仙境開発の外観は、一見すると普段と変わりないように見えた。

高い塀の先に正面口が道沿いに見えてくると、真人は亀利谷に訊ねた。

「裏口からのほうがいいんだろうか?」

「いや。時間も限られてるんだ。それに…ちょっと車、止めてみな」

「…?」


真人がブレーキを踏むと、亀利谷は身を乗り出し、入り口を指した。

「ほら、見てごらん。迷う必要はなさそうだ」

「…あ」


真人が目を凝らすと、百メートルほど先か、入り口近くの地面に青い塊が見えた。夕暮れの暗がりの中で見分けにくいか、確かに人か何かが倒れているようだ。

「あれはまさか…」

「白琴会じゃないか? 行ってみようじゃないか」

「あんな暗いもの、よく見えたな…。運転してる本人が気付かなかったのに」

真人は舌を巻いた。亀利谷という男はどうにも底が知れない。


「青い道着…白琴会でしょう? 白琴会の人がどうして倒れてるの?」

「さあな。それを確かめる必要がある…」

亀利谷はドアを開けた。

「…ここでアイドリングして待ってな。俺が様子をみて来よう」


真人はブレーキペダルを踏み、ハンドルを握ったまま頷いた。

フロントガラス越しに、長ネギを片手にぶら下げて亀利谷がすたすたと歩いていく様子が見える。危機感があるのかないのかまったく分からない呑気な後ろ姿だ。

冬だというのに手の平とハンドルの間に嫌な汗が滲んでくるのが分かる。正気で取り組むには厳しいことが起こっているように感じられる。


一人で外に出ていった亀利谷の姿が少しずつ小さくなる。夕闇の中に溶けていくよう。

車は個のスペースを作り出す乗り物だ。阿賀流で何が起きているにしても、車のボディに包まれているというだけでまだそれなりの安心感はある。

とはいえ亀利谷が離れていくと、締め付けてくるような緊張感も真人を襲った。何度か、ハンドルを握り直す。

助手席のしおりが、前方を見ていた顔の向きを変えて、真人のほうを向いた。

「真人…」

「うん?」

「大丈夫?」

「…何がだよ」


しおりは答えなかった。

真人はやや苛立って、もう一度しおりに訊ねた。

「なんなんだよ? 言いたいことがあるなら言えよ」

「そういう…感じ。真人らしくない。イライラ、トゲトゲして」

「…」


「亀利谷さんを待ちましょ? きっと、あの人の力なら、大丈夫」

「あいつの力を疑うわけじゃないが。でもあいつとお前は、一回もう遅れてるんだ。間に合わなかった。俺は忘れないぞ」

「真人…」


「だいたい、お前は俺のなんなんだ? 俺を騙してた女スパイじゃないか。それを、今さら、何様のつもりだ?」

「それは…」

「それは?」

「それは…ごめんなさい。謝罪のしようもないけど。でも、でもね、真人」

「なんだよ?」


真人は助手席のしおりを睨み付けた。しおりが見せようとする気遣いのようなものが不愉快だった。


真人が見ると、しおりの顔が切なげなものから突然、驚きに変化した。

自分の表情にそれほどしおりを驚かせるようなものがあったのだろうか、と真人は一瞬だけ訝しんだが、次の刹那、しおりの目線が真人ではなく斜めを向いていることに気付いた。


釣られてついと顔をしおりの見ているほうに向けたのと、フロントガラスに何かが飛び込んできたのはほぼ同じ瞬間だった。

「!?」

視界が黒っぽいもので覆われ、大きな衝撃が車全体に走る。

どしん、と重い音がした。


しおりが悲鳴を上げ、真人の腕をつかまえた。

真人はさすがに悲鳴は上げなかったが、驚きで声にならないまま息だけを呑み込んだ。


フロントガラスを覆うように張り付いたのは、どうやら人の形をしているようだと見てとれた。我が目を疑うわけではないが、どう見てもフロントガラスに人が腹ばいになっているようにしか見えない。

どこからか、人の形をしたものが飛び込んできたのだ。人間なのか、人形なのか。混乱でそれが何なのか見極めることはすぐには出来なかったが、人間のような四肢があるということだけは分かった。

そして、黒っぽく見えたのがどうやら青い服ではないかということも。


「やだっ…!?」

しおりがぎゅっと強く真人の腕を握った。

真人はしおりに返事をすることも忘れ、それの正体を見極めようとした。


張り付いた影が、手とおぼしきものを勢いよく振り下ろしてきた。フロントガラスに重い音が伝わり、再び車が揺れる。

「ガラスがッ?」


もう一度、フロントガラスにショックが走った。また、ガラスを叩かれた。

今度は真人も身を震わせた。フロントガラスに白っぽい筋が浮かんだのだ。


フロントガラスに張り付いているものは、どこから飛び込んできたのか、青い道着の怪人に違いない。その人間離れした異常な力で、フロントガラスを叩き割ろうというのか―。


腕を掴むしおりの力が強くなった。

真人は、亀利谷に言われたとおりにするつもりなどさらさらないつもりだったが、それでもこれは身を守ろうとする動物的本能なのか、それとも男としての虚栄心の成せる業なのか、しおりに声をかけていた。

「しっかりつかまってろ!」


熱い怒りが体内を駆け上がった。なぜこんないかれた連中に襲われていながら防戦一方でいなければならないのか。こんなシーンは恐竜が復活する例の映画で見たことがあるがティラノサウルスのような馬鹿でかいものでもなく。

この連中に大切なものが次々奪われていったのだという激情が迸った。


真人はアクセルを床に着くまで全力で踏み込んだ。

背中がシートに押し付けられる感覚があり、隣でしおりが助手席の中を転がったのが分かったが、構いはしなかった。

目の前に張り付いていた青黒い影が、手を振り上げていた格好のままバランスを失い、後ろ向きに崩れ、加速する車の正面から転落した。


真人はアクセルをキックダウンしたまま踏みっぱなしにしていた。

緩めることはなく、ブレーキに踏みかえることもなく。

車のすぐ前に転げたはずの青い怪人は、異常な反応力ですぐに姿勢を立て直したようで、四つん這いのまま尋常ではない速度で車の前から遠ざかっていく。真人には見覚えがある動きだった。


次の瞬間、真人はハンドルをそれから逸らす方向ではなく、まっすぐそれに向かう方向にきった。一瞬で四十キロ近くまで加速した車体が、跳躍して逃げようとしたその生き物を撥ねた。


ドアと天井に手を突っ張っていたしおりが、助手席で悲鳴を上げた。エアバッグが吹き出すまではいかなかったが、シートベルトがなければどこかにぶつけて怪我をするところだ。

ハンドルは強く握り、身体も踏ん張っていたつもりだったが、それでも衝撃で車体が傾き、蛇行した。青い塊は仙開の塀のほうに吹っ飛んだように見えた。

サイドミラーを一瞥すると、塀の傍らに青黒い塊が転がったことが確かめられた。


真人はそのままふらつく車を走らせた。開けた視界の向こうから、亀利谷が長ネギをかざして走ってくる。

一瞬だけ奇妙な衝動を覚えた。このまま亀利谷も轢いてしまえばいい。

一瞬だけでその妄想は消え、真人は急ブレーキを踏んで亀利谷の横に車体を滑り込ませた。

亀利谷はまだ止まり切っていない車のドアを開けて後席に転がり込んだ。


「本多! 襲われてたな、大丈夫だったか!?」

「大丈夫。轢いてやった」

「…!?」

亀利谷は不思議な反応をしたが、すぐに言葉を継いだ。

「そのぐらいで死ぬような連中じゃないな。俺は一人、いや、一匹か、始末した。とにかく話は後だ。このまま車を出して、どこでもいい、走り出せ! ここはきりがない」


真人は返事をするのも面倒で、そのまま再び加速した。


人を、轢いた。

死んではいないと亀利谷は言うが。

人ではないのかもしれないが。

轢いたものが狸や猫だとしても嫌な気分なものだが。


息が荒くなっていた。

軽い興奮状態にあるようだった。

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