真人は虚ろな目で、カウンターの向こうの棚にある酒瓶のカラフルなラベルを見つめていた。


しおりが言葉を紡ぎ続ける。

「水谷さんは私とは違って、本当にあなたのことをいつも心配していた。それも、水谷さんにとってのあなたの存在を考えれば、当然なんだけど。東京で居場所を突き止められてから、あなたの元を離れて北九州の特命に携わることを条件に、あなたにささやかな幸せを提供することを訴えたの。その見返りの一つが私だったんだよ。でも、あなたのすべては満足させられなかったみたいだけど」


真人はしおりの皮肉に応じる気分にもなれなかった。

何か、大きな欺瞞があるのだ。

阿賀流で探していた、失われた記憶の時代どころではなく。

ごく最近の、美奈子が失踪してからの真人の周囲にも。


「水谷さんに不穏な動きがあるって言われて、私はあなたから水谷さんの監視役に替えられた。でもね、会ってみると水谷さんは最高の上司であり、敬愛すべき人。それに、本多真人という人を育ててくれた人」


真人は片耳でその告白を聞きながら、また酒を呷った。

次第に、聞きたくなくなってきた。

真実だか何だか知らないが、こんなに心に斬りつけてくるものなら、いっそ知らないほうが良かったのではないだろうか。


どうやら自分は後悔をし始めているようだった。

なぜあんな怪しげな名刺のメッセージに踊らされてここに来てしまったのだろうか。

なぜ、真人を優しく支えてくれる佳澄に嘘をついてまでやってきたのか。


「いい? あなたが知りたかったことの核心。水谷さんは、あなたを守るために交換条件として、白琴会の悪魔的計画をここで進めていたんだよ、ここで。それはね、人をアカリパウダーに依存させて、入れ替えようとする計画」


白琴会という言葉がしおりから飛び出してきても、最早驚くにはあたらなかった。


のろのろと真人は考えた。

佳澄と議論した時に浮かんだ疑問の一つだ。

美奈子を追跡した白琴会が、なぜその後、真人は看過したのか。

答えは簡単だ。

見逃してなどいなかった。

監視と束縛はずっとつけられていた。それも、愛のない結婚と離婚という残酷な形で。


そこに考えが行き当たっても、不思議なことにしおりへの憎悪や怒りは湧かなかった。

真人の中のささやかな弱さのような部分が、それでも、すべてが偽りだったとは、どうしても認めたくないと抗議していた。

しおりと笑い合ったときや手をつなぎ合ったとき、肌を重ね合っていたとき。思い返されるしおりがすべて偽りの感情で行動していたとは。

どうしても。

信じたくなかった。


「アカリパウダーの主成分は沢蟹なんかではなくてね、仙開の工場で化学的に作っている薬物なのよ。ただ、アカリパウダーはそれだけならただの健康食品。どう調べたところで成分にはなんの違法性もない。それに魔法がかかるのは、コールセンターの電話口」


少しぼうっとしていた真人だったが、ゆっくりとしおりを見た。

「魔法? 魔法だって?」


「電話口で、魔法をささやくの。一種の催眠ね。通話しているオペレーター本人にも分かっていないから、オペレーターは一生懸命トークスクリプトに沿って真面目に通話するだけでいい。音声の波長によって暗号化されたトークスクリプトになっていてね」

「トークスクリプトってのはなんだ? あのオペレーター達も言ってた」


「応酬話法、分かりやすく言えば、お客様と話すための台本のこと。それは社長が考えたスクリプトで。水谷さんが教育担当として展開していた。それが水谷チームの特命だったの。社長が考え出したスクリプトと、それを言葉に乗せる水谷さんの芸術的ともいえるような声色、感情表現が組み合わさって、ほとんど催眠術といってもいいような、そんな魔法のようなものが出来ていた。あれは、本当に魔法とか超能力とか、そういうものとほとんど変わらないように思えたな…」


「その魔法とやらがかかったらどうなるんだ?」

「魔法をかけられても、そのままでは何も変わらない。ただ、一斉に励起するための仕込みだって、意味は良く分からないけど、水谷さんはそう言ってた。つまり、そのトークを聞くと、アカリパウダーを摂取している人達の体内に、リミッターのようなものが仕掛けられて。そのリミッターがあるタイミングで、日本のどこに住んでいる人だろうと、一瞬にして全員一斉に解除される。あなた、見たことがある? 青い目の。あれに生まれ変わるの。もちろん出家者ほどの濃い血ではないけど、白琴会の意に添う程度の思考改造をともなってね」


「全員一斉に…? だって、何万人っていう人が、アカリパウダーを摂取してるんだろう? それが一斉にあれになるっていうのか? そんなことになったら…文字通り世の中はひっくり返るぞ」

「そうだよ。それが狙いだもの。白琴会は中途半端な革命なんて考えていないし、民主主義的手段で政権をとるなんて穏やかなことも考えていない。人間そのものを入れ替える…というか進化って言いたいみたいだけど、そうすることで、日本は一瞬で白琴会の土地に生まれ変わる。距離に関係なく、摂取が一定以上の段階に進んだ人が一斉に目覚めるのだから」


「距離に関係なく…。一斉に…。その話…。あれだ。東明大で聞いた量子テレポーテーションとかいうのと、なんか似てるぞ。そうか、つながってきたぞ。アカリパウダーの沢蟹養殖はやっぱりダミーだったし、量子テレポーテーションの実験は、そこと結びついてくるんだな。それを、姉ちゃんは理沙子とともに取り組んでいた…」


のろのろした頭の回転でも、しおりに対して一つの疑惑が芽生えるには充分だった。

「で、お前もそのチームだったってことは。仙境開発だか白琴会だかどっちでもいいけど、俺がここに来たこともこれから報告されたりして、阿賀流にバレたってことか?」


しおりは静かに首を横に振った。声を一層潜めて、真人に顔を近づけささやく。

「大丈夫。私は二重スパイなんだ。あなたや水谷さんへの監視役だったけど、水谷さんに救われたの。だから水谷さんの遺志を継いで、白琴会を阻止するために今は動いている。そのためにこうしてやってきたんだよ。水谷さんの言葉をあなたに伝えるために」


「姉ちゃんの遺志…?」

「そう。このままだとアカリパウダーに毒された人達が、どこかのタイミングで一気に日本中に生まれることになる。すでに阿賀流ではテストが行われているみたいね。やがて日本すべてが、無血革命で国ごとひっくり返る。水谷さんはあなたの安全と引き換えに、それに手を貸していた」

「…俺のため」


「でもね、いつかそれを終わらせたいと思っていたんだ。自分が取り返しのつかない悪事に手を付けていることが分かっていたから、止めたかったんだ。私を罪の意識から救ってくれたのも水谷さんだった。水谷さんは事故死なんかではなく、自殺でもなく。いや、ある意味では覚悟していたのかもしれない」

「それは、姉ちゃんが死んだときのことを、お前は知っているってことか?」


「もちろん。考えようによっては、私が水谷さんを死なせたんだから」

「なんだとっ!」


また立ち上がりかけた真人だったが、その途端にふらついて、カウンターに手をついた。周りがぐるぐるし始めている。

だいぶ酒が回っているな、とかろうじて自覚するぐらいの理性はまだ残っていた。


「落ち着いて。いい? 白琴会と仙開を決して放ってはおけない、そう思っている人は私だけじゃないんだ。味方はいるんだよ。私の言葉じゃあ、うまく伝わらないだろうし、そもそもあなたが私に不信感を抱いているというのも、良く分かる。だけどね、水谷さんの言葉なら信じられるでしょ? もし、あなたがここまでたどり着いてしまう、こういうときが来ることがあったらって、水谷さんから託されていた手紙」


「姉ちゃんが、俺に…手紙?」

「そうだよ。私がこれ以上何かを言うより、それを読んで。それから、水谷さんの想いを受け止めて考えてほしいんだよ」


疑わしげな思いで、真人はしおりが差し出した白い封筒を受け取った。鼻息も荒く、封を切る。

きれいな封筒に、便箋が何枚か入っている。

取り出してみると、細かい字でびっしりと文が連ねられていた。


その筆跡が確かに見慣れた美奈子のものであることに気付いたとき、アルコールですでにやられつつある真人の感情は不意に高ぶった。

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