第1章 1-2

 蔦の絡まった木々がひしめく小さな林の脇を抜けると、朽ちかけた木にぶら下がった赤いポストがある。

 その先には砂利の散らされた庭と、古びた木造の家屋に納屋。

 栗の木と柿の木、節くれだった紅葉の木。

 あと数本の小さな庭木と石造りの井戸。

 それが俺の家の全てだった。


「おう、暑いなぁ」

 納屋の下に作られた小屋の前で、立ち上がってこちらを見つめている茶色の毛並みの雑種犬。舌を出すと、俺の方に小さく吠えた。


「お帰り。雪生」


 マイケルの顔を両手で挟みつけてうりうりしていると、母屋の裏口から声がした。


「ただいま、ばあちゃん」

 モンペ風のズボンに、ベージュの割烹着を身に付けた、灰色と白が混じった髪の小柄な老婆――俺の祖母。


「今日は早いやないか。試験だったか?」

「そんなとこさ」

「そんなとこて、また勝手に帰ってきたんやないだろね」

 皺の目立つ中で、小さな目が心配げに寄せられた。

 俺は、マイケルを撫でながら首だけを後ろに向けると、かぶりを振った。


「違うさ。爺ちゃんは?」

「田んぼや。こんな暑い中、行かんでいいって言ったんだけどな」


 俺は立ち上がると、裏口の敷居を跨いで土間に入った。なんとなく祖母も続くと、台所に上がった俺に言葉を繋いだ。


「やっぱ、みじかにしてよかったみたいだな。すっきりしとる」

「そうか? ま、ずるずる長いのは趣味じゃないからね」


 一月前から何度言われたかわからない短くした髪のこと。

 俺は、刈り上げた後頭部に触れると、家の一番奥へ歩いて、正面の煤けた襖を開けた。


 畳の上に置かれた古い木机とパイプベッド、本棚が並ぶ俺の空間。現代的な『部屋』と呼ぶには、余りに違和感のある場所だ。

 襖を閉め、ナップを机の上に投げると、制服のままベッドに横になった。


 何で、最近はこんなに疲れるかな……。


 早く始まり過ぎた夏のせいもあるかもしれない。今年の梅雨は短くて、雨も少なかった。

 でも、本当はそんな理由でないことはわかっていた。何かが、違ってる。いつからこうなってしまったんだろうか。何をしようとしても、行き詰まっているような気しかしない。やっている全てが無駄に思えて、殆ど虚しさに近い感情が身体を支配している。


 自分がそんなに熱情的な性質ではないことはわかっていた。でも、このまま閉ざされた日常が続くのは……。

 閉ざされた日常……、そうだ。俺の先にある未来は、未来と呼べるものなのだろうか。


 意味の繋がらない連想が頭を支配し始めて、俺は目を閉じた。

 こんな風に当てもなく考えても、結論は出ない。俺の想いと現実は、決して一致する事はないのだから。


 まだ、キイチゴの甘味が口の中に残っている気がした。


 如月さん。彼女とは久しぶりに話らしい話をしたな……。

 手の平から摘んだ一粒を、少し厚ぼったい唇が含んだ瞬間を思い出していた。


 クラスの男の中でも、三年生の如月美紅の容姿や、毎日のようにスピーカーから流れる声の美しさが、話題になることは稀ではなかった。今日、少しだけその理由がわかった気がした。


 思ったより豊かに見えたブラウスの胸元の膨らみ。


 突然に身体の中心が反応したのは、実際の彼女を連想したせいじゃない。ただ、これくらいしかすることがないんだ、こんな気分の時には。


 襖の向こう側を確かめてから、本棚の奥に隠したグラビア雑誌を取り出した。


 ブラウスを肩口まで落とし、露わになった乳房。大きく開かれた白い太ももの合わせ目で、濡れた下着から透けた黒い陰影。不自然な笑顔の下で揉み上げられた真白な隆起と、薄布の向こうにその形を連想させる秘部の眺めが、脳の奥を刺激していく。


 ベルトを緩め、トランクスを下ろすと、すっかり勃ち上がった昂まりを握り締めて、摩擦する。

 裸体のイメージと刺激が、殆ど全ての思考を支配した瞬間、精液が迸る快感が身体の中心を埋めた。


 ふぅ……。

 俺は、小さく息を吐いた。


 こういう事だけはできるんだから、始末に悪い男だ。まったく……。

 いや、疲れてるからこそ、こうなるのか。


 よくわからなかった。ただ、脱力していると、木の格子と網戸を通して、部屋の中に吹き込んでくる風を感じていた。


 あと五日で夏休みか……。


 少なくとも、学校に行くよりは気分が楽になるように思えた。




 終業式の日、第二音楽室に顔を出したのは、依田に誘われたせいだけじゃなかった。今までの俺なら、間違いなく無視していたはずだから。

 やっぱりどこかで、あの日の彼女の言葉が引っ掛かっていたのだと思う。


 雑然と教室の中で立っている部員達を前に、俺は窓枠に寄り掛かっていた。部活が始まる気配はまだなくて、雑談を耳に、身体を捻って窓の外を見下ろした。


 三階のこの場所からは、南棟と北棟を結ぶ廊下と、中庭へと下りる昇降口がよく見えた。

 痛いくらいの陽の下、校門の方へと歩いていく制服の群れ。

 今日でしばらく、このウサギ小屋から解放される明るさで満ちているように感じられた。


 何で俺も、こんな所で体操服を着てるかな……。


 その時、パンパンと手を叩く音がして、部屋の中央に眼鏡をかけたショートカットの女生徒が立った。


「じゃ、体育館に移動します」


 ぞろぞろと部屋の入り口へ動き出す部員達。皆が肩に緑のラインが入った半袖の体操服と、紺の短パンを身につけている。


「……あ、飯山くん。珍しいわね」

「あ、どうもです」

 確か、副部長、だったよな。


 俺は、眼鏡の下の細い目から視線を逸らしながら、軽く頭を下げた。


「俺が連れてきたんですよ、部長」

 後ろから、でかい声がした。


「そう、ありがと、依田くん」

 言うと、教室から出る人波に混じって行く部長、の背中?


 俺は後ろを振り返った。全てに俺よりワンサイズ大きい、笑ったような丸顔を見上げると、疑問を口にする。


「おい、依田。部長って……」

「ん? 中村さんがどうかしたか?」

「いや、違うよ。あの人、副部長じゃなかったか?」


 彫りの深い目と眉が、大きく顰められた。

「雪生、お前いつの事言ってんだよ。坂尻さんなら、とっくに部やめたろ。部に出てなくたって、結構校内的な話題になってたと思うぜ」

「嘘だろ……」


 にわかには信じられなかった。中学時代からラッパだけが命だったあの人が?


「嘘も何も、怒ってんのは俺たちの方だよ。ま、もう冷めたけどな」

 少し手振りを加えると、俺を追い越して廊下を歩いていく依田の背中。


 その時、校内放送のアナウンス音がした。そして、いつも変わらない澄んだ声が響き渡った。


『全校生徒にお知らせします。夏季休暇中の教室使用に関しては、担任の先生、部の顧問の先生に教室使用願を提出の上……』


 如月さん、あの時何を話そうとしていたんだろう。俺が坂尻先輩の名前を言った時、少しだけ顔色が変わったように見えたのは、気のせいだったんだろうか。


 今の俺に確かめる術はなかった。

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