5
うつ伏せに地面に倒れた真人は、受け身に失敗して肘から肩で突っ込んだ。棺桶の縁にぶつけた膝の皿も激痛が走っていたが、痛みを感じるのももどかしく、仰向けに身体をねじって起こした。
「…真緒っ!?」
棺桶の両縁に手をついて中に倒れ込んでいた兄様は、身動きしていなかった。
その後ろには、呼吸も忘れて口をぽかんと空けている佳澄の表情。
数秒か数十秒前まで手前の棺桶に立っていたはずの真緒の姿はどこにもない。
真人は瞬きを何度かして、白い光の痛みを和らげた。ぼうっとしていた意識が戻ってくる。
ハッとしてがむしゃらに立ち上がると、真緒がいたはずの棺桶に駆け寄った。
「真緒、真緒っ!?」
棺桶の中には、真緒がそこにいたことを思い起こせるような痕跡が何もなかった。
心霊怪談よろしく、底に水でも溜まっていれば、まだなんとなく納得が出来たのかもしれないが、少なくともこの広間を照らしている頼りない明かりの範囲では、棺桶の中には白いシーツが残っているだけで、そのシーツには汚れ一つない。
ただシーツを乱れさせるような何かがそこにいたということが、シワの形を見て疑う余地がない、それだけが唯一の痕跡だ。
さっきまでそこにいた真緒は、消えてしまった。
混乱したまま佳澄のほうを見ると、真人と同じように呆然と立ち尽くしている。
そうして、真人と佳澄の間にある棺桶から、のろのろと兄様が身を起こした。
あの兄様の異常な身体能力からは想像もつかないことに、棺桶の縁に両腕をだらりと突き出して体重を預け、唸り声をあげながら、身体を起こそうとしてくる。
しかしその動きは不可思議なもので、およそ人間らしくない。
両手でしっかりと縁をつかむわけではなく、両腕が縁から垂れているので、脇の下で体重を支えていることになる。
うつむいた頭が縁から突き出したが、途中まで持ち上がったところで、バランスが崩れたかずるっと滑り、兄様の顎が強烈な勢いで縁に激突した。
動画サイトや投稿ビデオなら爆笑必至のシーンだったところだが、真人は笑うことが出来ず戦慄した。頬がこわばるのが分かる。何かがおかしい。
今度は兄様は棺桶の縁にしっかりと手をかけたが、やはり立ち上がることはなかった。
ずり、ずりと手の力で縁から身を乗り出していき、上半身がぬっと出たところで、当然ながらバランスが崩れ、頭から棺桶の外に滑り落ちた。
あの超人的な身体能力からは考え難いことに、兄様は受け身一つとらなかった。
上半身だけ棺桶からずり落ちた格好から、そのまま腕を伸ばして体を引きずり、棺桶から這い出そうとする。
ずりずり。
やがて下半身まで這い出ると、下半身もまた、そのままぼたりと地面に落ちて音を立てた。内側から引きずってきた白いシーツが下に挟まりぐちゃぐちゃに乱れ、地面の水気と土で汚れ始める。
兄様はその間もうめき声か唸り声のような声を上げるばかりで、何一つ喋らなかった。
鍾乳洞の冷たい地面にうつ伏せに倒れると、そのまま地面の上で歩き始めた。
地面の上で歩き始めたとは妙な表現だが、そうとしか形容が出来なかった。
うつ伏せのまま歩くような格好で、両手両足を動かし始める。両棲類か何かを思わせるような動きだ。
当然、おかしな軌跡を描いて少しずつだが兄様の身体が地面の上を動き始めた。
扇形を描くように、少しずつ右へ右へとずれていく。
一分か、二分か、結構な時間が経っていただろう。
真人は、その奇怪な様子に目を奪われ、しばらく食い入るように見ていた。視線を剥がすことが出来なかった。
棺桶の横には、良く分からないうめき声をあげながら這いずっている兄様。
兄様はずりずりと棺桶のそばから動き、どうやら四つん這いになろうとしているようだ。
ただ、人間の大人が起きあがろうとする姿勢というよりは、まるで赤ん坊か獣のような、二足歩行への移行を予感させない不気味な動きだ。
「ほ、本多さん!」
ついに呪縛から解かれたか、佳澄が息を切らせて呼びかけた。
真人もビクッとして我に返った。
「真緒が…消えた!」
真人は全身でクエスチョンを表現した。
「それに、こ、こいつは…。兄様はどうなっちまったんだ?」
真人は、足元を這っている兄様を指した。
「い、いったい…どう…?」
佳澄の表情も強張っており、真人に満足のいく答えを提供してくれそうな気配はない。
兄様はというと、地面の凹凸を流れていく水の流れが気になるようで、まるで嗅ぐように顔を近付けては流れに沿って這って移動していく。
「さっきまでの兄様や真緒の会話から考えると…。真緒が先走って機械を動かした。儀式は行われて失敗。本多さんと真緒のための機械に、兄様と真緒が飛び込んだから。服も、脱ぐ必要があったみたいなのに着ていたし」
佳澄が枯れた声で囁く。
「失敗? 昔の俺達のようにか? だけど、真緒はどこに行った?」
「真緒ちゃんは…どうしたんでしょうか」
この状況を説明できそうな人物は、兄様しかいない。
真人が顧みると、獣のような兄様は、ずりずりと匍匐まがいのうねった動きで濡れた地面を進んでいく。
緩慢だが棺桶から離れ、水の流れをたどり地底湖のほうへと向かっているようだ。
「お、おいっ! 兄様、待て!」
その動きを止めようと真人が声をかけると、兄様に変化が起きた。
ビクリと動物的な反応を示して動きを止めたかと思うと、くるりと顔だけ真人のほうに向けた。
真人は凍り付いた。
兄様は唸り声をあげて真人を下から睨んできた。
眉間と鼻の辺りに皺がたまり、唇を猿よろしく剥き出しにしている。
瞳の青い光は以前と同じくギラギラ光っていたが、目玉が飛び出さんばかりに大きく見開かれていて、何より、真人を見ていなかった。
真人のほうを見ているようには感じられるが、それでいて視線はあらゆるところを見ているようだった。
まるで道端の猫に声をかけたときの反応だ。
本能的といってもいい感覚で、真人は兄様の視線を避けた。
目を合わせると飛びかかってくる。そう確信した。
息を呑む硬直した時間がほんの数秒流れて、真人の手が緊張でわずかにぴくついた。
兄様はかつての俊敏さを彷彿とさせる激しさでまた振り向くと、ただし相変わらず立ち上げることはなく、いびつな四つん這いのまま、ぴょんっと跳ねた。
一気に二、三メートルは蛙のように跳び、着地するとそのまま人間業とは思えない速度で這いずって地底湖の縁まで突進する。
そうして、暗い地底湖に向かって跳躍した。
「オオゥアァっーーーー!」
兄様の長い悲鳴が洞内に反響する。
その悲鳴は驚きに満ちていて、尾を引きながら次第に小さく遠くなっていく。
呪縛が解けた。真人は慌てて地底湖の縁まで駆けていく。佳澄もついてきた。
地面は湿っていてツルツルとする。緩やかなカーブを描き床は下っていて、転べば自分達も地底湖にまっしぐらとなりそうだ。
警戒した真人は佳澄に手で合図し、走るのは止めて静かに歩き出した。
縁にたどり着いたときには、すでに兄様の悲鳴は消えていた。
真人はしゃがみこんで、恐る恐る地底湖を覗き込んだ。
左手のほうにある滝の音だけがざあざあと続いているが、この位置から見える地底湖の水面そのものは穏やかに見える。もちろん、満足のいく明るさではなく確信は持てないが、それでも、兄様とおぼしき人影が浮いている、泳いでいる、そんな様子はない。
いったい何が起きたのか説明出来そうな人物であり、狂気を感じさせる圧倒的な強さと体力の持ち主だった兄様が、こんなことで、死んでしまったのか。
死体も見ていないし確証はないが、いかに兄様があのような身体能力の持ち主だったとしても、何メートルも眼下のこの冷たい地底湖に墜落して無事でいられるとは到底思えない。
「なんてこった…」
真人は途方に暮れて、ただそう口にすることが精いっぱいだった。
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