抱擁
里田慕
第1章 夏 1
遥か遠くから、蝉の鳴く声が小さく、でも重なり合いながら響き渡っていた。
嫌になるほど、いい天気だなぁ。
緑の海原になった田を、山を抜けた風が通り過ぎていく。
稲穂と葉の擦れるザワザワという音の行方を見つめながら、俺はかすみ雲の流れる空を見上げた。
夏の初めの緑なす丘の稜線に向けて、細い道は一直線に伸びている。
アスファルトの上に転がった大きめの石を蹴飛ばすと、途中で大きく跳ね上がって、道端に群れ茂る雑草の中に飛び込んでいった。
石に押し退けられた猫じゃらしの陰に、鮮明な赤い色が垣間見え、また緑の茂みに戻った。
もしかすると――小さな発見の予感に、少し動悸を覚えながら道端にしゃがみ込んだ。
両手で周りの草をかき分けると、小さな葉を羽状に広げた背の低い草の枝先に、丸い実が赤い顔を見せていた。
やっぱりだ。キイチゴが生えてるのを見るなんて、何年振りだろう。
小さな赤い粒をプチリともぎ取ると、目の前に掲げて眺めてみる。
淡く、澄んだ薄赤色だった。これは、いいかもしれない。
更に何粒か手に取ると、田のあぜ道の方へ細く流れ込んでいる用水のそばに下りた。流水の中に手を入れると、柔らかく包み込んで、軽く洗い流す。
一粒取り上げると、口の中に放り込んだ。
水の冷たさが消えた後、酸味を帯びたほのかに甘い風味が口の中に広がった。懐かしくて、もどかしいような感覚。学校の帰り道でキイチゴを食べるなんて、小学校の頃以来だったかもしれない。
第二ボタンまで外したYシャツの襟元を引っ張って風を入れると、肩に掛けていたナップを背負い直した。
もう一度見上げた空は、相変わらず青く抜けるようで、傾きかけた陽は、丘の稜線へ僅かに近づきつつあった。
ふう、あと五日かぁ。かったるいな……。残り、フケちまうか。
もう一粒キイチゴを口に放り込みながら、道へと上がる斜面に足をかけた時、東から走ってくる小さな影が見えた。
ゆっくりとペダルを踏みながら進んでくる銀色のシティサイクル。前カゴに入れられた緑の布バッグを見れば、自分と同じ北高の女子生徒とすぐにわかった。
白いブラウスに青く長いリボン、飾り気のない濃い緑のスカート。
見慣れた制服だった。けれど、この道を自転車で通る北高の女の子と言えば……。
肩より少し下に伸びたセミロングの黒髪が、風にそよぎ翻っていた。見上げた目の前を自転車が過ぎた時、綺麗な曲線を描いた睫毛の長い目が、俺の姿を認めて、一瞬、伏せられた。
俺も軽く頷くと、互いに相手を認識したことを伝え合った。
一つ上、三年生の如月美紅。というより、ここ大山村では『如月歯科のお嬢さん』の方が通りがいいかもしれない。
子供の多くないこの村。如月歯科と俺の家は歩いて二十分はかかる場所にあったが、幼い頃に何度か遊んだ記憶がある。そういう意味では幼馴染みと言えない事もなかったが、今では言葉を交わすのは村祭りで顔を合わせた時くらいがせいぜいだった。
そのまま過ぎ去って行く後ろ姿を見送って……と、道へ上がった俺の十数メートル先で、突然甲高いブレーキの音が響き渡った。
サドルから腰を外すと、ゆっくりとUターンしてくるスラリとした姿。
何か、落としたのか?
軽くアスファルトの上を見回したが、何も落ちてはいない。彼女は少し視線を逸らしがちにしながら数歩前で止まった。
「……こんにちは、飯山くん」
よく通る、澄んだ高い声だった。校内放送で聞き慣れた声を直接耳にするのは、少し妙な感じだった。
「ども。帰り早いっすね。部活、休み?」
「ううん、ちょっとね」
北高でも指折りの才女が、何のために俺なんかに話しかけるのかわからない。同じ村の端と端に住んでいる以外、なんの共通点もない二人だ。
「ね、飯山くんこそ、最近部活に出てる?」
胸元の青いリボンに触れながら少し躊躇したように言った。
白いブラウスと、すんなりとした膨らみが、少し眩しい。やっぱり女性らしい人だな、当たり前の感想が、遠くから自分を見つめているように頭に浮かんだ。
「俺、幽霊部員ですよ。あんな体育会系文化部、俺には無理っしょ」
「そうか……。じゃ、ブラスの人の事、聞いてもわからないよね」
「自慢じゃないけど。唯一わかるっていったら、部長くらいかな」
言葉にした瞬間、ちょっとした噂を思い出していた。
才色兼備、二年生にまで名前が響いてくる、如月美紅にオトコができたらしい。相手は、ブラスバンド部長、坂尻士郎。
その話を聞いた時、納得だな、と感じたことを思い出した。
「ふ~ん。そうか……」
瞳を斜め上に動かした後、整った顔立ちの中で、唯一ユーモアを湛えた大きな唇が、口の端を上げて笑いを形作った。
「ね、ズボン、凄い事になってるよ」
「え?」
反射的に制服の黒ズボンを見ると、緑のイガイガがびっしりと裾にくっついている。
「うわ、イガイガ草か」
しゃがみ込んで雑草の実を取っていると、自転車のスタンドを立てる音と、すぐ傍まで歩み寄ってくる足音に顔を上げた。
「取ってあげようか? お尻の方まで付いてるよ」
「いいよ、自分で取れるから」
「そう?」
手早く張りついた草の実を落とすと、立ち上がった。様子を見ていた如月さんは、頭半分だけ高い俺の顔を、面白そうに見上げている。
無邪気さより少しだけ湿った色合いを帯びた瞳の色。俺は、反射的に視線を逸らしていた。
「どうして、あんなとこに下りてたの? なんか、水に手を突っ込んでるみたいに見えたけど」
「ああ、これだよ」
手の平を開いて、赤いキイチゴの実を示した。
「あ、懐かしい~。これ、見つけたんだ」
「珍しくって。ガキっぽいとは思ったんだけど」
細い指が、一つ赤い実を摘み上げると、上目遣いに俺を見詰めた。
「……いいっすよ」
「ありがとう」
ポンと口の中に放り込むと、軽く頷いた。前髪のパラパラとかかった秀でた額の下で、生のままの眉が寄せられた。
「ね……」
何か口を開きかけた時、西の方から見覚えのある軽トラックがゆっくりと走ってくるのが見えた。
エンジン音に振り向いた彼女は、思い直したように手を上げた。
「……じゃね、飯山くん。ありがとう」
「あ、ああ」
俺も手を上げると、何の礼かも曖昧なままに、制服の背中が自転車に跨る様子を見ていた。
如月さんの自転車が走り始めるのと同時に、帽子に手ぬぐいの頬かむりをしたおばさんが運転する軽トラックが通り過ぎた。
軽く挨拶をすると、見慣れた丸顔の中で、細い目が品定めをするように俺を眺め、「どうも、雪生くん」とがらがら声が響いた。
ゆっくりと走り去って行く軽トラックを見ながら、こんなことでも村の噂になるのだろうか、とぼんやり考えていた。丘の方へと目をやったが、西の空の下にはもう、自転車の姿はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます