第1章 2

 夏休みが始まってから一週間は何一つ変わったことはなかった。特に出掛ける用事があるわけでもなく、一度隣町の商店街へぶらつきに行ったくらいが関の山だった。

 後はマイケルの散歩に畑の手伝い、TVに音楽、少しネット。


 メディアから流れてくる情報は俺にとって何処か遠い世界の出来事に思えた。どうせ、俺を囲むこの環境とは関係の薄い都会の感覚で作られている世界。


 最寄りの駅はJRの単線。大きな幹線道路が走っている訳でもなく、人込みがある街に出るのでさえ一時間近くかかる。増して、TVドラマに映し出されるような都会には、半年に一度出ることができれば御の字だった。


 高校を出れば殆どの奴らが街へ出て行き、帰っては来ない。いや、高校の内から下宿している人間も多かった。そのせいで夏休みはちょっとした『帰省ラッシュ』で賑やかになるのが、幼い頃からの村の眺めだった。


 そんな夏の始まり、ヒグラシの『カナカナ』に、『シャーシャー』とクマゼミの声が混じる頃。数少ない村のハレの日がやって来ていた。


『たまには神輿でも担いだらどうだ』

 夕方、家を出る前に爺ちゃんにも言われたけれど、俺は到底そんな気にはなれなかった。いつも通り、露店でソバでも焼いている方がずっと気が楽だった。


 裸でふんどし一丁になって、普段話もしない奴らと奇声を上げる自分の姿を想像するのも鬱陶しい。露店役で義務が果たせるなら、何時間でも焼いていたかった。


「おう、雪ちゃん、今年もソバ焼きかい」

 コンロの上に鉄板を置いて、材料の入ったクーラーボックスの前にしゃがみ込んでいると、後ろから声を掛けられた。


「あ、まあね」

 白いTシャツに鉢巻、紺の前掛けを腰から下げた角刈りの男――村唯一の飲み処、『おおやま』の大将。


「神輿は? 雪ちゃんくらいの奴あ、社の方に集まってるだろ?」


 どうして誰も彼も同じ事を聞くのか。十五を越せば神輿を担ぐっていう条例でもあるなら別だが。


「満さん、知ってるだろ。俺はああいうの、嫌いなの」

「ふーん。今年も相変わらずって事か」


 赤ら顔の三十半ばの男は、俺の隣で露店を立て始めた。今年も間違いなく、鳥の串焼きだろう。『おおやま』の焼き鳥は美味しいと言うのは、村全体の合意事項みたいなものだ。何度食べても、俺にはそうは思えなかったけれど。


 そして、頭上の紅葉の枝越しに見える空が蒼から暗色へと変わる頃、砂利の敷き詰められた参道には人の姿がちらほらと見え始めていた。


 木の枝から枝へと連なり、ぼんやりとしたあかりを落とす提灯の光。山門に上がる階段へと、数十の露店が軒を連ねて照らし出されている。


 ボンベのコックを捻ると、コンロに火を付けた。

 油を軽く引いて伸ばすと、肉とキャベツを放り込む。それだけで四角い鉄板から蒸気が立ち込め上がった。

 所々に設えられたスピーカーからは、最新のヒットチャートからの音楽が無造作に流れている。

 麺を入れてソースを振りかける頃には、かなりの人出になり始めていた。


 あっついな……。


 肩に掛けたタオルで顔を拭って煙の向こうに目をやると、参道を挟んだ反対側では、金魚すくいやヨーヨー釣りにしゃがみ込む浴衣姿の子供達。そして、回りで腕を組んで見つめている親らしき人影。

 甲高い声で話しながら通り過ぎて行くTシャツ姿の女の子の群れ。小学校高学年か、中学生くらいだろうか? 村の子ではないと思う。

 髪を茶に染め、眉を描いた甚兵衛姿の中学生の一団。多分、ここの所『荒れてる』と聞いてる大山中の奴らだろう。ま、俺達の頃とそう変わるわけでもないだろうけれど。


 相変わらずの祭りの眺めだった。安物の腕時計のデジタルは七時二十五分。辺りはすっかり暗くなっていた。


「ヤキソバ二つお願い」

 何処かで見た顔が覗いて、五百円玉を差し出した。

 露店の間口に並べたパックをビニールに入れて手渡した。確か、川向こうの遠藤さんの奥さんだったか?


「おう、雪ぃ。あっついだろ」

「冷やかしならやめろよ。数出ないとタダ働きなんだからな」

 丸刈りに浴衣のずんぐりむっくりは、中学三年間、同じクラスだった啓二。と言っても、クラスは二つしかなかったが。


「雪ちゃん、肉たくさんの奴ねぇ~」

 少しおもねったような声は、三軒先のパーマ屋『ビュティーユミ』の裕美先生。


 ソバを焼くスピードが追い付かないくらいの客の勢い。フライ返しを繰っていると、背中だけでなく、袖なしのTシャツを着た肩にまで汗が流れ落ちる。

 去年はこんなに忙しかったか?


「雪ちゃん、大繁盛じゃんか。こりゃ、いい小遣いになりそうだなぁ」

 やはり汗だくになりながら焼き鳥の串を返す鉢巻姿が、左向こうから大声で叫んだ。俺は無言で頷くと、新しい麺を鉄板の上に投げ入れた。


 幾らプラスになっても、貰えるものは決まってるけどね。でも、これだけ売れれば、マイナスってことはなさそうだ……。


「……ヤキソバ、一つある?」

「あ、すんません。全部出ちゃったもんで。あと五分位待ってもらえれば……」

 よく通る澄んだ女性の声に、顔を上げて暖簾の下を見た時、俺は少し言葉に詰まってしまった。


「忙しいみたいね」

「あ、うん。ちょっとね」

 綺麗な曲線を描いた大きな瞳が、少しハの字気味になった眉の下で柔らかい光を湛えていた。セミロングの髪は今日は大きな緑色のリボンで束ねられていて、いつもより露わになった額に、黒髪が疎らにかかっていた。


「飯山くん、去年もヤキソバ焼いてなかった?」

「その通り」


 去年の如月さんは、確か蝶の柄があしらわれた綺麗な浴衣で……。

 今日は、スポーティな黒のタンクトップ姿の彼女を目の前にしながら、何故か鮮明に思い出していた。


「一人っすか?」

 ソバが焼きあがっていないのを見て取った縁日の客は、俺の露店を横目に通り過ぎて行く。


「……そうよ。いけない?」

 少し強い調子になった言葉尻。思い掛けない反応に、俺は鉄板に目を落とした。


「いや、去年はお姉さん方と一緒だったな~なんて思って」

 視界の端の表情が直ぐに緩むのがわかった。

「いつも家族と一緒、じゃね。……あ、邪魔になってる? わたし」


 如月さんは後ろを振り返ると、流れる人波に目をやった。結ばれた髪の下のうなじが、肩の露わなタンクトップの肌に眩しかった。


「大丈夫っすよ。如月さんがいれば、かえって人が来るかも」

 にやっと笑うと、彼女も大きな口の端を上げ、上目遣いに笑いを返した。


「もう、お世辞。飯山くん、そういう事言う子だったっけ?」

「……どうだろ」

 小さく笑いながら焼き上がったソバをパックにつめ始めた。さっきまで鬱陶しかった流れ落ちる汗が、全く不快でなくなっていた。


「ね、飯山くん」

「あ、もうできたから。一つでいい?」

「……そうじゃなくて」

 鉄板から顔を上げて彼女の方を見ると、少し神妙な顔でこちらを見上げている。


「何?」

「わたしも、手伝っていいかな?」

「え! これを?」

「うん」


 大きく頷いた表情が、時折学校で見かける凛とした姿とギャップの可愛らしい感じで、俺はちょっと頭をそびやかしてしまった。


「いいけど……。なめると痛い目に合うかもよ。これで結構コツが……」

 言葉が終わる前に、如月さんの姿は露店のこちら側にあった。


「うわ、こっちに来ると結構暑いね」

 無造作に横に並んだ彼女の頭は俺より頭半分ほど低くて、ソバの焼ける匂いに混じってさえ、爽やかで心地良い香りがした。

 俺は反射的に半歩ほど距離を置くと、トン、と鉄のフライ返しをコンロの縁に立てた。


「どうぞ」

「両手に一つずつ持つの?」

「ご自由に。マニュアルあるわけじゃないから」

「あ、イジワルだ~」


 俺は思いがけない展開に少し戸惑いながら、鼓動が早まるのを感じていた。彼女に特別な気持ちがあるわけじゃなかったけれど、何となく嬉しかった。


「はい、肉。それにキャベツ」

 クーラーボックスから出した具を投げ入れると、蒸気が立ち込める。


「そんな乱暴でいいの」

「乱暴って、焼けたら全部おんなじっしょ」


 大きな鉄のフライ返しを両手に持った手つきは、かなりおぼつかない感じで、「あれ」「っしょ」と呟きながら肉やキャベツを右へ左へ動かしている。


 ああ、焦げちまう……。


「のろい、のろい!」

 無理やり手からフライ返しを一つ奪い取ると、豚肉をひょいひょいと裏返していく。


「うわ、手際いい」

「で、ちょこっと下味をつけて」

「うん」

「麺を入れる、と」


 鉄板に麺が触れると、威勢のいい音が響く。暫く炒めた後で如月さんにソースのボトルを差し出すと、私が、という感じで俺のほうを見上げた。


「適当で」

「このボトルのまま?」

「そう。ほら、スピードが命なんだから。長々焼いたソバなんて、誰も食べたがらないよ」


 一瞬考え込んでいた彼女は、手に取ったソースのボトルを傾けて、「えいっ!」と小さな声を出した。

 ジューッ、とソースの焦げる音。うん、なかなかいい手際だ。

「で、手早く混ぜる、と」


 要領を掴み始めたのか、大きなフライ返しを調子よく麺の下に入れて、リズムよく裏返していく。忙しく動く肩口に、うっすらと汗が滲んでいるのが見えた。黒いタンクトップからのぞく鎖骨が目に入った時、殆ど肩が触れ合うばかりの距離にいることに気付いた。


「もう、これでいい?」

「あ、ああ」

 パックを差し出しながら、濁りのない瞳の色に少しだけ視線を逸らしていた。


「お~い」

 隣の露店から高調子の声が飛んできた。振り向くと、『おおやま』の大将が、如月さんに向けて小さく会釈をした。


「上手に焼けてるかい、お二人さん。いいねぇ、祭り、祭りっと」

 新しい客に袋を手渡していると、如月さんはよく通る声で隣に話しかけた。


「満さん、たまには父に言ってあげてね。飲みすぎないようにって」

 タレの壷の中に指に挟んだ串を突っ込みながら、大将は身体を揺らして笑った。


「大丈夫っすよ、お嬢さん。如月先生はちゃんとわかってらっしゃるから」

「そう? だといいんだけれど」


 そして、額に滲んだ汗を手で拭った。俺は、肩にかかった白いタオルに手をかけ、外しかけて止めた。

「ふぅ」

 息をついた彼女は、一瞬目を閉じて唇を結んだ。整った横顔に、何か陰りか、痛みのようなものが見えたのは俺の気のせいだったろうか。


「何か、飲む?」

「ありがとう。結構喉乾くね」

 すぐに目を開けてこちらを向いた表情は、既に爽やかで憂いの影もなかった。


 手渡したペットボトルのキャップを捻り、三口ほど喉に流し入れる。少ししか飲まないんだな、そう思いながら俺も、一気に半分ほどスポーツドリンクを飲み干した。


「ああ、気持ちいい」

 両手で額から結わえられた後ろ髪へとゆっくり梳くと、肩の辺りにそのまま添えて、顔を上げて穏かに微笑んだ。

 少し焼けた汗の光る腕。肩口。無防備に見える脇の下から、ぴったりとした黒いタンクトップから覗く、微かな稜線。

 無意識に見とれていた事に気付いて、俺は心の中で首を振った。


 気が付くと、参道の人波は山門の方へ集まり始めていた。時刻は八時二十分。そろそろ、神輿が石段を下りてくる頃だ。俺はコンロの火を止めると、如月さんに頷いた。


「ありがとう、如月さん。もう、これでおしまい」

「神輿が下りてくるものね」


 そのまま後ろの石段の所に腰を下ろした。焼き終われば山門の方に行くとばかり思っていた俺は、彼女の意外な行動に戸惑った。

 所在無く立ったまま参道を見渡す。殆ど人影はなくなり、露店番ですら、持ち場を離れて石畳を歩いていく。ふと左横を見ると、鉢巻姿の大将もいなくなっていた。


「……飯山くんは見に行かないの?」

 山門とは逆方向に茂る森のざわめきに視線をやりながら、彼女は静かに尋ねた。


「如月さんこそ。裸練り見なきゃ、祭りの意味ないじゃない」

「いいの。私はあんまり好きじゃないから」


 冷めた感じで呟いた表情に、えも言われぬ親近感が湧いて、少し離れた場所に腰掛けた。


「それじゃ、おんなじだ。俺と」

「でしょ?」

 如月さんはふふふ、と小さく笑った。


 ベージュのタイトなパンツは、腰を下ろして膝を曲げるとふくらはぎの上まで細い足を露わにして、提灯のぼんやりとした灯りの中でも少し眩しかった。


「好きな奴は好きだろうけどね。でも、俺はどうもダメ」

「そう言うと思った。ね」

 一身長分ほど離れた俺の頭を指差して、優しげに見える細い眉を僅かに上げた。


「どうして髪の毛切ったの? すごくレトロな髪型だったのに。オールドリーゼントって言うのかな……」

「ああ」

 俺は、今は殆どスポーツ刈りに近くなった頭に手をやりながら春までの髪型を思い出していた。


「あれは、幾らなんでもハズレ過ぎでしょ」

「そうかなぁ。ほら、去年の文化祭の時の放送室占拠事件……」

 遠くから『えっさ、えっさ』の声が響いてきて、如月さんは言葉を止めた。


 そうか、あの時無理やり退去してもらった放送部員の中に彼女もいたんだよな。


「始まったみたいだね」

 俺が言うと、彼女はゆっくりと頷いた。少し唇を引き締めて、目を伏せがちにすると半歩先の地面に視線を落とした。


 えっさ、えっさ、えっさ……。


 拍手と歓声。


 えっさ、えっさ……。


「楽しい人には、楽しいのよね」

 独り言のように呟く。


「うん」


 俺が小さく相槌を打つと、彼女は俯いていた顔を上げてこちらを向いた。そしていつもの笑顔に戻ると、突然人差し指と親指を立てて、手で銃の形を作った。


「ありがとう、飯山くん」

 バンッ、と指先が俺の喉元を撃った。淡い光に照らされた笑顔に、初めて兆す強い感情が胸を襲う。


「なんで。俺、何もしてないよ」

「ううん」

 首を振りながら見つめた真摯な表情。俺は夜空を見上げる振りをして視線を逸らした。


 彼女の内面が、雲間から僅かに覗いたような気がしていた。いつも目にする少し硬質で思慮深い才色兼備の上級生。それは仮染めの、いや、俺の勝手に作ったイメージだったのかもしれない。


 その後、俺と如月さんは何も話さなかった。


 ただひたすらに練りの声が、夏の夜、涼しさを僅かにはらみ始めた風に流され、響き続けていた。

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