かしい~』

 細い指が赤い実を摘み上げ、唇に含んだその瞬間。ありがとう、言って見上げた額には黒髪が疎らにかかっていた。

 そして、少し謎めいた光を帯びて合わせた瞳は、言葉にならない何かを伝えているような気がして――。


 俺の胸元を撃ちぬいた指先。悪戯っぽく笑った顔。長い髪は緑色のリボンで結わえられ……。

 あの時、落としさまよわせていた視線の先で、彼女は何を考えていたんだろう。


 如月さんの姿が頭から離れなかった。


 祭りの日から二週間。気が付けば、彼女の言葉、そして姿が頭の中でリフレインしている。


 胸が苦しい。


 どうしてこんなにも彼女のことを思い出すのだろう。ずっと、もうずっと昔から知っているはずなのに。


 紐はどんどんと手を引っ張って、橋は遥か後方へ消えていた。


 このところの散歩の度に、曲がることをためらっていたため池の林の角を折れて、足はどんどんと西へと向かう。

 緩やかにカーブする細い道を過ぎると、林の影から白く高い壁が姿を見せた。

 綺麗に舗装された四台分の駐車場が広がり、長方形に張り出した入り口のガラス扉には、青く大きく『如月歯科』という字が貼り込まれている。


 だめだ。なんのためにこんな所まで来る必要がある?


 紐を引っ張って方向を変えようとしたが、首をすくめて低姿勢になったマイケルはぐいぐいとリードを取る。

 横目に見た飾り気のない医院の四角い建物の後ろには、瓦屋根が重層的になった豪奢な邸宅が白壁の中にそびえ立っていた。

 俺より頭一つ高い壁の上に顔を出した庭木は、どれもが手入れが行き届いていて、少なくとも五、六部屋はありそうな二階部分と和風の調和を見せていた。


「ほら、マイケル。行くぞ」

 鼻先を雑草の中に突っ込んだマイケルを引っ張り上げながら、すぐ頭の上にまで近づいていた如月邸を見上げた。

 二階には綺麗な格子が見える幾つもの窓が並んでいる。

 ……あのどれかが如月さんの部屋の窓なのだろうか。

 一度も中に入ったことのない村有数の豪邸。何処に彼女がいるのか想像することもできなかった。


 足を上げてマーキングをしたマイケルが、ようやく向きを変えると、俺も如月邸に背を向けた。

 もどかしい気持ちが胸の奥に残る。

 なぜこんな所まで来てしまったのか、理由はわかっていた。ただ、それを認めてしまうのが怖かった。認めてしまえば、到底止まることができるとは思えなかった。


 ウォン!

 その時、マイケルが小さく吠えた。何かが上から肩口を通り過ぎ、風と共に地面に落ちた。


 白い、かたまり……?


 飛び付こうとしたマイケルを制して、舗装された路地にしゃがみ込むと、すぐにそれが何かのぬいぐるみであることがわかった。


 瞬時に振り向き、斜め上を見上げた。


 歯を喰いしばるほどに突かれる胸の奥底。

 二階の横の小窓が開き、そこから小さく手を振っている姿。淡いピンクのロゴ入りTシャツに、嬉しそうに笑う顔。


 俺も微笑んで小さく手を振ると、如月さんは林の方を指差した。

 目を見開き、身体をそちらの方に振って、立てた親指で同意を返すと、無言の大きな頷きが見えた。

 そして、先を急ぎたがるマイケルを抑えながら、如月邸が見えなくなる林の影で、俺は待った。

 拾い上げたあざらしのぬいぐるみを手にしたまま、乱れ飛んだ考えをまとめる間もなく、淀みのない声の響きを耳にしていた。

「飯山くん」

 窓から見えた淡いピンクのTシャツに、ベージュのソフトパンツを履いた彼女は、少し後ろを気にしながら、小走りにこちらへやってきた。


 何を喋っていいか見当もつかない。黙ったままの俺の二歩ほど手前で立ち止まると、如月さんは長い髪を手で梳きながら言った。


「びっくりしちゃった。外を眺めてたら、下に見えたでしょう。どう考えても飯山くんにしか見えなかったから」

「……あんなところから落ちたら、こいつ死んじゃうだろ」

 ぬいぐるみを差し出すと、如月さんは微笑みながら受け取った。


「大丈夫。この子、飛べるから」

「あざらしが? どうやって」

「訓練してるもの。ヒレをこう、伸ばして、すぅーっと……」

「ムササビかい! そりゃ」

 俺が肩を揺らして笑うと、手まねをしていた如月さんは笑いながらマイケルの目の前にしゃがみ込んだ。


「こんにちは。ハンサムね、お前」

 頭を撫でると、すぐに茶色の顔を寄せて顔を舐めようとする無節操な我が家の番犬未満。


「こら、マイケル。やめろ!」

「マイケル君って言うんだ。見かけによらず、アメリカンな名前ね」


 如月さんを見下ろしながら、動悸を抑えようと必死になっていた。つんと立った耳の辺りを撫でる様子はどこにも構えたところがなくて、俺ばかりがこんなに意識するのは釣り合いが取れないような気がした。


「柴犬系の雑種だと思うんだけどね。お姉さんはラトーヤって言うんだ。もう、家にはいないけど」

「それ、冗談?」

 くすっと笑いながら立ちあがると、如月さんは俺の目の前に立った。


「ホント。ちょっと性悪なメスでね。貰い手がなかなかつかなかっ

たんだ」

「ほんとに~?」

「嘘」

 あっけなく認めると、彼女は大きな目にたっぷりの茶目っ気を浮かべて、俺を見つめた。


 目を逸らしたくなかった。そして、初めて思った。なんて綺麗な人なんだろう、と。


 一瞬言葉の継ぎ目が解けた後、彼女の方が視線を逸らした。斜め下に向けられた目蓋の縁で、細い睫毛が揺れた。

 緩やかに結ばれた唇。たおやかな表情は、さっきまでとは打って変って、何か深いものを秘めているように思えた。


「少し、歩く?」

 静かな声で言った。

「うん」


 頷いて橋に通じる道へと歩こうとすると、青いポロシャツの袖が引っ張られた。

「こっち」

 林の裏、未舗装の細い道を指差す。車も通れない、『小観音』に通じる踏み分け道。


「蚊に刺されるよ」

「いいよ、別に」


 確かにこの道なら、誰かに会う恐れは殆どなかった。俺は、マイケルを促すと、夕日の赤い光を疎らに通す小道に歩み出した。

 如月さんも、俺の横に並んで歩き出す。肩がほとんど触れ合うくらいの距離で、マイケルの動きだけを追って、言葉もなく歩いていく。


 彼女の手が、また髪の毛を梳いた。

「飯山くんは、音楽はもうやらないの?」

「……あ、うん。どうだろうなぁ」


 唐突な質問に、答える適当な言葉が見つからなかった。


「凄く好きだよね。放送部も音楽好きが多いから、よくわかるよ」

「う~ん。そうでもないんじゃないかな。ブラスも幽霊部員だし」

「嘘ばっかり」

 決めつけるような調子の言葉に横を伺うと、視線を落とした表情が少し陰りを帯びて見えた。


「『音楽は自己表現だ。どんな立場にあっても、それを禁止する権利は誰人にもない』って、よく憶えてるよ。何回もマイクで叫んでたじゃない」

「……若気の至り。あん時はかなり頭に血が上ってたからね」


 去年の文化祭、南高とちょっとした暴力沙汰を起こした、あるバンド。その事件をきっかけに、文化祭のライブは全面禁止になった。

 そして、俺達は……。


「停学になるし、最悪。もっとスマートなやり方があったと思うけど」

「後悔してる?」

 小道は少し開けた場所へと繋がった。俺は、かぶりを振った。


「全然。やり方はともかく、当然のことをしたと思ってる」

「……よかった」

 安堵した様子の如月さんが、何を思って息を吐いたのかわからなかった。


 高い木々に囲まれた空間には、小さな堂が建っていた。

 格子戸の填められた大人の背丈ほどの煤けた木造の堂。鎮守の森にある社と

比べて、村では『小観音さま』と呼ばれている場所だ。


 マイケルの綱を木の幹に括ると、二人で堂の前に立った。

 夏とは思えない清涼な空気が流れていた。俺はまた踏むべき言葉のきざはしを見失い、茂る木々の葉を見渡していた。


 本当は、後ろで手を組み、同じように回りを見渡す女性に尋ねたいことがあった。


 あの文化祭の前日、俺達に放送室占拠の決行を勧めたブラス部次期部長――その人との関係を。中学時代からただ一人だけ尊敬してきたあの先輩と如月さんは、どんな話をしているんですか?


 尋ねられるわけもなかった。そんな権利があるとも思えなかった。


 ピンク色の肩が動くと、ソフトパンツの前ポケットから折り畳まれた小さな機械が取り出された。


「雪生くん」

 突然名前を呼ばれ、少し驚きながら見下ろすと、携帯電話のディスプレイが開かれていた。


「携帯、持ってるよね」

「あ、一応。ほとんど待ち受け専用だけど」

「番号、教えてもらっていい? 嫌ならいいけれど……」

 小さな声で呟いた。肩を窄め俯いてボタンに指をかける姿に、どうしようもないくらい強い想いが湧き上がって、身体を止めるのが精一杯だった。


「あ、いいよ。み…如月さんなら、もちろん」

「美紅でいいよ、雪生くん。むか~しはそうだったでしょ? 忘れちゃったかもしれないけど」

 言葉の端をすぐに捉えると、軽く笑った。


 この気持ちはなんだろう。目の前にいるのはもう、北高の先輩じゃない。きっと、如月美紅という名前の一人の女性。

 俺は心の中ではっきりと認めなければいけなかった。この人に誰よりも惹かれていることを。恋してしまったことを。


「…4365の……」

 番号を告げると、手際良くボタンを繰る指が、アドレス帳の名前を『雪生くん』と入力するのが見えた。


「時々、かけてもいい?」

「もちろん、美紅さんなら大歓迎。どこでも、何時でもいいよ。寝てても起きるから」

「ホントに? そんなこと言うと、真夜中にかけるよ。私、夜更かしだから」

「ゼンゼンO.K。俺も夜更かしだもの」

「CD聞きながら?」

「ご名答」

「……やっぱり、私達、気が合うみたい。ね? 雪生くん」


 激しい動悸。胸の高鳴り。見上げた瞳を見つめ返すと、俺は大きく頷いた。


「相性バッチリってか?」

 彼女はふふふ、と小さく笑った。逸らさずに視線を合わせ続けたその瞳の色に、ただの友達以上の感情があるように感じたのは、俺の独り善がりだったろうか。




 その日の深夜。

 時計の針が三時を回っても意識が冴えたままで、眠気が一向に襲ってこなかった。ベッドに横になって、小さな窓の向こうをじっと眺めていた。

 漏れ出た光に呼ばれて、ガラスには小さな蛾や羽虫が集まってきていた。そして、その向こうに輝く下弦の月。

 寄り添うように輝く星の光をぼんやりと眺めながら、何度も繰り返し思い浮かべていた。

 音楽をかける気にはなれなかった。彼女の姿や声を思い返す度に、胸奥が燃えるように熱くなる。


 でも、身体は驚くほどに冷静で、心だけがどんどんと先へ進んでいく感覚。

 こんな気持ちは経験したことがない、はっきりそう思う。


 きつく目を閉じて頭の上に手を重ねた時、机の上に置いた青い携帯電話が、低い振動音を立てた。


 とっさに飛び起きて、ディスプレイを見た。

 発信元には、如月美紅の名前。


「はい」

 通話ボタンを押した俺の手は、少し震えていただろうか。


『あ……。雪生くん。起きてた?』

 躊躇いがちな声。


「もちろん。夜更かしはお互い様でしょ」

『うん、そうだね。でも、もうすぐ三時半だよ。いっつもこんなに遅いの?』

「……いや、今日は特別。何か、眠れなくて」

 言ってから、深い意味に取られないだろうか、そんなことを考えた。


『私も。どうしても眠れなくて……』

 嬉しかった。彼女もそんな風に感じていたんだ。

『……あ、うん。ほんとは一言だけ言いたくて』

「何?」

『ありがとう、雪生くん』

 また所在のわからないお礼の言葉。俺は、携帯を持ったまま苦笑いをした。


「また、ありがとうなの? 俺、何もしてないけど」

『いいの。私がそう思うんだから』

 少し拗ねたような声が可愛かった。もう、どんな表情で言っているのか想像することができた。


『ほんとに、雪生くんと話してるとホッとする。多分、雪生くんと私って……』

 その後の言葉は止まり、携帯の向こうで沈黙が流れた。


『……何でもない。また、今度ね』

「あ、言いかけはズルイ。気になる」

『いいの。今日は、もう、おやすみ。明日、きついよ。登校日でしょ』


 あ、そうだ。すっかり忘れてた……。


『じゃ、おやすみ。雪生くん』

「おやすみ。きさ…、じゃない、美紅さん」

 小さな声でくすっと笑った。

『おやすみ……』

 通話が切れた。携帯を机の上に戻すと、ベッドの上にドサリと勢いよく仰向けになった。

 そして、目を閉じる。


 私も、どうしても眠れなくて……。


 俺と同じ気持ち。そして、優しい声。胸の熱さは、次第に穏かな温かみに変わっていく。

 そんな気持ちをどう捉えていいかわからないまま、俺はまんじりとし続けていた。


 いつか、東の空は明るくなり始めていた。

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