衝動的に飛びかかろうとした真人だったが、亀利谷の手が横に出て、その動きを制した。

ある程度予想されたことだったが、その阻止に真人は苛立ち、矛先を亀利谷に変えた。

「どけよっ」

「まだ早い。落ち着け、本多。こいつはもう逃げやしない。逃げる意味なんてないと分かってるから出て来たんだ」


「…ッ!」

まだ前に行こうとする真人の身体を、亀利谷の腕が押さえた。まるでライブで盛り上がり過ぎた観客を止める警官だ。

後ろからは、しおりも身を寄せてきて、こちらはそっと腕を引っ張った。

「真人…」


真人は鼻を鳴らし、拳を握ってぐっと堪えた。もう一度言葉を発して、行き場を失った感情の塊を吐露する。

「黒澤ァッ!」


白い壁は完全に開いた。引き戸のような仕組みになっていたようだった。

憤る真人を見ても黒澤が動じた様子はなかった。

「お帰り、真人。それから…空山君は久しぶりだ。もう一人は、招かれざる客というところか」

と、亀利谷を見て言う。

「この組み合わせからすると、空山君とよりを戻したのか、真人? 空山君はいい女だろう? 男は、一度味を知った女からはそう簡単に離れられない」


再び沸点に達しかけた真人の手を、しおりが痛く握った。

「乗せられちゃだめだよ。冷静に。クールになって」


亀利谷が一歩前に出た。

「お前が相手をしたいのは俺だろ? 本多としおりんをいじってどうする。ああ、いちおう挨拶しとくぜ。俺は亀利谷。アガルタの番人ってところだ」


亀利谷の名を聞いて黒澤は笑みを深くした。

「そうか…。北澤をやったのはお前か。徳島でも、小倉の水谷も…。いや、水谷は空山も一枚噛んでいたということだな。ここにいるのがこの面子ということは、清水と理沙子も終わったか?」


亀利谷がわずかにうなずく。


すると黒澤が破顔した。

「そうか。理沙子も用済みだった。まさか清水はなあ、生きていたとは思わなかったが、するとどちらもお前が片付けてくれた、と。いいねえ、実にいい。俺が意図しないところで勝手に物事が進んでいく。これが物語というものの醍醐味だな。さて、どうする? 真人はどうやら俺を殴りたいらしいが、それを止めた判断は正しい。俺をすぐには始末出来ないだろう。訊き出したいことが山ほどあるはずだからな」


「うぬぼれるなよ。お前じゃなくてもいい」

「なるほど。老師がいるなら、俺を始末してもいいと、そう考えるか? 老師からすべてが聞ける、と?」

そう応じる黒澤の表情は、笑みのまま変わらない。

亀利谷がやや高い声を出した。

「そうか、そういうことか。老師はもう…」


「ちょっと、待ってくれよ。何言ってるんだ、亀利谷。おい黒澤ッ、老師は…どこにいる。俺の祖父でもあるんだろう? もう分かってるんだ」

真人は亀利谷にとも黒澤にともつかないまま声を張り上げた。不吉な予想がずずと這いあがってきている。


「老師か」

黒澤は肩をすくめた。

「ハハ、老師、老師、老師! 水谷。すべてあいつが元凶だ、それは確かに間違っていない。あいつが今どうなっているか、自分達の目で見たらどうだ? ついてこい。今さら俺はどうもこうもしない。お目当ての老師に会わせてやる」

黒澤は身を翻し、壁の向こう、明るい空間に引き返した。


「ふん…。いいだろう」

ためらう様子もなく亀利谷がその後を追う。真人も躊躇はしなかった。


白い壁の向こうは、意外なことに広い空間ではなかった。わずか二メートル四方といったところの四角い小さな部屋だ。天井までも二メートル少しというところか。手を伸ばせば充分に届きそうで、随分窮屈な空間だった。

天井には明かりと思われるものは見受けられなかったが、天井自体が白く発光しているように見える。

壁も床も天井も白い。まるで病室だ。同じ白さでも鍾乳洞の壁の白さとは異なり、ここには自然を感じさせる要素がない。どの面も直線的で、人工物だった。


黒澤は奥の壁際まで進んで言った。

「この白い壁はドアになっている。俺の後ろにある生体認証装置で開閉と上下移動を行う」

「表にあった岩。外側からだとあれが仕掛けになってるんだな?」

亀利谷の問いかけに黒澤はうなずく。

「そうだ。なかなか、凝った仕掛けになったと思わないか? 昔から、秘密の入り口にはあんな仕掛けがつきものだ。生体認証も工夫するとこうも神秘的な装置の見かけをとることが出来る。面白いものだろう?」


真人としおりのすぐ後ろで、ほとんど音もせずに白い壁がまたスライドし、閉じてしまった。

「どういう仕掛けだ? 自動ドアみたいじゃないか」

「いやに静かだったけど、電気…?」

しおりも驚いたのか、思わず壁の引っ込んだ辺りを見ている。白い壁が閉じた今、この空間は直方体の白い箱となっていて、どこにもドアの駆動装置らしきものは見当たらない。


「電気はこの手前までだ。ここから先は電気など不要な世界だよ。電気がすべてだと思っていないか? 自動ドアぐらいのテクノロジーなら、アガルタの力に頼るまでもなく古来すでに実用化されている。入り口は油圧式だ。何もかもがアガルタのものを使えばいいというわけではないんだよ、ふふ」

黒澤は笑った。皮肉を感じさせる笑いだった。

「さあ、アガルタへ行こう」


黒澤が言うと、かすかに床が動くような感覚がした。

「…? この感じは」

真人はつぶやいた。おぼえがある感覚だが、こんな場所では予想もしていなかったものだ。


「そうだ。つまりこれは、地底に向かうエレベーターというわけだ」

「エレベーター…? こんな、場所で…」

しおりは驚きの声を上げ、白い箱の中を見回している。先ほどの自動ドアといい、しおりには衝撃が大きいようだ。

「エレベーターも、電気を使わないものは昔から原理的には実現されていた。現代のテクノロジーが人類の最先端の英知だと考えるのは、ただのおごりだよ」

黒澤は壁にもたれ、腕組みをしている。余裕さえ感じられるその態度だが、正面には亀利谷が長ネギを手に油断なく構えていた。


いっぽう真人は、このエレベーターに、驚きよりも持ち前の好奇心のほうが表に出てきたことに気付いていた。

黒澤への復讐心、憎しみの感情とは別に、この空間とこの空間を作り出した技術に対する興味が湧いていた。

真人をここまで導いてきたもの。あの儀式の棺桶と同じルーツのものに違いない。

それは誰がどこから生み出した技術なのだろうか。


エレベーターの動きは静かで、いったいどのぐらいの時間、どの程度の速度で降りていたのか、すでに見当がつかなくなっていた。黒澤の言葉がなければ、降りているのか昇っているのかさえ自分では分からなかっただろう。

その間、エレベーターにつきものの奇妙な沈黙が一行を支配していた。

黒澤と亀利谷は向き合って互いに牽制し合う状態のまま。真人はその二人に気を配りながらも、白い箱の動作自体にも神経を巡らせる。しおりはといえば、この得体の知れないエレベーターに不安さえ感じているのか、壁に手を添えたまま落ち着かない様子で天井や真人をきょろきょろと見回していた。


「到着だ」

わずかにまた振動を感じたかと思うと、黒澤が告げた。

再び白い壁が音もなく開く。


そこは再び人工を感じさせない広々とした空間で、天然の鍾乳洞内に戻ったことは明らかだった。

電気のものと思われる明かりはないが、柔らかな光が洞内を照らしている。昼間のよう、とまではいかないが、間接光で照らされた居酒屋やバーのような程度の明るさは保たれているようだ。光の色も蛍光灯のような青いものではなく、オレンジに近い。どこに光源があるのかははっきり分からず、天井自体が光っているようにも感じられる。


白い箱から出て振り向くと、天井は高く優に数メートルはある。降りてきたエレベーターの箱の周囲四隅には、支柱がまっすぐ天井まで伸び、天井に開かれた黒い四角の中へ吸い込まれている。岩塊の中をくりぬいて降りてきたエレベーターは、この広間では空中を降りてきていたことになる。

「…」

エレベーターを吊り下げているはずのロープの類はどこにも見当たらず、真人はしばらくぽかんとその不思議な光景を見上げていた。隣でしおりも同じように口を開けて天井の空間を見つめている。


「おそらく、磁力だよ」

亀利谷が、立ち止まっている真人達に気付いたか、言った。

「本多やしおりんの知識の範囲でいえば。リニアモーターカーを縦にしたようなものだと思えばいい」

「…磁力。あの箱は空を飛んでいたっていうの?」

「まあ、そういうこと」


黒澤が突然笑った。豪快な笑いだった。笑い声は洞内に響いた。

「そのぐらいで驚いていては先が思いやられるぞ」

また反響が残る洞内を黒澤は先に歩き始める。


亀利谷がすぐにその後ろを、相変わらず長ネギをぶら下げて狩人よろしく続き、真人としおりも奇妙なエレベーターに後ろ髪を惹かれながら慌てて追った。


明るさは異なり、滝と地底湖こそないが、真人はこの空間にあの儀式の間を連想した。どちらにも黒澤達の何らかの意図がもし働いているというのなら、似たような雰囲気であることも頷ける。

「ここも、白琴洞の枝洞なのか…?」

真人は訊ねた。

「そうだ。俺が知っている限り、最下層にあたる。この場所は白琴会にとってはご本尊。入ることが許されているのは、正式には老師夫婦だけだ。つまり白琴会の神秘性の源泉と言える」


「じゃあ、なぜお前が出入りしてるんだ?」

もっともな質問を亀利谷が投げた。


「俺だけじゃあない」

黒澤は振り向き、意味ありげに唇を曲げて笑った。

「俺と理沙子がここに来ていた。ほら、いいねえ、真人に空山。その顔だ。ここに初めてやってきたときは、理沙子もそんな顔をしていた。自分の理解力や前提知識を破壊される驚き。わずかな面影だけとはいえアガルタが実在することを知ったことへの混乱」


「理沙子はさっきの…仙開の社長だな? もう一人、兄様という男もここに来たことが?」

「清水か? あいつはここを知らんよ」

黒澤の笑みが広がった。

「あいつは水谷に従順だった。だからな、その夢を壊しては悪い」


真人は亀利谷と黒澤の問答に割って入った。何かがおかしい。真人達がこれまでに持っている情報と黒澤の発言は噛み合わない。何かがずれている。

「おい、兄様より理沙子のほうが老師に近い場所に入れるのは分かる。でも、それならどうして黒澤、お前が? なぜ兄様じゃないんだ。どうしてお前がここに入る人間を決めているような言い方をしているんだ。お前は老師と敵対してるんじゃなかったのか?」

「敵対…。敵対ね。それは過去形だよ。もう少し奥までついてこい。水谷に会えば分かるだろう」


真人は亀利谷と顔を見合わせた。亀利谷は長ネギを握り直すような構えをして静かにうなずく。

ちらと後ろを見ると、しおりは少し身を縮めるように二人の陰に身を引いていたが、その眼は険しく前を見ていた。


真人は鼻を鳴らした。何にせよ、ここまで来て行動の選択肢などないに等しい。今は黒澤が見せようとしているものを確かめるだけだ。

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