第十三章 儀式
第十三章「儀式」1
目を覚ました真緒はゆっくりと身体を起こした。
真緒にかかっていたシーツがはらりと身体からほどける。
「…わっ」
真人の口から驚きの息が漏れた。
真緒の上半身は裸だったのだ。
薄暗い中とはいえ剥き出しの上半身が露出したところを突然目の当たりにして、思わず視線は釘付けになる。
こんなときでも、見るべきものを見てしまう男のサガを呪った。
真緒の瞳がゆっくり動き、まず兄様のほうを見て、それから真人のほうを見た。
その順序が、真人に少しだけ、声を出すだけの冷静さを取り戻させた。
「真緒…」
だが訊ねたいことが多すぎて、まず何を問いかけるべきかの二の句が継げなかった。
助け船は佳澄から出た。
「真緒ちゃん。他のことはともかく、早く服を…。ここは寒いでしょう」
真緒の首が動いて、佳澄に微笑みかけた。寒さを感じさせるような雰囲気はない。
「佳澄ちゃん。これでいいのよ。私はあのときと同じようにしているんだから」
真人は佳澄に振り向いて、その顔がまさに渋柿になっていることを見てとった。芳しくない状況であることには変わりがないようだ。
「なんだか分からないがとにかく、こんなことをしている場合じゃない。真緒、なんでおとなしくしてるんだよ?」
真緒の微笑は変わらない。
「防空壕のあの隙間から、滝の上に出て、ここまで降りて来られたんですよ。下からでは決して見つからない、私達だけが見付けた秘密の道。二十年以上経っても、そのままでした。感じる大きさが違うだけで。人の手が加わらないと、自然は何年も変わらないものですね」
「滝の上から…。それが抜け道になっていたのか?」
「そうですよ。あのときも、本多さんに教えてもらった通り。私達二人だけ滝を抜けて。大人に見つかったらまずいって本多さんが言って、この箱の中に二人で隠れましたね。そうして、儀式が始まるのを見た」
「俺と、君が? この棺桶の陰に?」
佳澄が後ろから注意を促してきた。
「本多さん。話に気を取られ過ぎないで。真緒ちゃんを連れ出すことが最優先」
聞き付けた兄様が静かに言う。
「無駄だ、佳澄。真緒はすべて理解しているんだ。自分から俺達に協力を申し出た。だから俺が呼ぶまで静かにしていたんだよ」
「何言ってるんだ。自分からこんなこと、するわけがないじゃないか。いつ捕まったんだ? 兄様に何かされたのか?」
「本多さん。兄様の言う通りなんですよ。私は早く儀式を務めたい。早く、本多さんも支度を。あのとき美奈子さんと理沙子さんがそうしていたように、服を脱いで、横になりましょう」
「服をって…まさか…」
絶句した真人を、佳澄の暗い声が継いだ。
「…あの後で、野球拳ごっこって、真緒は必死に言い訳してた。目撃した儀式のことを、そう表現するしかなかったんでしょうね」
真人の脳天から衝撃が足元まで走った。
カルトな宗教的儀式など、まったく関わりがない者から見れば意味不明な言動の塊だろう。子ども心に、今と同じような暗がりの中で、もしそれを目の当りにしたら、テレビのバラエティ番組か何かで見た宴会の余興レベルのものと解釈をしても不思議はない。
「バカなことを。服なんか脱いだり、そんなことをしている場合じゃないんだ。兄様はもう、俺達の仲間でもなんでもない。おばさんも駐在さんも、こいつらにやられたんだぞ!」
一瞬、真緒の表情がひきつったように見えたが、光の加減でそう見えただけかもしれない。真緒はこの冷たい鍾乳洞の空気の中、滴る水滴に震える様子もなく、美しい上半身を剥き出しにしたまま、静かにたたずんでいる。
「真緒ちゃん!」
真人の後ろからかかる佳澄の声も、険しさを増した。
「どうしたの、催眠でもかかっているの? そこにいてはいけない」
「私は、私の意志でここにこうしているんですよ。こうすることが一番いいと、思ったから」
「そんな…」
佳澄は真緒の柔らかな拒絶に、絶句してしまった。
真緒の言葉がおかしい。親友の佳澄を絶望させるほどに。
防空壕で別れたときの真緒からは、今の真緒の言葉は想像もできない。
この間に、一体何があったのか。
「お前、真緒に何をしたんだッ?」
真人は声を荒らげて兄様のほうに一歩踏み出した。兄様の異常な力の恐ろしさなど、すでに意識から飛んでいた。
「言ってるだろう? 俺は何もしていない。すべて、真緒が自分で決めて俺に言ってきたことだ。それがお前らの希望通りかどうかなんて俺の知ったことじゃねえな。まあ、記憶障害の人間が考えることなんざ俺には理解が出来ないがな」
「記憶障害…?」
真人は困惑してつぶやいた。
記憶障害は、真人のことではないのか。
いや、そういえば真緒が奇妙なことを言っていたことがあった。
真人と真緒は逆だとかなんとか。
「真緒…。君は…君も記憶がないのか? 俺のように」
「いいえ。ありますよ。あの時までの記憶は。佳澄ちゃん。本多さんには何か新しいことを話したの?」
「ほとんど何も。あんなこと、他人から話せるわけがない」
「そっか…。ありがとう」
真人は佳澄に訊ねた。
「どうなっている? 真緒の記憶障害って…」
佳澄の視線が泳ぎ、真緒に流れた。真緒が静かにうなずいて肯定する。
佳澄はのろのろとつぶやいた。
「野球拳ごっこのことをお母さんに問い正されたとき、真緒が自分の目で見たことをそのままに話してくれた。それでお母さんが推測したのは、儀式の失敗が、本多さんと真緒に記憶障害をもたらしたということでした。本多さんは過去の記憶を失い、真緒は…」
「真緒は…?」
佳澄は黙した。
代わりに、真緒自身が言った。
「記憶する能力に障害が生じました」
「記憶…する…能力?」
真人の思考は混乱するばかりで、身体が動きを止めてしまった。
佳澄もまた、真人の後ろで立ち尽くしていることが気配で分かった。
対照的に余裕の構えの兄様は、ニヤニヤとして真緒の背後に立っている。
真緒は青白い裸体をさらしたまま、人形のようだ。寒さも冷たさも何も感じていないのだろうか。
真緒がゆっくり頭を動かして、兄様に向き直った。
「兄様」
呼びかけられたのは兄様だったが、真人と佳澄も、もちろん反応して兄様を見た。
「なんだ、真緒?」
「兄様はどこまでご存知だったのですか?」
「だいたいのことはな」
兄様が鼻を鳴らした。
「やはりそうでしたか。私の時間は、あの時から止まっているんです。私は中途半端な存在。すべて、あのとき本多さんに誘われてこの場所に忍び込んだせいで」
「だろうな。本来あのときは理沙子と美奈子の儀式だった。そこにお前達が混ざったためにおかしなことが起きたんだ。二つの器に対して四つが関わってしまったために、復号化が正しく行われなかった。おかげで黒澤への時間稼ぎになったから、結果オーライだがな」
「でもそのために私は、ずっと、苦しんできました。本多さんに誘われさえしなければ。あの日あの時にこの場所に来なければ…」
真緒の表情から、ずっと浮かんでいた静かな微笑が消えた。
再び真人のほうに顔を向けて、真緒は暗い声で言う。
「本多さん。私には、未来の記憶がないのです」
「…未来の記憶?」
「真緒…」
佳澄が珍しく焦りを感じさせる声を上げた。
「言わせて、佳澄ちゃん。佳澄ちゃんには感謝しているの。でも本多さんにはきちんと知ってもらうべきだと思う。
覚えていないからこそ、知らないままでいてはいけません。私にも儀式の詳しいことは分からないけど、でも一つだけはっきりしている。あのときから、私の記憶は抜け落ちていくようになったんです」
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