第二十一章 花言葉
第二十一章「花言葉」1
朝。
真人と佳澄は、はやる気持ちをおさえてウィークリーマンションを出た。
しおりからは夜のうちに着信があり、だいたい時間通りにビル前で合流出来るだろう、と連絡があった。しおりと亀利谷があらかじめ合流し、それから現地に向かう、とのことだった。
真人達はJRの蒲田駅まで歩き、佳澄もだいぶ慣れてきた京浜東北線に乗った。北澤がいる社会創始社は淡路町にある。神田駅から歩くつもりだった。
すっかり冬の訪れを感じさせる気温の低い日で、マンションを出たときから空は灰色だった。
「嫌な空模様だな。気分が滅入る」
「午後から雨らしいです。不安定な天気みたいですよ」
「まあ、俺の気分も曇り空だ。これで雷か竜巻でも起きて北澤のとこに直撃してくれれば、天の怒りってところでピッタリなんだがな」
自分でも冗談なのか冗談でないのか良く分からなくなっていた。
神田駅で降りると、すでに小雨がぱらつき始めていた。駅前の売店でビニール傘を買い、足早に目的地に向かう。
冬の冷たい雨。日中だというのに暗い空の下を歩いた。靖国通りからは二本ほど内側に入っていて、通行人はまばらだった。細い通りに面したビルの前で真人と真緒は立ち止まった。
この上の階に北澤の社会創始社がある。暗い日だ。フロアに明かりが点いているのが分かる。
一階のテナントが喫茶店になっていて、よく北澤と打ち合わせに使用した。
思い出すとまた怒りが湧いてきた。あの打ち合わせの数々も仕組まれたものだったとは。何も知らぬは真人だけだったのか。
予定の時間まではまだ少しある。喫茶店に入る前にはしおり達との合流をしておきたい。
喫茶店は、流行りのシアトル系チェーンでもない古風な雰囲気だ。ブラインドが下がっていて店内の様子は良く見えない。明かりは点いているようだから、営業はしているだろう。
上のフロアから降りてくるだけの北澤は、いつも先に店内にいて、いちばん奥の静かなソファ席を確保していたものだ。
「ここですか…」
「ああ。もう少し待とう」
降り続ける雨の中、二人は待った。傘にボツボツと雨粒が当たる音だけがやたらと耳につく。通行人も車もこの時間ではそう多くもない。
寒さなのか武者震いなのか、真人は震え始めていた。
雨の冷たさもあって、傘を持つ手もかじかんできた。傘に当たるバラバラという雨粒の音が、時折走り抜ける車のタイヤが弾く水飛沫の音と混ざり合う。
予定の十時四十五分になったが、しおりと亀利谷はまだ現れなかった。
かすかな不安が芽生えた。
「…ちょっと、架けてみる」
やや長いコールの後、しおりは電話に出た。
「あ! 真人。いままだ電車なの。亀利谷さんも一緒。いま電車止まっちゃって」
「…なに?」
「お客様トラブルって…車掌さんが、キレたお客さんに殴られたとかで…」
「どこだよ、今」
「飯田橋。動きそうもないから、JR降りてタクるよ。もう切るけど、そんなに遅れないはずだから、亀利谷さんが行くまで待ってて。焦ってはダメ」
「ああ、分かったよ」
「どうしました?」
佳澄が訊ねる。
「どっかのバカがキレたせいでいい迷惑だ」
真人が説明すると、佳澄は不思議な顔をした。
「…都会の人は、荒れてるんですね」
「十一時には間に合うと思うが…」
真人は佳澄に聞かせるともなくつぶやいた。自然にうつむきがちになる。
佳澄は静かに真人の傍らに寄り添っていた。
そう経たないうち、真人と佳澄の前に、黒い傘を持った人影が現れた。
亀利谷が来たかと、真人は顔を上げた。
「やあ、お待たせしましたね、本多さん」
「き、北澤…!」
傘の縁から覗き込むようにこちらを見ている顔は、北澤のものだ。
「そろそろ来るんじゃないかと思って、様子を見に来たら、ビンゴでしたね」
黒傘を少し上げて見せた北澤の顔はにこやかだった。爽やかといってもいい。
真人は戦慄した。
いつもは喫茶店の中、奥のソファで静かに待っている北澤が。この日に限ってわざわざ出迎えに来るとは。
いや、真人達が来ることを見張っていたのかもしれない。
「さ、外は寒いでしょう。中でコーヒーでも」
北澤は屈託なく言う。
北澤の笑顔は本物なのか、それとも顔に貼り付けただけのものなのか。読み取ることは出来ない。
もし北澤が、まだ真人に正体を知られていないと思っているのなら、ここで断ることは余計な疑いを招くだろう。
どうすることも出来ない。
しおりと亀利谷はまだ来ない。
二人がやってくるまで、時間を引き延ばしてみるしかないだろう。
真人と佳澄は、傘を畳んで傘立てに入れ、北澤に続いて喫茶店の自動ドアをくぐった。
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