影の一団は一斉に出ていった。

真人はなんとなくでもその数を数えてみようとしたが、暗さのうえにその素早さで、数匹という程度の数ではないことだけしか分からなかった。


一団が去っていくと、また静かになった。

「…今のは?」

真人は震える声で亀利谷に訊ねた。


「なんだろうな。俺には、巣穴から飛び出してくる蜂とか、そんな印象だ」

「ああ…なるほど。俺はあれだ、白琴洞のせいかな。よく夕暮れになると鍾乳洞からコウモリがワーッと出てくるあれ。そんなイメージが浮かんだよ」


「本多のイメージにしろ俺のものにしろ、共通してるよな。巣から出てきたんだ。夜になって、狩りに出たのかも」

「狩りって、つまり…」


「そうだよ。狩りは狩りだ。俺達が見付けられていないだけで、阿賀流にまだ少しは人間が残っているのかもしれない。いや、あの八百屋みたいに、残ってる遺体も狙っているのかな。仙開にいた連中も先発隊のようなものなんだろうな、きっと。あるいは、人間以外の動物だって探すのかもしれないし、獣の考えなんて分かるもんか」

「……」


「ただ、ここに来て今のを見てはっきり分かったことはあるぜ。ずっと疑問だったんだ。阿賀流の人間を襲ったのが何者だとしても、どこに隠れていたんだろうって。太陽が苦手だというなら、すぐ近くの白琴洞がお手頃な巣になるはずなんだ。でも白琴洞には連中は一人もいなかった。つまり、ただ暗ければいいってわけじゃなくて、白琴洞よりも奴らの巣としてふさわしい場所がすでにあるってこと。おそらく奴らは散らばっているわけではなく、ここに集まりつつあるんだ。まさにここが巣なんだよ、きっと」


「じゃあ、中に何がある?」

「さあね。入ってみるまでわかるもんか。ただ、日数の経過から考えると、巣としての機能はある程度確立されてるんじゃないかな。今出ていった連中が外回りの担当だとしても、中には巣を守る連中が残っているはずだ」

「それじゃあ、危険度MAXじゃないか」


「そうだな」

亀利谷はため息をついた。

「本多もしおりんも、待ってろって言ってるのにここまでついてきちゃうんだもんなあ。もう、この先は本当に俺、知らないぜ。さすがに周りまで構ってはいられないと思う」

「分かってる」

「…わ、私も」


「まあ、今さら止めやしないけどな。あっ、でもひょっとしたらって望みもあるんだ。阿賀流が、外との連絡を完全に失った死んだ村になっていたら、もっと日本中で大騒ぎになっているはず。つまり、そうならないように理性的に動いている人間もいるってことさ。それも、白琴会側の人間でな。もちろんそれがここにいるって保証もないけど、とにかく俺は行くぜ。もう、隠れる意味もない。主力が外に出払ってるなら、今のうちだ」

亀利谷は言いたいことだけ言い終わったかと思うと、真人達の返事を待つこともなく矢のように飛び出した。


頼りない明かりの中、あっという間に亀利谷は白琴会の正面に到着し、すぐに本堂の建物に吸い込まれる。

慌てて真人も駆けだした。亀利谷が二人を振り返ることがなかったように、真人はしおりを振り返ることがなかった。どうせ、おそらく少し間隔をおいてついてくるだろう。


正面入り口までも何人か、青い道着を着た人間達が倒れていたが、それも今となっては気を惹くものではなかった。ふと真人は亀利谷のもっている不思議なほどの冷たさ、無情さのようなものがどのようにして養われたものなのか、悟ったような気がしてぞっとした。


正面には大きな両開きのドアがあった。入り口の反対側では、表に向けて壁が途切れたアコーディオンゲートになっていて、開け放たれたままになっている。ここでも仙開と類似した雰囲気を真人は感じ取った。

息を整えながら少しペースを落として、ドアに向かった。正面のドアもまた両方とも大きく開かれたままになっている。

内側はガラス張りの風除室になっていた。手押しのガラス戸があるが、これも開いていた。ごく普通の蛍光灯の明かりが館内を照らしている。

亀利谷の姿はない。すでに先に進んでいるようだ。


風除室に入った真人が真っ先に気付いたのは、悪臭だった。

何日も風呂に入っていない人間の身体が放つものと同じそれ。同時に鼻を刺す刺激臭と、明らかに便のものとおぼしき臭気。顔をしかめた真人は袖口で鼻を覆った。それでも臭いは目を襲ってくるように感じられた。ただ人の遺体が放置されている空間というだけでの悪臭とも思えない。


後ろで気配がしてびくっとしたが、振り向くと同じように顔をハンカチで押さえたしおりの姿があった。

「真人。これは…」


真人は肩をすくめた。

しおりの相手をするのも億劫で、前に進むことにした。

ガラス戸の向こうは左右に続く暗い廊下だったが、すぐ正面にまた広い引き戸があった。これも開かれている。


その先には広間のような空間が待っていた。

二十メートル四方、あるいはもう少し広いだろうか。高い天井と板張りの床は体育館を思わせた。

広間の最も奥に、誰かが横たわっている。その前に何人か、あるいは何匹か、青い道着の者達も。

それからだいぶ距離をおいて入り口に近い場所に亀利谷が立っていた。入ってきた真人達からはその背中だけが見える。

亀利谷と青道着の間にはまだ五、六メートルの距離があるが、あの身体能力を考えると、その差は一息で詰まるものだろう。


「うっ」

真人は顔をしかめた。

横ではしおりがもっと露骨に顔を伏せ、鼻をふさいでいる。

「この臭いって…」


しおりは言葉に出さなかったが、真人も同じものを嗅ぎとっていた。先ほどまでの糞便の刺激臭とはまた違う、かすかに嗅ぎ覚えのある金木犀のような独特の臭気。

「これはいったい…」

真人はかろうじて声を絞り出した。


床は汚れていた。すでに乾いているものからまだ湿っているように見える土、泥、木の葉。乱雑に転がっている衣類の塊。ところどころ濡れている輝きと、汚物とおぼしき濁った色。


亀利谷は片手を上げて真人としおりの動きを制した。

「来たか、本多。それ以上は前に出ないほうがいい。俺がいるラインが奴らの警戒ラインのギリギリなんだ。ここが巣の本体だったよ。見てごらん、そこに女王蜂がいる」


視線を移して目を凝らすと、広間の最も奥は祭壇のように少し高くなっている。そこに毛布のようなもので包まれて横たわっていた人影が、裸の女性であることが身体つきで分かった。その顔は…。

「…姉ちゃん!? い、いや…理沙子なのか?」

真人は戸惑いの声を漏らした。


美奈子が亡くなっていることはいやというほど理解している。

これは分校で邂逅したあの理沙子、つまり仙開の社長に違いないのだが。

布にくるまっているとはいえ、その下は明らかに裸体だ。その姿は真人の理解の範疇を超えている。


そして理沙子に惹き付けられていた視界のピントがやや後ろに引いた。

理沙子の傍らには青い道着の者達が寄り添ってうずくまっている。眠っているのか死んでいるのか動かない者もいるが、顔を起こしてこちらを見ている者が、二体。あるいは二匹と形容すべきか。

その二匹はじっとしているわけではなく、かすかに首を揺りながら唸り声をあげている。つまり、侵入者から理沙子を守るための警戒姿勢をとっているということだろうか。


「分かるかい、本多。この構図はまるで女王を守る獣だよ。俺達は外敵だ。これ以上近付けば、いつ襲われてもおかしくない」

そう言う亀利谷は油断なく腰を落として身構えている。

「んで、こっちが三人になったとなると、向こうの警戒も強まる…」

亀利谷が囁いたのが合図になったわけではないだろうが、理沙子に最も近い場所でうずくまっていた青道着がもう一匹、身体を動かし始めた。

眠っていた様子だった理沙子も、その動きに反応して寝返りのような動きを見せる。


「女王が目を覚ます」

亀利谷が言った。

「それに、もう一匹」


三体目の青道着が四つん這いの姿勢に起き上がった。その顔を見た真人は思わず声を上げていた。

「…兄様!」


真人の声が刺激になったか、その刹那、警戒していた二匹の獣が動いた。

人間ではない動き。

四つん這いの姿勢からスタートして、一匹は祭壇を一気に飛び降りて、三人の先頭にいた亀利谷目がけて急接近する。もう一匹はさーっと祭壇から這い降りて接近した。


しかし、対する亀利谷の動きはまたしても驚異的だった。

ジャンプして先に飛びかかってきた一匹目の青道着を、大きく一歩踏み出し、真正面から長ネギで袈裟懸けにした。

長ネギは鉄棒か何かのように震え、折れることもなく青道着の身体を押し返す。飛び散る鮮血も何もなかったが、弾かれた一匹目はそのまま後ろに転がっていき、すぐに動かなくなった。


かと思うと返す刀で、這い寄ってきたもう一匹に長ネギを真っすぐ振り下ろした。これも一太刀で致命傷になったようで、背中に黒い線を浮かび上がらせた青道着は、やや痙攣したが動きはそこで止まってしまった。


「まず、二匹…」

息を乱す様子もなく亀利谷はつぶやいた。

「…側近の一匹と、女王にご対面だ」


亀利谷の動きに気圧されて呆然としている真人としおりの前で、亀利谷の言う通り、奥の理沙子と傍らの青道着が顔を上げた。

理沙子に寄り添うその顔を見るや、亀利谷に圧倒されていた真人だったが、あらためてその顔を確認し、それ以上の驚きにうたれた。

ここにいると内心で予想はしていたのかもしれない。しかしいざ目の当たりにすると心の整理がまるで出来ていないことがすぐに分かった。


「…本多のその反応からして、あれが、兄様だな?」

亀利谷が、確かめるように言った。

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