五品目:クラーケンの刺身定食と墨汁(後編)
オスカーはクラーケン討伐を終え、【夜明けの鷗】から素材を分けてもらうと、ギルドで依頼達成の報告を済ませ、いつもの【妖精の宿り木】へと足を向けた。
店内には客の姿はなく、静かな空気が漂っている。
オスカーはカウンター席に腰を下ろし、麻袋をどさりと置いた。
「今日は何を持ってきてくださったのですか?」
「クラーケンだ」
「クラーケン……? ああ、烏賊ですか」
アキヒコは麻袋を開け、中から身を取り出した。
瑞々しく、弾力のある上質な身。鮮度も申し分ない。
「良い身ですね。確か、ラッセン港まではかなり距離があると思いますが?」
「ああ。知人が水魔法で鮮度を保てるようにしてくれたんだ」
「魔法ですか……便利ですね。おや、これは?」
アキヒコは麻袋の底にあった瓶を取り上げた。
中には黒い液体――墨が揺れている。
「墨ですか?」
「ああ。向こうじゃ墨も食べるらしい。美味いと聞いた」
オスカーの脳裏に、ヨハンの言葉がよぎる。
――乾麺を茹でて、それに墨を絡めて食うと絶品だ、と。
だが、あのときは急いでいたため、断ってしまったのだ。
(……断らなきゃよかったな)
後悔の息を漏らすオスカーに、アキヒコが微笑む。
「えぇ、墨は独特の風味があって美味しいですよ。では、身は刺身に、墨は……墨汁にしてみましょうか?」
「サシミ?」
「はい。素材の旨みを“そのまま”味わえます」
(そのまま……か。響きがいいな)
「サシミってのは、焼いたり揚げたりするのか?」
「いいえ。生で食べていただきます」
「……え?」
オスカーは固まった。
(今……生って言ったか? モンスターを、生で?)
「な、生で食って大丈夫なのか?」
「えぇ。鮮度も良いですし、臭いも変色もありません。安心して召し上がれます」
「そ、そうなのか……」
生食文化のないこの世界で、オスカーの戸惑いは無理もなかった。
アキヒコもその反応に気づき、慌てて付け足す。
「あっ、無理にとは言いません。フライにもできますよ」
しばし沈黙。
オスカーは腕を組み、深く考え込む。
(フライなら間違いない……だが、“素材の味をそのまま”ってやつ、気になるな……)
(いや、ここは信じるしかない。ここの店主の料理は外れがない……!)
「――サシミの方で頼む。テイショクで。それと……ミソシルじゃなくて、さっき言ってたスミジルにしてくれ」
「大丈夫ですか?」
「ああ。未知の味ってやつを試してみたい」
「かしこまりました」
アキヒコは手際よく準備を始めた。
まず、クラーケンの身を刺身用と墨汁用に分ける。ゲソと軟骨をボウルに入れ、塩をひと掴み――いや、ふた掴み。
(おいおい……そんなに塩を入れて、しょっぱくならないのか?)
不安そうに見つめるオスカーに、アキヒコが笑みを向ける。
「この塩は、ぬめり取り用なんですよ。墨汁に臭いが移らないように」
「なるほどな……」
アキヒコは丁寧に揉み洗いをし、水で流し、布巾で水分を拭き取る。
食べやすくぶつ切りにしたゲソと軟骨は、墨汁の具材となる。
続いて刺身の準備。
皮を剥ぎ、薄皮を丁寧に削ぎ取る。包丁が身を滑るたび、瑞々しい白身が艶やかに光った。
薄く均一に切り分けられた身を、黒い皿に並べ、ツマと大葉を添える。
それを一度冷やすと、鍋の火を灯した。
出汁の香りが店内に広がる。
そこへゲソを入れ、灰汁をすくいながら静かに煮立てる。
程よく火が通ったところで、黒い墨を溶かし入れた。
瞬間、黄金の出汁が闇に飲まれ、鍋の中は漆黒に染まる。
やがて、器に注がれた黒いスープが湯気を立て、刺身とご飯が並ぶ。
「お待たせいたしました。クラーケンの刺身定食、墨汁付きです」
「こ、これが……サシミ……それに、これがスミジルか……」
白く輝く刺身と、夜のように黒い汁。
対照的な光景にオスカーは思わず息を呑む。
恐る恐る墨汁を手に取り、匂いを嗅いだ。
(……ほう、見た目と違って、香りは上品だな)
一口、啜る。
口の中に広がるのは、塩気と旨味の絶妙な調和。
深みのある出汁に、クラーケンの濃厚な旨味が溶け込んでいた。
(うまい……! 見た目に反して、優しい味だ)
次に刺身へ。
透けるような白身を箸でつまむと、指先に張りのある弾力が伝わる。
「刺身は醤油とわさびでどうぞ」
「ショウユとワサビ、だな」
「はい。わさびは少量がおすすめです」
言われた通り、わさびをほんの少し乗せ、醤油に浸して口に運ぶ。
瞬間――舌に広がるのはねっとりとした食感と、溶けるような甘み。
(な、なんだこの食感は……! 肉とはまるで違う。淡く、そして……上品だ)
もう一切れ。今度は少し多めにわさびを乗せて。
鼻に抜ける爽快な辛味が心地よく、白飯をかき込む。
(このワサビってやつ、最高だな……)
刺身、飯、そして墨汁。
三つの味が一つの旋律のように重なっていく。
肉料理とは違う、静かな幸福が舌を包む。
(生で食うってのは、こういうことか……素材と米が“手を取り合う”感じだな)
気づけば、箸の動きは止まらなかった。
刺身を平らげ、墨汁を一滴残らず飲み干す。
「……ふぅー……ごちそうさま」
「ありがとうございます」
満足げに息を吐いたオスカーは、硬貨をカウンターに置く。
そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば……いつも来てるご老人は?」
「ああ、ロ――あのお客様ですか。今日はまだいらしてませんね」
「そうか……」
オスカーはさらに硬貨を数枚置く。
「これで、そのクラーケンを渡してやってくれ。この前、世話になったからな」
「かしこまりました」
アキヒコが頭を下げると、オスカーは手を軽く上げて店を後にした。
オスカーが去った後。
しばらくして、店の扉が再び開く。
「いらっしゃいませ」
「うむ、いつもの」
ロージュがカウンターに腰を下ろす。
アキヒコは慣れた手つきで日本酒と鮭とばを用意した。
「そういえば、ロージュさん」
「なんじゃ、店主よ?」
「例の冒険者から、ロージュさんにこれを、と」
アキヒコは黒い皿をそっと置く。
そこには、光を反射して煌めくクラーケンの刺身。
「おお……これは刺身か。しかも、クラーケンとは珍しいのう」
「ええ、この前のお礼にと。食べてほしいそうです」
「そうかそうか……ふふ、気の利く若者じゃ」
ロージュは嬉しそうにモノクルを押し上げ、箸を取った。
醤油に浸し、わさびを少し――そして口に運ぶ。
「……ほう、鰹とはまた違う。これはこれで、歯切れが心地よい。美味いのう」
「ありがとうございます」
ロージュは酒を一口飲み、ほっと息をつく。
「それで、あの冒険のあんちゃんは?」
「ええ、前よりずっと元気そうでした。何か吹っ切れたようで」
「そうかそうか……」
ロージュは頷き、髭を撫でながら笑う。
その笑みは穏やかで、どこか誇らしげだった。
アキヒコもまた、静かに笑みを返した。
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