ぽかんと口を開けている真人に、真緒が続けた。真緒の表情から笑みはとっくに消えており、今は冷たく憐れむような色さえ見えている。


「私の記憶は二十年以上前のあのときまでしかありません。それからは、新しいことを覚えても、少しづつ、こぼれていきます。自分でも分からないうちに、記憶が消えていきます。新しく覚えることは出来るんです。でも気が付くと抜け落ちている。小さい頃に診てもらった脳外科でも原因は不明。海馬に異常なし。医学的には何も異常はないんですよ。私の今日までの記憶はつぎはぎです。そのほとんどが、佳澄ちゃんが私にくれたもの。私が記憶を失うたびに、佳澄ちゃんが少しずつ失われたところを教えて補って。でもまた忘れて。それの繰り返し。佳澄ちゃんがどれだけ今まで大変だったか…」


「いいの、いいの、真緒。大変だなんて思ってない。真緒と私は姉妹みたいなものだもの」

佳澄の声がやや悲鳴じみてきた。


真緒は真人をじっと見つめたまま続けた。

「分かりますか、この怖さが? いつどの記憶が消えていくか分からない。自分が記憶を失くしたことさえ気付けないんです。ただただ、佳澄ちゃんの日記だけが頼りで。佳澄ちゃんが日記を元にして、私がなくした記憶をすぐに教えてくれる。でもまたすぐに別の記憶がなくなっていく。そんなことの繰り返し。私は、自分が誰なのか分からなくなる時があるんです。本当に、私の記憶は私のものなのか。私は佳澄ちゃんなんじゃないのか? それにね、記憶が混ざり出すということは、考え方とか好みとか性格も、混ざり出すんです。だから、私はオリジナルの佳澄ちゃんとのつぎはぎで出来ているようなものなんですよ」


「そんなことない、真緒。私は私。真緒は真緒」

「うん。佳澄ちゃんはそれでいい。佳澄ちゃんが私のためにずっと一緒にいてくれたことは、うれしいの。私を支え続けてくれた、もう一人の私だから。私のために、喋り方だってなんだって、一緒にならないように変えてきてくれてたよね。でも、もう、いいんだよ」


真緒は、一転してきっと険しい表情になった。

「私が許せないのは、私をこんなところに連れてきた本多さん、あなたです」

「お、俺…?」

「すべてはあのとき。本多さんが私を誘わなければ」


「ちょっ…それは、とばっちりだよ」

真人はあせり、甲高い声になっていた。

「さっき、兄様が…。俺達がそこで遊ぶように仕向けたのは兄様じゃないか」

「何もあの日あのときでなくても良かった。それは本多さんの責任です」


真人は返答に窮した。

真緒からの弾劾が理不尽なものであることは分かっているのだが。

壮絶な記憶障害のことが飛び出してきた同じ口から咎められ、後ろめたさのほうが先に襲ってくるのだ。


「こんなの、本当は私じゃないのかもしれません。私はもう、疲れたんです。佳澄ちゃんの一生も振り回してしまった。おばさんまで…。未来も何もない。すべてあの時のせい。それなのに張本人の本多さんは、何も覚えていないという。それから先に起きたことは覚えているというのに。それは許せません。だから、私は本多さんが憎くてしょうがないんです。ここまで、本多さんと佳澄ちゃんならきっと来ると思ってました。すべて、清算したかったんです。早く、儀式をお願いします、兄様」


真人は立ち尽くし、ふらりと目まいすら感じた。

「く、くそ、まさか…。俺は、真緒にはめられてここにいるってことなのか?」

佳澄にさえこの状況は予想外だったようで、何かを言いかけたように口を開いたまま突っ立っている。


いっぽう勢いづいたのは兄様だった。

「そうか、そういうことだったか。推測はしていたが、真緒、お前の言葉で確信した。つまり復号化の際に、真人は過去の記憶領域を失い、真緒は未来の記憶機能を失ったのだな。美奈子と理沙子に起きたことが右左脳のはたらきの極端化だったことを考えれば、脳機能の障害は有り得る話。つまり使えるエネルギーに対する定員オーバーのために、被験者いずれもが不完全な復号化となった。二つが一つになるどころか、どいつからも必要なデータが抜け落ちて出来損ないばかりになってしまったわけだ。まあ、理沙子と美奈子のは結果としてよかったのかもしれないがな、アハハ」

そう高笑いをする。

ついていくことが出来ずに真人はただ困惑するばかりだった。


「兄様。この人達は考えることに精一杯でしょう。始めませんか。兄様は、本多さんが大人しく言うことを聞くようにしてください」

そう涼しげに言いながら、真緒が身体の向きを少し変えた。

「この装置は、私が操作します。そのパネルを操作すればいいのですよね。そこまでは、あのときに見たことがあります。その先が分かりません。教えてください」


「なに、難しいことは何もない。お前はそのままそこに寝ていればいい。もう一つのケースに真人が入る。あとは簡単な操作があるだけだ。ふん、宿から逃げられた後はどうなるかと思ったが、これで万事OKだな。さあ、おとなしくお前も服を脱いで、さっさとケースに入れよ、真人。始めようじゃないか。それから佳澄。親子して俺の邪魔をしても意味がなかったな。親族にバカなことをするから悲惨な目にあうんだクソドブスが」


辛辣な言葉に、佳澄が血の気を失って固まった。

「お、おいっ!」

真人は怒りに駆られて兄様に怒鳴り付けた。


「なんだ、醜いものを醜いと言って何が悪いか。お前だって本心ではそう言いたいだろう? 俺達はもうそんな外見なんぞにとらわれない認知世界に進もうとしているんだ、今さら偽善者ぶるのはよせ真人」


「っ…お、お前、どこまでクズなんだ…」

「フフン、そう言いながら反論が弱いのは、図星だったかァ? お前だってブスよりいい女のほうが好きだろう? そういうのを偽善というんだ」


「…………」

真人は歯を噛みしめて黙り込んだ。


「さあ、真緒の言う通り、おとなしく儀式を進めようじゃあないか。成功すれば時空を飛び越える超人になれるんだ。いい話だろう?」


すっかり意気消沈していた真人の手に、冷たく細い手が触れた。佳澄が、真人のすぐ後ろに距離を詰めていた。そうして、真人の手を取ったのだ。

兄様とのやり取りは佳澄を傷付けているはずだが、佳澄は気にしている素振りを微塵も見せない。佳澄の手も真人の手も冷えきっていたが、重ね合わされると体温がすぐに伝わってきた。


「私はお母さんから聞いて知っています。この儀式は、邪魔が入っても入らなくても、まだ一度も成功したことがない。一回目も、二回目も。未完成なんですよね。どれだけ改良したか知りませんが、上手くいきっこない。狂った思想で人の人生を滅茶苦茶にするなんて、許せない。それは、そんなことは、私の見た目を馬鹿にしたりすることよりも、もっと酷いことじゃないですか」


真人は息を呑んで、佳澄の手を握り返した。


佳澄は真人と兄様のやり取りをすべて聞いていて、真人が佳澄の容姿のことで何も兄様に言い返せなかったことも分かっていて、それでも真人の手を取り寄り添ったのだ。

ふらふらと崩れそうだった揺らいだ心が、少しだけ持ち直した。

その佳澄の強さには応えなければならない。

だが――。


「その通り。だから試す。お前達が上手くいかなくてもストックはあると黒澤は言っていた。むしろ選民として機会を与えられたことに喜ぶべきだと思うがな。さあ、ケースに向かえ真人。俺の力は分かっているだろう。力づくでもいいんだぜ? 自分で行くか、俺に行かされるか」


「……っ」

手詰まりだ。

真人は、兄様が示す棺桶を見下ろした。


のろのろと兄様に監視され身体を棺桶の中に屈めながらも、佳澄の手が気力の最後の砦になって、わずかでも逆転のチャンスはないかと、全身を神経にした。

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