しおりは、一軒の店の前で身を細くして立っていた。真人達を見ると、視線と首でその店内を示す。

そこは小さな八百屋だった。通りとは開けっ放しの引き戸でだけ仕切られた、五平米もあるかどうかという程度の小さな店内。路地に面した膝ほどの高さの棚に、野菜や果物を並べるのだろう。今は空っぽのざるが無造作に置かれている。

明かりは点いておらず、店内は暗い。


「なんだ、どうした? …あっ」

店内を覗き込んで、真人は驚きの声を上げた。

「…人だ!」

店の通路に、重なり合って二人の人が倒れている。こちらに背を向けており、動く様子はない。


「人だな」

真人の後ろから亀利谷が顔を覗かせた。

「年寄り…夫婦…つまり、この八百屋の夫婦なんじゃあないのか?」

「…生きてるのか?」

つぶやきながら、真人は暗い店内に足を踏み出した。


「あの…大丈夫ですか? どうしました?」

声をかけながらしゃがみこんでみる。

女性の上に男性の身体が覆い被さっている。何者かが店の入り口に現れ、それから逃げようと店の奥に向かったところで倒れた、そんな結末を思わせる乱れた倒れ込み方だ。


暗くて近付くまでは分かりにくかったが、上になっている男性の顔はやや横を向いていて、歪んだ表情をその半面に貼り付けていた。

床には、店頭に並んでいたものの一部だろうか、野菜が転がっている。その周りに見える黒々とした染みは、野菜の汁だけではないだろう。


…血ではないだろうか。


真人はわずかに震え出した膝に言い聞かせて、そっと老人の背中に触れた。

衣服越しに感じられる温かさはない。繊維のかさつきだけが指に伝わる。

突然、横を向いているだけだと思っていた首の異常に気付いて、真人は思わず手を引っ込めて身を引いた。

老人の首には、厚みがなくなっていた。中身がなくなった袋のように、しおれている。汚らしい褐色が首を覆っているのは、これも血だろう。


心臓の高鳴りを押さえたかった。

鼻息がいつの間にか荒くなっている。


後ろに立っていた亀利谷が、代わりにしゃがみこんで老人たちの身体を検分した。

亀利谷は独り言のように淡々と言葉を発した。

「…首が絞り切られている。物凄い力で襲われたんだろう。下の奥さんは…撲殺されているみたいだな。何度も殴打された痕。顔面はミンチで、頭蓋骨が陥没しているな。これは、暗くてよかった。明るかったら、しおりんには耐えられなかったんじゃないか?」


「お、俺にも耐えられないよ。…説明は、もう、しなくていい」

「そうか」

亀利谷は、傍らの長ネギを手に取って立ち上がった。

「夏じゃないのは救いだな。これが夏なら、もっとひどいところだった。…っと、こういうことは言わないほうがいいんだな?」


真人はむっとして亀利谷を睨む。どうも亀利谷という男、こんな場面も場数を踏んでいて慣れているのか分からないが、少し一般人の感性に疎いようだ。


「とにかく。この人達は亡くなっている。傷の具合と…それから、この野菜達がずっとこの辺りに放置されていたとしたら、鮮度の具合から見て、数日経っているな。野菜は陳列される前に散乱しているようだから、つまり、未明のうちにでも、朝どれ野菜を並べようとしたところで、獣に襲われた。そんなところじゃないだろうか」


「獣…?」

「獣だよ。人間業か、これが?」

「獣って…要するにあいつらのことだろ?」

「そう考えるべきだろうな」


亀利谷は店の表に出た。まるで武器のように長ネギを右手に持ち、警戒を示す様子で辺りを見回す。

真人としおりは自然に亀利谷の近くに集まった。


「今は静かだが…村の荒れ方、人けのなさ、可哀想なこの人達の殺られ方。状況が表しているのは、何か人間ではないものが村を蹂躙した、そんなところだ」


「火事は…。火事はどういうことですか?」

しおりが白い顔で、それでも気丈な声で訊ねる。

「停電火災と同じようなことかもしれないな。火を消す間もなく逃げたか、あるいは襲われたか、混乱で何かに引火してしまったか。あるいは…」

亀利谷はそこで少しためらってから、続けた。

「…何かを燃やそうとした人もいたのかもしれない。建物ごと」


「何か?」

聞き咎めた真人だったが、ふとその意味を理解して口をつぐんだ。しおりの前で言うようなことではない。

「と、とにかく。つまり白琴会の怪人達が暴れてると、そう言いたいんだろ?」

「サテライトプランが発動したの?」

「そう考えたいんだがなあ…。まだ違和感もある。少なくとも、この村までの道のりでは、サテライトプランが発動しているような混乱はなかっただろう? だから、何かが起きたとしてもこの阿賀流の局地的なことなんだよ。それに、これまでの俺達の調査からすると、サテライトプランがもし発動したのなら、もっとスムーズに移行していると予想出来る。人が入れ替わるわけではなく、変化するんだからな。今までと同じ人間が、人間より高い運動能力を持ったとして。こんな、残虐なことを突然する必要があるだろうか。それこそ運動能力を生かせば、人間なんてどうにでも無力化出来るはずだ」


真人は同意した。怪人達の力は自分が身をもって体感している。

「じゃあこれは、サテライトプランではないなら、いったい、なんなんだ?」

「そこだな。推測が一つあるんだが…」

「ねえ。とにかく、こんなところで議論してる場合じゃないんじゃないの? もう、夕暮れが近い。相手が何者か知らないけど、夕暮れがまずいってことは確かなんでしょ?」


亀利谷はうなずく。

「まあ、そうだなあ。安全な場所を探すとするか。とにかく人なんだ。生きている人がいればな」

「人がいそうなところって言ったら、やっぱり仙開だと思う。あそこが今どうなっているのかは確かめたいな」


亀利谷は長ネギを手にしたまま、真人としおりに向かって、車を顎でしゃくってみせた。

「よし。それなら、車に戻ろう。急いで仙開に。本多は運転頼むわ。俺は手を空けておきたい」

真人はうなずき、しおりを促した。


「本多。しおりんのカバーはするんだぞ。何が起きるか分からなくなってきてるんだ」

亀利谷が真人に念を押してきた。


「俺が…? あんたのほうが俺たち全員守れそうだけどな…」

「守ろうと思えば。ただ、しおりんは俺よりお前に守ってもらいたいように思うがな?」


「…気のせいだ。俺は捨てられている。俺のことより、あんた。そのネギはなんなんだよ」

「これか?」

亀利谷は悪戯っぽく笑った。

「武器さ。言っただろ、長いものがあるほうが戦いやすいんだ、俺は」

「真面目に言ってるのか?」

「真面目さ。長ネギブレードってところだな。とにかく、俺はやるべきことはやるから、そこは心配ご無用。お前らも、出来るだけ注意しててくれよ。いくら俺が強いと言ってもな、こう予想がつかない状況だと、隙も生まれる」


真人は肩をすくめた。亀利谷は長ネギ一本ぶらさげて、どこまで真面目に言っているのだろうか。

佳澄のときに間に合わなかった男が、何をどう言ったところで、真人の不信はどうにも晴れない。

かと言ってしおりを守るようなモチベーションも湧いてこない。真人が守りたかった人はもういないのだ。


真人は煩悶としながら再びハンドルを握った。

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