第一話 -5
――凄まじい速度だった。
地面から見ているとそうでもないと思っていたが、実際に体感すると全然違う。向かってくる風で四肢がもげるかと錯覚するほど。風防もヘルメットもないバイクで時速三百キロくらい出したらこんな感じかもしれん。正直、何処をどう飛んでいるのかなんて気に掛ける余裕は微塵もなかった。
ただただ振り落とされないように彼女の左腕にしがみつくことしかできない俺が、唯一見ることができたのは、瞼を開くことすら厳しい風の中、前のみを見据えて空を飛ぶ彼女の横顔だけだった。
キスができそうなほど密着した距離だというのに、彼女の横顔は決して俺を見ることはない。
泥と埃にまみれたその顔に貼り付いた表情は、ひどく怜悧で、真剣で。
絶望的なまでに美しかった。
……そんな綺麗な顔を汚しながら、こんな風の中を戦っていやがるってのかよ、この子は。
その述懐を口に出すより早く、俺たちの身体が急降下する。突然のことに眼がチカチカする。まさにレールのないジェットコースターに乗っている感覚だが、不意に頭上を見上げると、先ほどまで飛んでいた高度を橙色の稲妻が通り過ぎ、目前のビルの頭を貫通していった。
再びアリアルドは急上昇。粉塵の渦巻くビルの穴に飛び込み、そのまま突っ切る。背後から無数の稲光が音を立てて襲ってくるが、粉塵が煙幕代わりとなっているせいか、狙いが定まっていないようだ。
崩れ落ちていくビルを一息で抜けると、魔法使いの死角を求めるように今度は急降下へ。別のビルの側面を這うように滑り、地面が近づくと再び上昇。そうして幾度となく上昇と下降を繰り返し、魔法使いから逃れようと奔走した。
「や……やべェ……。キモチ悪くなってきた……」
急激なアップダウンに胃の内容物がえらいことになりそうだが、そんな俺の愚痴に構っている余裕は彼女にはない。再び轟いた橙色の雷が周囲のビルを吹き飛ばしたかと思うと、その粉塵の中から現れた魔法使いの姿がすぐそこまで迫っていたのだ。
まさか、距離が縮まってきているのか?
「お……おい! なんで反撃しないんだ、このままじゃジリ貧だろ!」
なんとか声を絞り出すが、前を見据える彼女の視線は動じない。聴こえていないのだろうか。
「おいってば、反撃しろって! 俺のことなんて気にしなくて良いから――」
と、そこまで自分で言っておいて、ようやくその理由に気付いてしまった。
(って、馬鹿か俺は! こいつは放っておけば良いのに、俺を助けたんだぞ。それってつまり、ピンチだからって今さら見捨てるような性根じゃないってことだろ!)
俺よりきっと年下で、しかも女性で、腕なんてこんなに細いのに――。
命を賭して、大して知りもしない俺を助けたのだ。
その理由が、自衛官としての使命感からなのか、慈愛の精神に起因していたのかは分からないが。
少なくとも、俺という荷物を抱えたままでは戦えないことは間違いなかった。
「くそっ!」
俺は自身の右手を見る。まだ手には魔法銃――ネクロなんとかは握られている。
この子が戦えないのなら自分が……と、試しに魔法使いへ向けてトリガーを引いてみるが、反応はなかった。やはり弾丸は一発使い切りか。弾が出ないんじゃ玩具にもなりゃしない。
戦う術すらないのなら――俺は、ますますもって単なるお荷物でしかないってことじゃねえか。
「お、降ろせ! 降ろしてくれ! どこでもいい、おまえまで殺されちまうぞ!」
俺は彼女の手を引き剥がそうとするが、しかし、その手は誇張でもなんでもなく、マジでびくともしなかった。こんな華奢な腕だというのに、なんちゅう力だ。どんなに力を込めようとも、指一本すら動かせねえ!
『――射程距離入った! HQ!』
『特科303小隊、発砲許可する! 魔法使いを魔導士に近づけさせるな!』
『303了解。擬似魔法砲射軸合わせ。――撃てぇッ!」
レシーバからの発令と同時に、後方で激しい爆発が巻き起こった。
地上からの放射熱が空気をびりびりと振動させる。あと一歩というところまで迫っていた魔法使いの背中に叩き込まれたのは、市街地の外で陣取っていた数台の自走砲が放った対空砲撃だ。空中で花咲いた爆発炎は緑色の閃光を放っており、ネクロノミコンの光によく似ていた。
突然の砲撃に立ち止まった魔法使いがこちらに背を向ける。彼女はその隙に、一気に急降下。眼下に見えていたハイウェイの高架下へと潜り込み、がらんとした一般車道のど真ん中に降り立った。
彼女が一瞬周囲を見回して、それからようやく左腕を開放する。久しぶりの地面だ。彼女の手から離れたその瞬間、俺はへなへなとアスファルトの上に手を突いてしまった。
「す……すまねぇ、助かった……」
なんて、情けない声を出しながら振り返る――が、そこにはもう彼女の姿はない。
見上げると、彼女は既にハイウェイの空の向こうへと舞い上がってしまっていた。
剣の刀身が放つ緑色の光を推進力にして、空を一直線に駆け上っていく少女の姿。その横顔には何の表情も浮かんでいない。
しかし、その燐光が向かう先は、紛れもない戦場なのだ。
俺は、それを黙って見送ることしかできない。
……できなかったんだ。
しばらくすると、車道の向こうからどこかで見たような軍用ジープが近づいてきて、俺の目の前で停止した。完全武装の自衛隊員が三人降りてくる。マンションで警護をしていた三人だった。
「吉良瀬川一士、その銃を渡したまえ」
そのうちの一番年配の隊員が、俺に手を差し出してくる。俺は眉根を寄せた。
「みなさん、美咲一尉の護衛なんじゃ……」
「我々の任務は魔導小隊の
隊員が指差したのは、俺の右手に未だ握られたままだったネクロノミコンだ。
見ると、隊員達の目が笑っている。「何を思い上がっているんだ?」と言いたげな顔だった。
俺は手の中の銃を抱え上げ、左腕で覆い隠すように包み込む。
「管理と回収……ですか?」
「その銃は、一度幕僚本部に引き上げだ。F2STを失った今、唯一残るヴィサピロウ搭載型を、貴様のような青二才に持たせておくわけにはいかん」
「で……ですが、コイツがないと魔法使いを討てません。最終防衛ライン到達まで時間がないこの状況で、切り札を引っ込めるなんて……私が駄目なら、せめて魔導小隊員である美咲一尉に渡させてください」
「不要だ。貴様らのような女子供しかいない部隊に預けておけるほど、その銃は安いものじゃないぞ」
俺の言葉をまるで取り合おうともせず、年配の隊員が一歩近づいてくる。彼の背後にいた若い隊員が身を乗り出して、軽い口調で言った。
「あんま気張んなよ。おまえ、今日が新任なんだろう? 新任なら新任らしく、おとなしく駐屯地に篭っていろって」
「そんな……俺だって魔導小隊員です!」
俺が勢い込んで言った途端、隣の隊員が手を伸ばして、俺の胸倉を掴み上げた。
「口を慎め! 一士の分際で、一曹に逆らう気か!」
一喝される。しかし、その隊員の目に浮かんでいた色は、上下関係を重んじる規律の信奉者のそれではなく、まるで煩いハエを見下すような侮蔑の色だった。
「貴様は上官の言葉にハイとだけ答えていればいいんだ、この
……なんだよ、なんだよ。
ビルにいたときと全然態度違うじゃんか。
俺が下官の一等陸士だからか? それとも、この銃の使い方を知らないからか?
確かに責められてしかるべき要素はたっぷりあるんだろうけどさ。
なんにしても。……俺、完全にナメられてるんじゃねえか。
「………………冗談じゃねえ」
美咲一尉も陸戦魔導士のあの子も……戦車の連中だって、魔法使いに一矢報いようと必死の覚悟で戦ってるってのに。
男の俺ときたら、こんなどうでもいいところで上官様に小突き回されていやがるのかよ。
「ん? ……貴様、今、何と言った?」
耳ざとく俺の呟きを聞きつけた上官様が、俺のツラを覗き込もうと胸倉を掴む腕を引き寄せる。
――しかし、俺の腕は黙ってそれを受け入れることができなかったようで。
俺は胸倉を掴んでいたそいつの腕を引き、思いきり捻り上げて地面に打ち倒した。
「何ッ?」
倒れ伏した隊員の背後で驚嘆の声。条件反射で小銃を構えそうになった別の隊員を間髪入れずに蹴り倒し、最後に残った年配の上官様のド頭にネクロノミコンの銃口を突き付けた。
「な……き、貴様……っ!」
弾丸が入っていないのを知らないのか、直立不動で蒼白になる上官様。その顔色を見て、俺はこの数秒間で行なっちまった己の行動に懺悔した。
「あーあ、やっちまったよ俺」
だが、まあ……仕方ねえ。
こちとら、自衛官は遊びでやってる仕事じゃねえんだ。自分の行動には責任を持つ。それが、この仕事に就いたときからの俺の一生モンの決意だったじゃねえか。
つまりよ、つまり。つまりだよ。
こうなっちまった以上、腹をくくって魔法使いをぶっ潰してやらにゃ――
「天国のオヤジに顔向けできねえじゃねえかよ!」
俺は上官の横っ面を蹴り飛ばして走り出した。
ジープに飛び乗ると、幸い鍵はかかったままだ。ギアを入れてクラッチ蹴って、アクセルベタ踏みで煙舞い散る風の中、サイドブレーキを解き放った。
「お……おいっ、止まれぇ!」
『あっはははは! すごいなオマエ! 楽しいことやってくれるじゃないの』
レシーバから獅子堂司令の笑い声が聞こえた。傍受していたのか、抜け目ないことだぜ。
「言い訳はしません。それより司令、魔法使いの居場所を教えてください」
『聴いてどうする?』
俺は右手にしっかりと掴んだままのネクロを見て、それよりも強くハンドルを握る左腕に力を込めた。
「魔法使いを討ちます」
『はあああ? おまえ、マジで言ってんのか? とっとと戻って来いって!』
美咲一尉の声だ。すんません一尉、いま会うと殺されそうな気がするので戻りません。
『それはいいけど、あんたネクロの弾はどうすんの? カートリッジは単発式だよ』
「弾丸なら、あります」
俺は上着のポケットに手を突っ込む。指の先に固い感触。忘れもしない。
一番最初のジープの中、恋子二曹に勇気と一緒に戴いた、黒光りするネクロのカートリッジだった。
『よし……いいだろう。車載ナビを見ろ。ポイントを転送してやる。赤の連続円が奴の予想軌道だ』
『ち、ちょっと副隊っ?』
『煩いぞ美咲一尉。ネクロをビルの下敷きにしたヤツが、ぎゃーぎゃー喚くんじゃないよ』
それっきり、一尉は黙ってしまった。……うわ、戻ったら本気で殺されるんじゃないか、俺?
『おい、一応確認しとくぞ。魔法使いの光学魔法は、超高密度のプラズマだ。アレに触れたら最期、ビルを溶かし地面を穿つ。戦車でさえ一撃なんだ。そんなやつに拳銃ひとつで挑もうとするなんて、はっきり言って正気じゃない。九割九分九厘の確率で殺されるだろう。……それでもなお、お前はそのどてっぱらに突っ込んで、その引き金を引けるのか?』
銃を見る。グリップを握りこむ。力は緩まない。もう迷わない。
彼女の傷ついた横顔を見たんだ。
たった独りで戦う、あの小さな背中を見たんだ。
「ここでやらなきゃ……男じゃないッスよ!」
俺はステアリングから手を離し、ネクロのスライドチェンバーを引っ張った。
『いい覚悟だ。勇気と蛮勇は違うと言うが、蛮勇も突き抜ければ男前だな』
獅子堂司令は鼻を鳴らし、そこからは、完全な仕事モードの口調に入った。
『良く聴け。ネクロはトリガーを一度引いて、離した瞬間に弾が出る機構だ。ただしトリガーは六秒以上引け。ヴィザピロウが魔法陣を練成するチャージタイムが必要になる』
魔法陣……玉虫色に輝く光輪のことか。だから美咲一尉はカウントダウンをしていたわけだ。
『魔法陣が練成されたら、あとは目標に向かってぶっ放すだけ。簡単だろ』
簡単に言ってくれる。
しかし、ネクロノミコンの威力は既に見たとおりだ。美咲一尉がF2STで撃った魔法弾を、魔法使いは避けていた。戦闘機や戦車の砲撃には逃げも隠れもしなかったはずなのに……だ。
つまり、魔法弾の一撃は魔法使いにとって致命傷となる。
何十、何百という戦闘機や戦車の砲弾よりも、何よりもだ。
そんな武器を手にしている俺の責任は、あらゆる戦略的見地においても重い。
「俺のネクロノミコンの射程はどれくらいですか?」
『装填した弾丸の種類によって違うんだが――』
『六号弾は、最大収斂で五百メートル。範囲を拡大すると三百メートルしか届きません』
獅子堂司令の声に割って入る声。恋子二曹のものだった。
『恋子、なんであいつの弾の種類、知ってんの?』
『そりゃあもちろん、あの弾は私が恵一郎くんに与えた勇気ですもの。ね?』
偉ぶる二曹の笑顔が想像できて可笑しい。俺は顎を上げ魔法使いとの距離を目算した。
「ここからじゃ到底届かない。ってことは、やっぱり近づかなきゃ駄目ってことか」
『ですが、あの魔法使いは自分の半径百メートルに侵入した目標物を、十秒以内にあらかた破壊しています。真下に潜り込むなんて自殺行為。行き着く前に融かされちゃいますよ』
おいおい、んじゃどーしろって言うんだよ。
『それでも、おまえならやってくれるんだよな? なぁ、期待の新人クンよぉ?』
獅子堂司令の安い煽りが聞こえるが、俺にはそれに乗る以外に方法はなかった。
だって、そうだろう?
俺には曲げられない信念があるんだ。
命と引き換えに俺の信念が守れるというのなら……命なんて安いモノだ!
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