黒澤は広間を横切った。途中まで天井の高さはほぼ一定、幅も十メートル近くあるようで、そう変化はなかった。あの儀式の間と同等か、それ以上の広さ。かつての地底湖から水が抜けた跡なのではないか、と真人は想像した。


エレベーターを出てから柔らかな光の元を十メートル、あるいは二十メートルほど歩いたところで、再び白い壁に行き当たった。白い壁は横にも上にも広がっている。一目見て人工物であり、どうやら地底のこの空間の中に置かれた立方体の建物の正面に行き当たったようだ。


ちらりと真人たち三人を一瞥し、黒澤がうなずく。

「この中が、白琴会の核心、アガルタの入り口だ。入り口に通じる道は二つだけ。俺が普段使っていたのは仙開の真下にあるほうだ。老師、つまり水谷が使っていたのがお前達が降りてきた白琴会のものだが、水谷は俺の入り口は存在も知らなかっただろうよ。どういう意味か、分かるか?」


真人としおりは顔を見合わせて首をひねったが、亀利谷には通じたようだった。

「お前は老師のことさえ騙してるんだな。するとお前にとっては、白琴会も仙境開発も何もかもカモフラージュだな? 地上でキナ臭いことをやっていながら、それさえも本当の悪事を覆い隠すためのささやかな悪事ってことだ」

「ふふ。悪事とは何かとはまた深い問いだがな。俺は、俺の行為が悪事だとは今も思っていない。悪は水谷だ。俺はむしろ、老師の悪事を阻止した英雄として褒められてもよいぐらいだよ、ハハハ」


「狂ってる…」

真人はつぶやいた。黒澤達が自分の理解が及ばない思想信条で動いていることは分かっていたが、笑う黒澤には人間としての正気をもはや疑うしかない。獣と化した兄様と何が違うというのか。どちらのほうが人間であると言えるのか。


だが黒澤は真人の非難など意に介しない様子だ。

「どうかな。俺を狂っているととらえるか、それとも、自分達や今の世界を狂っているととらえるか。俺と同じ土俵に立ってから判断したほうがいい。そっちの若造は意味が分かるんじゃないか?」


水を向けられた亀利谷だったが、答えずに腕組をして黒澤を睨んだまま。

「ふん…」

黒澤は鼻で笑い、建物に向き直った。


ドアに類するような構造は存在しなかったが、黒澤が壁の前に立つと、その一角に長方形の空間が、切り取ったように現れた。上で体験したものと同じようなスライド式のドアに類する構造のようだ。

大人が背を屈めなくとも入れるほどの広さ。


「入り口か…」

開口部に進むべく壁に近付いてみて、その異常さに真人はぎくりとした。

壁は鍾乳石とは明らかに異なる組成で、しかも少なくとも正面に見えている壁は大きな一枚岩と見える。

「これはいったい…。おかしいじゃないか。鍾乳洞の中に、明らかに異質な石が…。しかも、こんな巨大な…」


どう考えても、白琴洞にこの大きさの岩が外部から入れるような広さの入り口はないだろう。もし、正面だけでなく側面や天井も同じような大きさの石で出来ているとしたら、とても現代科学で説明が付くような構造物ではない。まるでボトルシップのような無理難題だ。

「あれだ…。中南米の巨石遺構と同じニオイがする…」


「いいよみだ。だがそんな入り口のところで立ち止まっていてはその謎は解けないぞ」

黒澤はふふ、と笑い、入り口を先にくぐった。

「入れ。この中に、水谷がすべてを始めた部屋がある」


奥から届く黒澤の声に、亀利谷は今回もためらう様子はなかった。すぐに黒澤の後を追う。


真人はといえば。地底マニアたる自分が、ここに来てまさか怖じ気づくとは思ってもみなかったが、それでもこの入り口の前に立っていると、武者震いともなんとも説明が付かないぞくぞくとした気配に肌を包み込まれた。


この奥には、何か異質な空間がある。

すでに常識外の体験をたっぷりしてきた真人にとっても、室内の空気から染み渡ってくる予感はそれ以上のものを思わせた。

何が飛び出すのか。

怖ろしくもあるが、いま真人に残されている選択は前に進むことだけだ。

真人の後ろには何もない。過去の幻影であるしおりがいるだけ。真人が求めるものは後ろにはない。


真人達は黒澤に続いて中に進んだ。

広い部屋だった。パーティション状の壁で奥まではいくつかの区画に仕切られているらしく、まずは第一の区画に入った、ということらしかった。

天井も床も壁も、すべてくすんだ灰色で構成されている。おそらく元は白だったのではないだろうか。すべてが石だ。どこからどうやってここに運び入れたのかは見当もつかない。

部屋はほどよく明るかった。しかし天井にも壁にも照明とおぼしきものはない。天井や壁自体が柔らかく発光しているように見てとれた。


白い床の中央に、直径二、三メートルほどの円形の台座が設置されている。台座の高さは一メートルほどだろうか。

そこに高さ一メートルほどの像が置かれていた。黄色みがかった乳白色で、鍾乳石の典型的な色合いだ。

像は台座から生えているように見える。白い無機的な円形の台座から、まさに樹のように生えている。

一人の人間ではなく、二人の人間が絡み合っているもののようだ。いったいどのような意味を持つ造形なのか。


真人にはその根元の辺りの質感から、元は地面から突き出していた巨大な鍾乳石だったと見てとった。盛り上がった鍾乳石を囲むようにして台座が設置され、そこから突き出した鍾乳石の上部が造形されて像としての意味を持つようになったのではないか。


ではいったい何の像なのか。

はじめ正面から見たときには、あぐらのような格好でこちらを向いて座している、小さな猿めいた生き物の顔が見えたように思った。生き物の正面には同じように猿めいたものが、こちらは後ろ向きと思われる格好で向かい合っている。ちょうど、こちらを向いている猿の上に、あぐらをかいてもう一匹の猿が向き合って乗っかっているようだ、と見えた。


黒澤は像を前にして振り向き、一行によく見ろと言わんばかりに手で示した。


亀利谷はすでに興味をもって像に近付き、角度を変えて眺め始めている。

「これは…」


真人もおずおずと像に近付いた。像は上半身の辺りまで来るとほとんど汚れた岩のような色合いになっており、白い鍾乳石の面影は薄れている。猿を思わせていたのは全身のしなびたような流状の模様によるものだったが、近付いて目を凝らすと、体毛を示すような造形ではなく、むしろ衣の動きを示す造形のようだ。

黒っぽい頭部に目を移してみて、そこで真人は愕然とした。突然襲ってきたショックに膝が揺れ、思わず一歩後退していた。


手前側、真人から見て向こうを向いている猿の後頭部には、明らかに頭髪だったと思われるものがごっそりとへばりついている。決して、石の造形物ではない。

そして、真人の正面にいる猿の顔は、かのムンクの有名な絵よろしく、干からびているという印象を受ける歪み方を示していたが、どう見ても真人には人間の顔であるように見えた。ただし眼窩と鼻はただの鼻孔になり、唇もすでになく不揃いな歯だけが黒い口から突き出て並んでいる。


ひとたびそう見えるようになると、真人は持ち前のオカルティな知識を辿って、その顔が持つ特徴が中南米のミイラと酷似していることを悟り、恐るべき疑惑を前して思わず後退した。

「これは…」

真人は喘ぐような声を吐いた。喉の奥が乾ききって痰が絡んだような声になり、大きく喉を鳴らした。


男と。女と。

これは、二人の男女の像だ。

猿ではない。人間の像。

人間の像だが、まるで子どものようなその大きさ。石を削ったものとは思えないほどの緻密な造形。土気色の肌。

頭髪。


それに、二人の座した人物が正面で向かい合っているこの構図。始めは猿の親が子猿をあやしているようなそんな牧歌的な構図さえ頭をよぎったが。

よく見れば、男のあぐらの上に女が乗っていることになるのだが、女のほうは枯れた両脚をいわゆるカニ挟みで男の腰に巻き付けているようだ。

絡み合っているように見えるその構図に、真人はさらなる疑問を感じた。いや、そんなはずはないと理性的に打ち消そうとするのだが、しかしこの姿勢が意味するものは。


亀利谷が黒澤に向けてつぶやいた。

「なんだ、この破戒仏は。どこの秘宝館の展示物だよ?」

そして失笑する。

「これが、老師だと?」


亀利谷の指摘で、真人は自分が抱きつつも理性的なレベルで否定していた疑惑を追認した。

つまり、この二人の構図は、男女が正面を向き合い座位で絡み合っている、性行為中の姿を模しているということだ。

ちらりとしおりを横目で見ると、しおりも薄々気付いているらしく、顔を逸らすようにしている。


黒澤は微笑を続けている。亀利谷の指摘を否定はせず、むしろ次の言葉を楽しみに待っているような子どもじみた瞳の輝きさえ真人には見てとれた。

その黒澤が、太い声で言った。

「正解。それが像ではないことも、もう気付いているんだろう?」


認めることにはためらいがあったが、真人はうなずいた。

「どうなってるんだ…。これは、鍾乳石…なのか?」


「オーケー。いいだろう、謎解きを進めよう。お前達が恋い焦がれ、会いたがっていた人物が、ここにいる。つまりこの淫らな破戒仏こそが、老師と大ばば様だよ」


黒澤は静かに言い、老師とおぼしき像の肩をぽん、ぽんとまるで友達のように叩いた。

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