湖に消えた兄様に違いなかった。醜く汚れて酷い有様だが面影は残している。眼光は青く、ぎらぎらと亀利谷から真人へしおりへと視線が移っていくのが感じ取れた。


いっぽう、理沙子も身体を緩慢に起こすと同時にこちらを見た。少なくとも顔を向けた。虚ろな瞳は青くなく、視線は定まっていない。羽織っていた毛布がはだけ、年齢相応のややたるんだ上半身が露になった。


しおりが息を呑み、真人のやや後ろに後退した。

真人は顔をしかめ、亀利谷に問いかけた。

「何がここで起きてるんだ…」


それが兄様であることは一目瞭然だったが、かつての真人とは兄様についての認識が異なっている。ただの幼き日々の兄貴分などではなく、我が父であり、かつて美奈子が愛していた男だと今は知っている。

収まりがつかないこの感情は、驚きでも切なさでもうれしさでもなく。ただ困惑と振れ幅だけがある大きな激情だった。


「これは原始的な社会の構図じゃないだろうか」

亀利谷は静かに言った。

「ここでコロニーを作ろうとしていたんだ。その女王にたくさんの雄が群がって、繁殖させようとしたんじゃないのかな。そして周りを守る兵隊達。そのきっかけになったのが、この一匹。兄様の誕生だった…」


「繁殖ったって…」

真人は喘いだ。

理沙子は美奈子と双子なのだから、美奈子の手紙にあった生年通りだとするなら、今は五十四歳。すでに閉経を迎えているころだろう。

「…無意味じゃないか。なんで…」


「何かが狂ったまま、コロニーが作られ始めたんだ。ほんらいいるべきではない、あるべきじゃない生き物の、いびつな巣作りなんだよ。あの装置から始まって、ひずみがどんどん増してる。兄様が来るぞ」

亀利谷はそう言いながら、手で真人としおりに後退するよう促した。


理沙子の傍らにうずくまっていた兄様が、ずるずると動き始めた。

警戒した動物を前にしたときの緊張感で、空気が変わったと真人は感じた。

亀利谷は油断なく長ネギを持ち替えて、身体を兄様の正面に向ける。


不意に真人は悟った。超能力などなくてもはっきりと分かることだ。

亀利谷は兄様も駆逐しようとしている。すでに始末してきた怪人達と同じように。

兄様がどんな怪物になっていようが、亀利谷はすでに見てきたように淡々とその始末を終えるだろう。


混乱した感情が真人に訪れた。

この兄様に人間だったときの面影はなく。

分校で会った、立って歩いていた頃の兄様にしても、記憶がない真人にとっては他人も同然で。

むしろ躁状態のようなトチ狂った振る舞いをするおかしな人物であって。

それが美奈子の手紙によって実の父であると分かったとはいえ、何一つその実感はないというのに。


それでも。


真人は乾いた声をひり出した。

「亀利谷さん」


「あん?」

亀利谷は兄様に顔を向けたまま、真人のほうは見ずに応じる。


「兄様を殺さないでほしい」


真人がそう言い終わるか終わらないうちに、兄様が祭壇から滑り降り、亀利谷に躍りかかった。


亀利谷は相変わらず微塵も危険を感じさせることがなかった。

わずかに踏み込んで兄様の側面に身体を逃がしながら、長ネギをその勢いで兄様の肩口から一閃させる。


兄様の身体が宙に浮いた。長ネギの一太刀の勢いでひっくり返り、そのまま裏返しに飛ばされた。

床に落ちた兄様の身体は二回、三回と横転し、壁に勢いよく突き当たってようやく止まった。

そしてそのままうつ伏せの状態となり、動かなくなる。


時間にしておそらく五秒もあるかどうかという間の出来事。

あっと声を上げる間もなくそれは終わっていて。


亀利谷はすぐに姿勢を正した。

その背中と、壁に押し付けられ動かない塊となった兄様の青い身体を見比べて、真人の顔は強張った。

「あ、ああ…」

息が漏れた。


耐え難い虚脱感が訪れた。

疑惑への探求心だったのか、父への感情だったのか、はたまた復讐心だったのか。

それは定かではないが、また、真人から何かが抜けていった。

喪失の想いは途方もなく、脚はただの紙切れになり揺れた。

真人は床に崩れた。


亀利谷は毅然と立ったまま、静かに息を吐いた。

「あってはならないものは、修正しなきゃならないんだぜ。すまないが、それがお前さんにとってどういう意味を持つのかは問題にならない。俺には俺の仕事があるんだ」


真人はその言葉をぼんやりと聞き流した。

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