9
決して幻聴ではなかった。
防空壕の痛いほどの静寂の中で。反響しているのか、どこから聞こえてくるのかは分かりにくいが、確かに声が聞こえた。
「入口が…!」
「誰か…入ったか」
この二言は聞き取れた。
「たいへん…!」
真緒も岩の下で囁き声を漏らした。
「どうした?」
「聞こえにくかったですが、兄様の声なんです…!」
「なにっ…?」
もう、はっきり聞こえてきた。
足音と、反響する声。入り口からだんだん近付いてきている。
そうたいした深さでもない防空壕だ。すぐに追いつかれる。
真人は息を詰めた。
ここはちょうど今までの進路で一番奥にあたる。
真緒が、分かれた二手の通路が合流すると言っていた場所。
「君はそのまま、そこに隠れて様子をみたほうがいいよ。明かりを消してそこにいれば、死角になって絶対に気付かれないだろう」
真人は、そう囁いた。とっさの判断だが、真緒が今いる隙間は隠れ場所としては申し分ない。
そうしてすぐに、真人はペンライトを消した。
スマホもズボンのポケットにねじ込む。あっという間に重い闇が辺りに立ち込めた。
「本多さんは、どうするんですか」
「あとで戻ってくるから。向こう側にぐるっと回って、裏からかわせないか、試してみる」
「はい…気を付けてください」
「ああ、気を付ける」
「私、待ってますから。後で会えますから」
真人は深くうなずいた。暗い中で、岩の隙間にいる真緒に見えたはずはないが、それでもなぜか、うまく伝わったような感じがした。
真人は壁に手を当てて、先に進み始めた。
向かってくる足音は反響していて分かりにくいが、一人ではない。
ふと、足音が止まった。
「道が分かれてやがる。奥は俺が行く。お前は念のためだ、入口見てろ。この時間だ、あの辺りなら山で日陰になるだろ」
「はい、清水さん」
息を詰めていた真人だったが、はっとした。
指示を出したほうの男が、清水さんと呼ばれたのだ。寛子や佳澄と同じ苗字だ。
さきほど真緒が気付いたとおり、ここに、兄様がやってきている。
やがて、さっきまでよりもずっと静かな足音が再び聞こえ始めた。今度は一人か、少なくとも相当に少ない人数のようだ。
真人は、暗闇の中を手探りだけを頼りに静かに進んだ。緊張で鼻がムズムズしてたまらない。こんなときにクシャミだけは有り得ない失態だ。
手の平と指先の触覚が、拡張されたかのように鋭敏になっている。壁の角度が変わってきた。どうやら先ほどの合流地点とおぼしきところに、反対側から戻ってきたようだ。
そのとき、ぞっと気配を感じて、真人は思わず立ち止まった。足が抵抗した。
真っ暗な中、何も見えないというのに、確かに前方に誰かがいるということが全身で感じられた。
その気配通り、急に、通路に青白い光が二つ浮かんだ。まるで人魂だ。
「止まれ」
声と光の主は、真人と同じように、明かりも何もつけずに通路に潜んでいたのだ。
さきほどペンライトを消してから、真人の目も多少は暗順応をして、岩のおぼろな形と、前に人がいるぐらいのことは認識できるのだが、明かりがなくても、前方の人影はそれ以上の識別力だ。こちらを見分けてしまっている。まるで暗視能力があるようだ。
真人は、相手はてっきり明かりを持って行動しているものだと推測し、それで相手の位置を探るつもりだったものが、出鼻を見事にくじかれて、ペースを持っていかれてしまった。
「そっちから来たのか。俺の後ろに回り込んで逃げようとでも思ったか? 真人」
名前を呼ばれ、真人はさらにたじろいだ。
返事をせずに、少し震える手でペンライトのスイッチを灯した。
正面に、人影が照らし出された。男だ。五十代、あるいは六十代か。黒澤と近い年齢だ。
暗さでそうはっきりとは見えないが、青く光っていたものが、その人影の瞳の位置だったと分かると、真人はまた寒気をおぼえた。
「そのライトは、LEDだな。ただ明るいだけだ。問題ない」
男はつぶやき、笑ったようだった。
「…あ、あなたが、兄様って人なのか?」
真人は恐る恐る訊ねた。
たいして面白くもなさそうな口調で兄様が答えた。
「俺のことはもう知ってんのか。寛子から聞いたのか?」
「そ、そんなところだ」
「だったら、もうちょっと喜べよ。やっと会えたんじゃないか。久しぶりの里帰りだってのに、ロクに顔も出さずにお前は」
兄様は笑顔らしい。光る眼の輝きが増しているように思える。
寛子達が、真人を兄様に会わせたがっていなかったことは、言わないほうがいいと確信した。
兄様のこの存在を目の当たりにしただけで、充分すぎるぐらいに真人には分かった。
動悸が止まらない。
これは…今、真人の前に立っているのは、人間なのか? どういう生き物なんだ?
姿はもちろん人間のはずだが、なぜ目が光っているのか。
「お、俺はあなたに聞きたいことがたくさんあるんだ」
「おやおや。声が震えているじゃないか。何を聞かされてたのか知らないが、そう怖がることは何もない。昔はさんざん面倒みてやっただろう?」
「それは…覚えてないんだ」
「そうか。残念だ。恩でも着せられるかと思ったが」
兄様は鼻で笑ったようだった。
「どうして、ここにいることが分かった? 分校から見えたのか?」
「まあ、直接はそうだ。真人の帰郷だというのに寛子達の様子がおかしい。宿に迎えに行ってももぬけの殻だったとなれば、どうも黒澤が何か企んでいるんだろう。そう見当をつけていたら、案の定やってきたな。手をかけさせてくれたもんだ。血を分けた連中だって、何一つ信用出来ねえ。頼れるのは自分達の一族だけってわけだ」
兄様は、突然大声を上げた。
「一人見付けたぞ。すぐに来い」
慌ただしい足音が、入り口のほうからやってきた。
真人にはどうすることも出来ない。兄様に隙でもないかとじっと見ても、瞳の輝きはずっと真人のほうに向けられたままだ。
ずっと?
光が点滅することがないということは、兄様は瞬きさえしていないのだろうか。
足音が近づいてきた。
さらに青い光が現れた。二人ほど来たようだ。明るさに違いはあるようだが、やはり青く光る眼をしている。
「さ、まず一人だ。道場まで連れていく」
兄様が言い放った。
「もう一人はどうしますか」
「どこかに隠れている。探せ」
真人の腕が突然つかまれた。物凄い力だ。
「さあ真人、俺と来い。真緒はどこに行ったか知らないが、すぐに見付けてやる。地底は俺達の縄張りだ」
抵抗できる雰囲気ではない。今は、おとなしくついていくしかないだろう。
真緒のことは気になるが、今のところうまく隠れているのか、気配はしない。
「おい、おとなしくつかまってやるから、一つだけ教えてくれ」
「なんだ、真人?」
「白琴会は…」
そこで真人は、適切な言葉に少し迷った。
「…何をしたいんだ?」
やっとそう問いかけると、兄様は抑揚のない声でつぶやいた。
「超人による新しい日本を作るのだ」
その声を聞くと、背に悪寒が走った。
真人は腕をつかまれたまま、引きずられるように連行された。
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