沈黙と硬直は重かった。

黒澤が言い終わってから誰もしばらく口を開かず、像を叩いた黒澤の他には動くものもいなかった。


黒澤が亀利谷を指さした。

「さっきいいことを言ったな。破戒仏、と。よく本質をとらえている。だがな、こいつは破戒仏である前に、即身仏だ。分かるよな、意味」


「即身仏、ね」

亀利谷は老師とおぼしき像に顔を近づけ、食い入るように見る。


「ソクシンブツって…?」

と、しおりが真人に震える声で訊ねてきた。


ふと真人には不思議な感情が訪れた。あまりに異様なこの地底空間で、あまりにも異様なこんな破戒仏だか即身仏だかを目の当たりにして、しおりの存在が一種の頼もしさをさえ感じさせた。悪夢の世界に舞い込んだ真人にとって現実を感じさせる存在。


「そのままだよ。偉いお坊さんなんかでね。生きながらミイラになって、そのまま仏として悟りを開くことを言うんだけど…」

しおりにそう答えてから、今度は黒澤に向けて、真人は疑問を発した。

「…これが、即身仏だって? こんな鍾乳洞の中で、ミイラが出来るわけないじゃないか。なんなんだよ、これは?」


「言っている。これが老師だよ。老師と、大ばばの成れの果てだ。二人仲良くすでに神の国でよろしくやっている。フッフッ」

「おい。茶化すな」

真人の語気は荒くなったが、すでに像に近付いていた亀利谷の反応は違った。


「いや、本多。これは…乾燥ミイラとは違う。まるでさあ、生きながら鍾乳石になったような…。即身仏っていうからには、黒澤はそういうことを言いたいんだと思うぜ。仏像って顔じゃないし、鍾乳石から削り出したものっていうわけでもない。鍾乳石でコーティングされた人体。そう考えるのがいちばん近いんじゃないのかな?」


真人も、像に近付き目を凝らした。どこかで見たことがあるような顔つき。

「この顔…」

後ろから、しおりが喉に張り付いたような乾いた声を出した。

「…真人に似ていない?」


「!? まさか…」

真人はもう一度、像の顔を見た。

鏡で幾度となく見ている自分の顔。

似ていると言われれば暗示的にそう見えるようにも思える。


「さすが、本多をよく知っているしおりん。案外、本人より周りのほうが顔の認識は早いもんだ。似ている理由はもう知っているんだったな、真人?」

「……」

真人は答えなかった。


老師と、その妻であり美奈子達の母である大ばば様。

その二人そのものが、ここで鍾乳石によってコーティングされてミイラ化している。

洞窟という湿潤な環境で出来るものとして、屍蝋というミイラの存在は聞いたことがあるが、しかし…。


「馬鹿げてる。これは鍾乳石だろ? 鍾乳石は100年単位で一センチとか、そういう成長だ。たかが数年数十年で、人を覆うようなわけがない。何を…したんだ?」


黒澤は答えずに微笑している。


真人を継いだのは亀利谷だった。

「違うな、本多。成長しているのは鍾乳石だけじゃあないみたいだ。床も天井も、この周囲の円形の領域が、明らかに周りとは違う成長をした跡がある。…時間でも促進させたのか、黒澤さんよう?」

「鋭い。アガルタを多少は知っているようだなあ。その区画だけ加速度をずらしたんだ。意味は分かるだろう?」


亀利谷は身体を起こし、敵意を明らかにして黒澤を睨む。

「好き放題にやりやがって。そのたびに影響が他に波及するんだ。許されることじゃないぞ」

「いやいや、誤解するなよ。そもそもは水谷だ。あいつが嫁を時間の中に凍らせてしまった。俺はただ水谷の遺体を嫁とセットにしてやっただけだ」

「偽善めいた弁明だなあ。自分の行いを素直に認めろよ」

「心外だ。俺は何も否定していない。むしろ、俺はただ芸術的な埋葬の仕上げをしただけだぜ。水谷に感謝されていいぐらいだ」


「待てよ、黒澤」

真人も奇妙なミイラから目を剥がし、亀利谷と並んだ。

「今、老師の遺体って言ったよな。老師も、お前が殺したのか?」

「いいや。水谷を殺したのは、理沙子だよ」

「…!?」

「積年の恨みを晴らしたんだよ。女としての喜びを奪った男に対して、耐えてきたすべてを、俺が解き放たせてやった。見てみろ、老師の背中にはパックリと傷があるはずだ」


黒澤の言葉に驚き、再び像の背中に注目する。

確かに、細い歪んだ裂け目があるように見える。

死に際の理沙子が老師のことで延々と呪詛めいたつぶやきをしていたことを思い出し、真人は震えた。あの理沙子の反応の意味はこれだったのだ。


「水谷が築こうとした愚かな帝国幻想の最後の姿だ。自分の犯した過ちを娘に償わされたんだよ。それを継ごうとした哀れな清水も人間ではなくなった。それはさすがに予想外だったがな。面白い。これだから面白いんだ」


真人は、像と黒澤を見比べた。

老師と大ばば様という、白琴会の最高階位にあるはずの二人が、すでに二人とも死んでいた。

老師は理沙子が手を下したという。その事実を、白琴会の誰も知らずにいたというのか。兄様でさえも。


すると理沙子と黒澤の関係は、誰にも知られてはいけない秘密を共有した仲間だったということになる。

理沙子は仙境開発と白琴会の表に立ち、老師も大ばば様も健在であるように振る舞って兄様や信者達を動かす役目を担い。

黒澤は一見するとその理沙子と敵対しているように見せながら、俗世界との交渉や裏工作を実際には行う裏の顔だった。


では、老師に心酔し服従していた兄様の意味はなんだろうか。いつしか羨望の対象がすでにいなくなっていたことさえ知らずに、理沙子に忠実でいることで、老師の敵とみなしていた黒澤に敵対していたその行動に、何の意味があったのだろうか。


美奈子や理沙子もそうだ。美奈子は言うまでもなく、理沙子もまた黒澤に動かされていたのではないか。老師殺しは弱みとしては充分に大きいものだろう。あるいは老師殺しさえ黒澤に教唆されたものなのかもしれない。


阿賀流に戻ってきてからの混乱と驚きで忘れかけていた行動原理が突然戻ってきた。

この馬鹿げたすべてを引き起こした連中を許せない。

自分だけではない。あまりに多くの人間の人生を振り回してきた元凶たる存在が許し難い。

その憎しみと、怒り。

ここにやってきたのは、それを解き放たなければ収まりがつかないという、激しい衝動のためだったのだ。


すべては今、黒澤に集約された。

あまりにも、憎い。


明確に憎悪の視線で黒澤を睨んだ真人だったが、しおりの悲鳴じみた声でややその気が削がれた。


「黒澤さん…!」

しおりはかすれた声だった。

「私、もういったい何が何だか…。あなたは誰なんですか? 私の知ってる黒澤さんなんですか? 私がやってきたことは…」


黒澤は答えずに笑みを浮かべているだけだった。

くるりと後ろを向き、部屋の奥へとゆっくり歩き出す。


逃げるような気配ではないが、後を追うべく真人は動こうとした。

すると亀利谷から声がかかる。

「本多。しおりんの面倒を見てやりなよ。可哀想に、いくら黒澤のスパイのようなことをしていたといっても、しおりんは基本的に常識の世界の人間だ。そろそろ正気を保てなくなる頃だろう」


厄介者を押し付けられたような気分になりつつも、真人は困惑顔のしおりを見て、頷かざるを得なかった。

しおりもまた黒澤の被害者なのだ。理屈ではしおりを憎むことは筋違いだということは理解出来ていた。感情はまだ整理はつかなかったが。


「黒澤を追うぜ。このミイラは、ショックだったかもしれないが、これでも本題とは違うんだ。この奥にヤツは秘密を持っている。俺が探していたもの―おそらく、アガルタの遺産がある」


亀利谷がそう言い、また前に立った。


真人はしおりに強めの声をかけた。

「おい。俺はとっくにお前みたいな複雑な感情なんか捨てちまった。今あるのは、黒澤を俺の手で殴るか蹴るか刺すかしたい、ただそれだけなんだ。お前だって、ここまで来たらついてくるしかないだろ? パニック起こしてる場合じゃないぞ。俺は行く」


そう言い捨てて前に少し踏み出してから、ためらいがちに振り向いた。


しおりは唇を真っすぐ結んで、怒りとも悲しみともつかないものを顔に浮かべていたが、真人と目が合っても逸らしはしなかった。


目くばせして再び歩き出すと、しおりがついてくる気配が感じられた。

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