第十七章 兄様の軌跡
第十七章「兄様の軌跡」1
翌日。
真人と佳澄は、午前中のうちから出かけることにした。
蒲田から京浜東北線に乗って、東京駅で中央線に乗り換える。ラッシュのピークは避けたが、それでも学生らしき人は多く、電車も駅も混んでいた。
真人でもそう感じるのだから、佳澄にはより混雑を感じられたらしく、御茶ノ水の聖橋口の改札を出ると、佳澄はホッと真人に聞こえる大きさで息を吐いていた。
改札前の交差点の雑踏を抜けると、急に風が冷たく感じられた。
兄様がかつて通っていたという東明大は、御茶ノ水駅からそう遠くない場所にある。
御茶ノ水といえば明大や日大といった、日本を代表する私大の結集地の一つだが、東明大もその例に漏れず、聖橋口から秋葉原・神田方面に急な坂を下っていく道沿いにキャンパスを有していた。
コートの前をしっかりあわせて早足で歩いた。
「うう、寒い」
「寒いですね」
「佳澄ちゃん。俺が寒いというのは分かるけど。君は阿賀流出身だろ? あっちのほうがどう考えても寒くないか?」
「そうなんですけどね。不思議ですね。阿賀流のほうが風は冷たいはずです。でもなぜか、東京のほうが寒く感じます」
「なんでだろうね。寒いはずだって先入観があると心構えが変わるのかな」
「人の心の寒さ、かもしれませんよ」
「それは…あながち否定できないのかもしれない」
佳澄は冗談めかした口調で言う。
「あーあ、本多さんが手でも握って温めてくれたらいいんですけど」
「…」
以前なら、そんなことをしたら手が腐食するなどと、佳澄を見下して内心で茶化しているところだが、どうにもそんなことを言える心境ではなくなっていた。
代わりに自分を卑下して誤魔化した。
「いや…さっきウンコしてから手洗ってないから、やめたほうがいい」
「それは…。いやですね。本多さん、エンガチョです。離れて歩いてください」
「へいへい」
東明大の門は比喩ではなく大きく開かれていた。
守衛所こそあるが、車の往来が可能な広い入り口を進む。
ちょうど、二限辺りが始まる時間の頃合いだったようで、学生や、教職員とおぼしき人々の出入りがあった。大学の常として、入り口で身元確認のたぐいが行われるようなことはもちろんない。
二人とも学生としては通用しないだろうが、研究者や助手、院生としては十分に通じる。今のところ、出入りを疑われるような心配は全く必要ないようだった。
佳澄と顔を見合わせうなずき合って、真人は素知らぬ顔で東明大の敷地に足を踏み入れた。
「大学、か」
真人はつぶやいた。
就活目前にして美奈子の失踪に見舞われた結果、中退している真人にとって、大学はなんとも思い入れが少ない場所だ。
「中に入ったはいいけど。何からどう調べるよ?」
「私が事前に調べたことと…あのメモリーの内容から、当時の兄様がいた学部と、ゼミの担当教授の名前は分かっています」
「ふむふむ」
「工学部に今もその教授は在籍しているようです。安藤教授というそうですよ」
「じゃあ、その人に話を聞いてみるってか。専攻は、なんなんだい? その先生の専攻が、つまり兄様の研究分野でもあったわけだろ?」
「専攻は、宇宙物理学となっていました」
「宇宙物理学…?」
真人は首を傾げた。また予想もしなかったキーワードが飛び出してきたものだ。
「どういう学問だ?」
「その名の通りで。宇宙や星に関する物理学ですね」
「兄様は、量子力学とやらじゃなかったのか? 良く分からないな」
「どうも、最先端の量子力学と宇宙物理学は補完し合うものらしいですよ。どこまでもミクロなもののことを調べていったら、宇宙そのものを調べないと先が分からなくなった。その逆も。宇宙の成り立ちを調べようと思ったら、ミクロの粒子のことを調べないと先に行かなくなった」
「じゃあ、無関係というわけではないのか」
「そうらしいです」
「うーん。最先端の理系学問ってのはどうも素人にはチンプンカンプンだな」
「そうでしょうか。私が調べる限り、もちろん数式や技術としては難しいものも必要ですが、それがなければ研究できない、というものとも少し違うように思いますね。むしろ必要なのは着眼点であったり、全体を見渡す視点であったり。新しい理論の発見はちょっとした思い付きや疑問からであったり。先入観や固定観念がないほうが斬新な発見が出来ることも多いようです」
「そんなもんかねえ…」
「あの装置のアイディア自体、黒澤さんに提供されたと言っていたわけですから、兄様の本領域ではなかったのかもしれません。ただ、下地というかそれを受け入れる考え方のようなものは、ここで培われたのではないでしょうか」
「しかし、そうするとなあ、黒澤さんのほうが量子力学をって話になるよな。そんな人がさ、どうして阿賀流に呼ばれて健康食品なんか売ってるよ?」
「そうですね…。それはまた残された疑問なんですよね…」
黒澤の素性にはまだ謎が多い。決して見た目通りではないし、善人ではない。何か黒澤自身の思惑があって仙境開発と白琴会を使おうとしている。
だがそれは、今考えるべきことではない。今は、黒澤と同じ船に乗るしかないのだ。
メインホールらしき場所に入り、穏やかな暖房の効き具合に、真人達はほっと息をついた。
ホールの壁にある階数案内に目を通す。
「安藤研究室…。安藤、安藤…。あったぞ。八階だ」
「本多さん」
「うん?」
「本丸に行く前に、まず、図書館に行きませんか。この奥からつながっているみたいです」
「図書館? どして?」
すぐにでも安藤研究室に行きたかった真人は、エレベーターに向かう足を止めて佳澄に訊ねた。
「予備知識もなく行っては、収穫が少ないかもしれません。そう何回も来られるような時間もないと思いますし」
「なるほど。図書館で予備知識を?」
「そうです。東明大は、開架の図書館の他に閉架のフロアもあって。過去の卒論や論文や、外部の発表会の映像をデータベース化しているそうです。しかも、開架でも閉架でも、端末からサマリは見られるそうなんですよ」
「なるほど」
「本多さん?」
佳澄が語尾を強めに上げてきた。
「ん? なんじゃい?」
「さっきから、なるほど、ばっかりですね」
「いや…」
真人はポリポリと鼻の頭を掻いた。
「佳澄ちゃんの調査力というか、そういうものに頼りっぱなしのような気がしてね。どうも東京に戻ってきてから、俺は不甲斐ないな」
「そんなことないですって。本多さんは行動力の人じゃないですか。本多さんと一緒だから私も迷わないんです。じゃないと、私だけじゃこんな大都会、右も左も分かりませんよ」
「なるほど。でも、君ならなんだって順応出来そうな気がしてきているよ」
佳澄は軽く咳払いをした。
「また、なるほどって。とにかく本多さん。まず下準備。図書館で少し攻め方を考えましょう。さわり程度でも事前に情報に触れておくのと、まったく知らないのとでは、戦果が違います。いまは情報戦の時代ですヨ」
「なるほど」
「…もう!」
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