2
佳澄が静かに立ち上がり、部屋に備え付けのティファールのポットでインスタントのドリップコーヒーを入れた。
「頭を冴えさせましょう」
「ありがとう…」
真人は佳澄からカップを受け取り、啜ってから続けた。
「美味い…。ふうー。で、あれがどういう装置で、どんな仕組みで動くものであれ、俺達が見た事実だけで言えば、だ」
「はい」
「装置が正しく動作しなかった結果、二十年近く前の儀式のときには、俺の記憶の一部が奪われて、真緒の記憶能力の一部に障害が出た。そして今回は、兄様の精神をおかしくして、真緒という存在はそれ自体、消してしまった。起きた現象そのままなら、そういうことだよな」
「そうですね」
「なぜそんなことが起きたんだろうか」
真人は、佳澄に訊ねるというよりほとんど独り言のようにつぶやく。
「俺には良く分かっていないから復習なんだけど。量子なんちゃら、だっけ?」
「量子テレポーテーション」
「そう。その、量子テレポーテーションを、もうちょっと詳しく知りたいな。君やおばさんは、少し調べていたんだろう?」
「はい。真緒ちゃんの記憶能力の障害については、医療機関ではお手上げでしたから。その原因を、医療機関とは全く違う角度で。つまり、既存の科学とか医療とは全く違う方向で。白琴会が関係していて、あり得ないことがあり得るのだとしたら、どういうことなのか、と」
「で、量子テレポーテーションに行き着いたの?」
「そうですね…。お母さんが盗んだ情報からも、その方向で調べを進めました。量子テレポーテーションが応用化されている装置ではないか、と」
「テレポーテーションってのは、あれだよなあ。瞬間移動」
「SFではそれですね。でも、量子テレポーテーションは、SFでいうテレポーテーションとは少し違うらしいですよ。私もそこまで詳しくは分かりませんが…」
佳澄はいったん言葉を切って、白紙に図示しながら続けた。
「量子テレポーテーションそのものの原理でいうと、こういうことらしいです…」
と、佳澄は白紙に二つの小円を描いた。ほぼ同じ大きさの円が二つ、横に離れて並んだ。片方にA、もう片方にBと書き込む。
「Aという粒子があるときに、そのAというのは、ある世界ではAですが、同時に別の世界ではBである、というふうに、二つの可能性を持っているんです」
「別の世界? いきなりSFじゃないか」
「SFではなく、量子力学というミクロ物理学での考え方ですよ。多世界解釈と言われています。SFの言葉なら確かに並行世界のことですね。AがAである世界と、AがBである世界のそれぞれに、世界は無数に分岐していくんです。いま、この瞬間も」
「え。Aが急にBに変わって世界が分岐したりするのかい?」
「いいえ。Aはもともと、AでもありBでもあるんです。Aである世界も、Bである世界もどちらもあります。でも、私達が知ることが出来るのは、たとえば、AがAである世界だけなんです。それは、私達の世界はAがAであることに決まった世界だからです」
「じゃあ、AがBに決まった世界も、見えないだけで、パラレルワールドとして存在してるってこと?」
「そうです。もしかしたら、AをBとして認識している私達だって、そっちの世界にはいるのかも知れません。逆に、向こうの世界の私達は、AをAとして認識できることは絶対にありません。向こうの世界は向こうの世界です」
佳澄はそれぞれの円をさらに大きく囲って、世界Aと世界Bとした。
「む、むう…」
「ある世界ではAでも、別の世界では必ずB。しかし、どれだけ時空間が離れていても。たとえそれが別の分岐世界でも。お互いにもともとは同じものですから、関係は残っていて。それを、量子もつれというのだそうです」
「どれだけ離れていても?」
「はい」
「血縁関係みたいだな。いくら否定しても血のつながりだけは消せねえぜゲハハみたいな」
「何の話ですか…」
佳澄はくすくす笑いながら、円Aと円Bを結ぶ点線を描き足す。
「関係が残っているということは。例え話ですけど、あの装置への推理を含めて考えると」
「ふむ」
「本多さんAが、あるとき生まれました。そのとき、本多さんがAではなく本多さんBである世界も生まれます」
佳澄は、世界Aと世界Bに、人の形をそれぞれ描いた。
「ちょっと待って、佳澄ちゃん」
「はい? 頭が混乱しますか?」
「いや。…絵、下手だねえ」
「…ほっといてください」
佳澄は頬を膨らまし、続ける。
「二人の本多さんは、宇宙を遠く離れていても、別の世界でも、同じ本多さんなので、どこかで何かがつながっていて」
「どこかで何かとは、また詩的だな。物理学だろ?」
「不思議ですよね。量子力学の行き着く先は、哲学とか宗教だっていう人もいるそうです」
「だから、白琴会が執着しても不思議はないということか?」
「どうでしょうね」
「ううむ…。まあ、それはおいておこう。先を」
「はい。このとき、本多さんAが今どういう状態にあるかが分かれば、本多さんBの状態は、Aの状態ではないほうだ、っていうことは分かりますよね。AかBの二つしか可能性がない、としてです」
「はあ…。そりゃそうだね。AじゃないならBに決まってる」
「それが、量子テレポーテーションの理論です」
「むう?」
「もともと同じ本多さんが、AでありBでもあって、そのどちらかになる可能性だけだった。とすれば、どんなに世界が違っても距離が離れていても。片方がAに決まったら、その瞬間、もう片方は必ずBに決まります。比喩的な表現ではなくて、物理的に一瞬でそう決まります。どんなに離れていても一瞬です。このことの異常さが分かるでしょうか」
「異常…? あ。どんなに離れていても一瞬ってことは…速さと距離の法則を無視しているのか。伝達速度が光速を超えちゃうってこと?」
「そうです。Aの状態が分かった瞬間にBの状態が決まるためには、Aがどういう状態なのかBに伝わっている必要がありますよね。それなのに、どんなに離れていても一瞬ということは、光速を超えてしまう」
「やばいな。光速を超えるってことは、因果律に反する。時間をも超えてしまうわけだから」
「だから不思議なんです。時空間の枠で説明しようとすると理解出来なくなります。だから、むしろこの関係のほうがまず世界の真の姿としてありきで、あとから時空間のほうが出来上がった、って、そう考える人もいます。私達の常識とか直感に反しているのは、私達自体が時空間にとらわれた存在に過ぎないからだ、と。そういう理論ですから常識的には理解できませんが、でも、ミクロな物質の世界ではこれが事実なんです」
「事実? おかしいじゃないか。だってさあ、伝わってるってことは、信号なわけだから、何か物質を媒介にするわけだろ?」
「そこが量子テレポーテーションの面白い…というか摩訶不思議なところで。本多さんAそのものが本多さんBの世界にテレポートするわけではないですから、何も伝わってはいないんです」
「テレポーテーションといっても、俺自身がテレポートするわけじゃないんだ。もともと世界Bのほうにある俺の状態が、その瞬間にBに確定するというだけで」
「そうなんです。本多さん自体は、最初から両方の世界にいるんです」
「くあー、訳が分からんな。何も伝わらないのに伝わっているってこと…?」
「そうなります。最初からどちらの可能性の世界も存在して。どちらかの世界が確定すると、もう片方の世界も瞬時に確定する」
「物質の転送、ではないんだな? それがSFのテレポーテーションとの違い、と」
「そうです。瞬時に決まるのは情報だけ。しかも、その情報がどういう情報なのかは、『決まる』のに『伝わって』はいない。でも、それを応用すると、粒子レベルのものなら物質の情報を伝えられることも分かってきています。理論的なことだけで言えば、物や人間の情報も転送出来るようです」
「物質も、人間も…。それがあの装置だって言うのかい? じゃあ、たとえば俺の情報が全部転送されるような量子テレポーテーション装置があるとしたら、どういうことが起きる?」
佳澄はじっと真人を見た。
「元の本多さんAは、転送された瞬間に消滅するのだと思います。物質として転送されるわけではないと言っても、本多さんAとしての存在を示す情報がすべて転送されてしまうわけですから。そうして、どこか別の世界…本多さんBがいる世界にそのデータが復号化される」
消えた真緒のことが、真人の頭を嫌でもかすめた。
「そのとき、俺Aの心とか記憶はどうなるんだ? 消える瞬間に、Bの場所で心とか記憶も引き継いで俺Bとして動き始めるのか?」
「分かりません。人間の意識や心のようなものがすべて本当に物質に由来するものなのか。それは、宗教的な議論ですよね」
「霊魂みたいな話になってくるな…。それにさ、俺Aの情報を転送する前の世界Bにだって、俺Bはいるわけだろう? その、俺Bはどこに行くんだ?」
「量子力学の多世界解釈ですごく乱暴に表現するなら、本多さんAが転送された瞬間に、四つの世界が新しく生まれるのだと思います。本多さんAが転送されていなくなった世界A、本多さんAが転送されなかったままの世界A、本多さんBが本多さんAになった世界B、本多さんBが本多さんBのままの世界B」
「なー、んなバカな。そんな、世界や宇宙が、個人レベルのやりとりから生まれるわけがないじゃないか。ああいうものを阿賀流で見てきて、いまさら常識でものを考えようとは思わないが、しかしなあ…」
「でも、それがミクロの世界では事実ですよ。関係する因子が増えてマクロな世界になればなるほど、そこから分岐していく世界はどんどん増えますから、可能性がそれこそ超天文学的な確率というだけで。今の本多さんと限りなく近いけど、ほんの少しだけ何かが違う本多さんがいる世界も、きっとどこかにはあるんですよ。ただ私達がそれを『観測』して『認識』することが出来ないだけ。無数のミクロな分岐が続いていて、無限に世界が生まれていて。その中で私達が認識できているのが、自分たちがいるこの世界だけ、っていうことです」
「やっぱりそれは…もはや科学というより観念、哲学、宗教の世界じゃないか。白琴会はそんなことで、何をやろうとしているんだ? 世の理でも知りたいのか?」
佳澄は眉をひそめた。
「案外、そうかもしれません。そのための超人なのかも」
「それは…想像がつかないが、とんでもない存在だな。ありゃ、でもおかしいじゃないか。量子テレポーテーションだと、物が直接転送出来るわけじゃなくて、物の情報が移動するだけなんだろ? それは光速より早く転送される。つまり、AとBを統合するということは、Aのデータが瞬時に送られるよりも早く、あらかじめ向こう側にAとのデータをBに統合するための素材というか、AとBの差分の素材というか。そういうものが必要ってことになってさ、矛盾しちゃうぞ」
「どういうことですか?」
と佳澄は興味深そうに真人を見た。
「つまり…ラプラスの悪魔の話じゃないか。だって、設計図が届く前に部品が全部揃ってないといけないってことだろう? 鶏と卵だ。そんなことが出来るのは、未来のことを知っている神様だけだよ」
「そうなってしまいますよね。だから、白琴会という宗教なんでしょうか?」
「いやいや、しかし。白琴会は昔からあるんだろ? 量子力学って、あんまり知らないけど昔からある学問なのか?」
「いいえ。まだせいぜい百年足らずですね」
「解せないな。昔からある種の思想を持っていて、それに量子力学が追い付いた形なのか。それとも…白琴会側が、最近になって量子力学の考え方を取り入れたのか…」
「あるいは、その両方なのか…」
と佳澄が付け足した。
「白琴会の歴史はお母さんとお父さんが調べていましたから、後でおさらいしてみましょうか。今の本多さんの疑問は、鋭いと思います。量子テレポーテーションの原理そのものはいま説明したようなものですが、あの装置はそれそのものではなく。その原理を応用した何か…」
真人は鼻を鳴らした。
「問題はそこだな。あの装置が実際なんなのか。それをはっきりさせることに集中するか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます