店内は暗めの間接照明で照らされていて、落ち着いた雰囲気だった。


店の窓にはブラインドがかけられ、外の様子はあまり見えない。雨音も店内に入るとほとんどしなかったが、まだ降り続いていることだろう。

入り口付近と奥のほうには大きな鏡が壁に取り付けられ、観葉植物も雰囲気づくりに一役買っているようだ。

かすかにどこかで聞いたことがあるようなクラシックのBGMが流れている。

午前中のこの時間帯にしてはまばらに客もいるらしい。こんな用件のときでなければ時間を潰すには申し分がない場所だろう。


しかし今の真人は警戒していた。

北澤の素振りに妙なところはないが、まだ佳澄の存在に対する質問さえ出てこない。まっとうな打ち合わせをするつもりであれば、当然そのぐらいのことは、顔合わせの時点で気にしてくるはずだが。


北澤に導かれ、真人は店内を進んだ。

レジ前を通り過ぎ、いつも打ち合わせに使っていた奥のソファ席へ。


ソファ席まであと少しというところで、ふと真人のポケットでスマホが震えた。

しおりだろうかと思ってちらりと画面を見たが、着信ではない。

とすると、久々に虫の知らせが来たのか。一体何を知らせようとしている?


スマホ画面から視線を戻そうとしたとき、向こうにあるソファがちらりと目に付いた。

「…?」

ソファに座り、腕を組んでうつむき加減にしている客の男が視界に入ると、どこかで見たことがあるように思えるデジャヴが襲ってきた。


「どうしました?」

佳澄が囁く。

「どこだ? どこかで…気のせいか? いや……」


真人は足を止めた。

よく見ればどうなるというものでもないだろうが、眉根を寄せて目を凝らす。

そう遠くない最近。正面からではなくうつむき気味のその顔かたち。


「……あっ!」

真人は思わず声を上げてしまった。と同時にほとんど本能で危険を察知して、後ろの佳澄に、止まるように手でジェスチャーをした。

唐突に周囲の空間が狭まってくるような閉塞感が訪れ、喫茶店内がほとんど陽の光が入ってこない空間であることに気付いたのと、先を歩いていた北澤がぐるりと猛烈な速さで振り向いたのはほとんど同時だった。


北澤は唇だけ歪めて笑っていた。

それ以上見ているほど真人は間抜けなつもりはなかった。


ここは獣の巣穴だ。すでに真人達はそのあぎとに捕らわれている。

ソファの男が、あの男だという確信があった。あのときは一瞬見ただけだったが、それでもこれは疑いようがない。

あの栞を見付けたときに、例の本を棚に戻していた男。

真人と入れ違うように古本屋を出ていった男。


「逃げるぞ!」

「!?」

佳澄の腕を掴んで引きながら出口に駆けだそうとする。


振り向きかけた視界の隅で、北澤の手が伸び、ソファの男はビックリ箱のように跳び上がった。

近くを歩いていたウェイターがトレイを頭上にかざし、入り口近くにいたカップルも勢いよく立ち上がったところだった。


たちまち入り口までの通路はウェイターとカップルに塞がれた。

行く手を阻まれ、真人と佳澄は壁を背にして身構えた。舌打ちしながら左右を見る。右手の出口にはウェイター達。左手の奥からは北澤とソファの男。

「ちっ…」


「まあ、そう慌てないでくださいよ、本多さん。仙開で昨日から空山LDが無断欠勤してましてね。本多さんが何か知っているんじゃないかと思ったんですよ」

北澤はわざとらしい身振りで、奥のソファを手で示した。

「時間はたくさんあります。いつものように、奥で打ち合わせをしませんか? たとえば、本多さんがどんなことを北九州で調べてきたのか…」


「ふざけるなッ! そこまで気付かれてるなら、お前と話すことなんて何もない!」

真人は北澤を拒絶しつつ、状況を把握しようとした。

芳しくはない。入り口の連中をどうにかしない限り、逃げ道はない。見たところ誰も青い目はしていないのだが、さっきの動きはただ者ではない。


「そうつれないことを言わないでください。一蓮托生じゃないですか。我々は本多さんの文才に期待してるんですよ」

そう北澤が言うのを聞いて、真人は弾けた。

「バカにするのもいい加減にッ!」

北澤に殴りかかった真人だったが、その腕は届くことがなかった。

身体ごと北澤に殴りかかったはずだったが、北澤は驚くほど素早い身のこなしで真人をあっさりかわした。


次の瞬間には真人と佳澄の間に北澤は立っていて、真人の後ろからささやいた。

「無駄ですよ。阿賀流で私の仲間に会ったことがあるでしょう?」


「なっ!?」

真人は振り向いた。

北澤は微笑んでいるが、その瞳は青くない。

「ど、どういうことだ…?」


「超人には色々な段階があるんですよ。阿賀流にいない私は、陽の光もそう苦手ではない代わりに、そこまでの力は得ていない。しかしね、多少は超人の力を使うこともある。人の目に留まらないような速さで何かをする必要もありますからね。資金繰りや工作活動には便利なんです」


北澤はわざとらしく真人にウインクしてみせると、いきなり指で右目の下をおさえ、もう一方の指を瞳に当てた。

「人間はなかなか便利なものを発明したものです」

そう言いながら瞬きを繰り返す北澤の手の平には、黒っぽい小さなものが乗っていた。

それが何か見極めた真人が視線を北澤の顔に移すと、そこにはやや青っぽい右目と、黒目の左目があった。


「カラコンか!? そんなくだらないことで…!」

「くだらないでしょう? でもそんなくだらないことをちっとも見抜けないんだから、人間なんてもっとくだらないものです」

北澤は、フフと笑った。


「さあ。困るんですよ、今は大事な時ですから。本多さんも、清水さんも。東京で大人しくしてもらわないと。それなりの見返りの準備はあるわけですから」


見返りという言葉を耳にして再び真人は憤慨した。無謀と分かっていても北澤に怒りを解き放ちたく、ぐっと拳を握り、腕に力を込めた。

「そんなもの、もうたくさんだ!」


そのとき、それまで真人の陰に隠れ押し黙っていた佳澄が、突然声を張り上げた。

「北澤さんでしたっけ? そこまでですよ。すぐに両手を上げてください。本物の拳銃が、あなたの背中にぴったりくっついています」


「は…!?」

北澤が始めて驚きを感じさせる声を上げた。


真人も驚きで拳からふと力を抜き、佳澄のほうを覗き見た。

真人と佳澄の間に移動していた北澤の背中に、黒い拳銃がぴったりと照準を合わせている。


「それ、駐在さんの…!」

真人は目を白黒させた。

確かにあの拳銃は佳澄の部屋の金庫にしまったが、鍵は真人が持っていたはずだ。

「いったい、どうやって、いつの間に…?」


「本多さんがお酒で倒れたあの隙に、すみません、ストラップから外しました。どうしても、私は本多さんをあんなに滅茶苦茶にしたものが、許せないんです。憎いんです」

「あ、あのときか…」


佳澄は北澤に言った。

「あなた達が超人だか怪人だか知りませんけど。元は人間である以上、こんな至近距離で撃たれても無事でいられますか?」

「…う、うむぅ」

北澤の声にならない唸りが、その答えを示している、と真人は思った。

「ファインプレイだ、佳澄ちゃん。さあ、北澤。このまま両手を上げて、外まで俺達を案内しろ。他の奴ら、動くなよ。北澤が死ぬぞ」


油断なく周りに目を光らせる真人だったが、北澤はまだ動こうとしない。

「私の背中に。確かに何か硬いものが当たっているようですが。これが本当に拳銃であれば、なるほど私も無事では済まないでしょう。しかし、これが本当に拳銃なのか、本物なのか。私には確かめることが出来ません」

「正真正銘、本物だよ。阿賀流の駐在さんから貰ったんだ。おとなしくしろよ、北澤」


北澤はまだ動かない。

「よろしい。本物だと仮定しましょう。しかしその本物を清水さんのような素人の女性が撃てますかね? 使い方だって知らないでしょう?」

「私は、撃ちますよ」

佳澄は静かに宣言した。声に震えも高ぶりもない。

「使い方はネットの動画で学習済みです。安全ゴムを外してないなんてヘマもしませんよ。私は、本多さんをあんなになるまで追いつめたあなたがどうしても許せませんから。生まれて初めて、人に殺意を抱いています」


「……」

北澤は動かずに沈黙している。佳澄の淡々とした言葉を吟味しているようだ。

「私が後ろに手を伸ばして、拳銃を持つ貴女の手をはたくとして、貴女がそれより早く引き金を引けますかね?」

「そんなことを言うとは、余裕がないんですね。試してみますか?」

佳澄がそう言って挑発した。


真人は息を止めた。

佳澄の眼はじっと北澤の後ろ姿に向けられていて、隙はなく集中しているように見える。

殺気のようなただならぬ気配が真人にさえ確かに感じられる。鋭敏な怪人の感性をもつ北澤たちは、なおさらそれを感じ取っているのではないだろうか。微動だにしない。


「…負けましたよ」

だらりとしていた北澤の両腕が、降参を示すように手の平を上にしてゆっくりと頭上に持ち上がった。

「いいでしょう。今日は帰りなさい」

そう言い、北澤はのろのろと出口に歩き始めた。


そのすぐ後ろに、拳銃を北澤の背中にぴたりと押し付けたまま佳澄が続く。

真人は佳澄の斜め後ろから、油断なく周囲に気を配りつつ歩いた。

入り口の自動ドアの前まで来て、北澤は立ち止まった。

「傘、忘れないでくださいね」


傘立ては入り口そばの大きな鏡の前にある。真人と佳澄のビニール傘は確かにそこに突っ込まれたままだが、今はそれを取ることに注意を割かれるような場合ではない。


北澤が佳澄に隙を作ろうとしてそんなことを言い出したのだと真人は思い、断った。

「ふん、安物だ。くれてやるよ。行こう、佳澄」

「はい。さあ、両手を上げたままゆっくり回れ右をしてください」


佳澄は拳銃の的を逸らさないように注意しながら、少しづつ身体の向きを変え、北澤を誘導した。

真人も続いてそろそろと動く。

半周して、やっと佳澄と真人は自動ドアを背にして立った。

あと半歩、後ろに下がれば自動ドアが開き、外に出られる。


次の瞬間だった。

北澤が動いた。


上にあがっていた北澤の両腕が見えなくなった。


同時に、銃声がした。

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