決して幻聴ではなかった。

防空壕の痛いほどの静寂の中で。反響しているのか、どこから聞こえてくるのかは分かりにくいが、確かに声が聞こえた。


「入口が…!」

「誰か…入ったか」

この二言は聞き取れた。


「たいへん…!」

真緒も岩の下で囁き声を漏らした。

「どうした?」

「聞こえにくかったですが、兄様の声なんです…!」

「なにっ…?」


もう、はっきり聞こえてきた。

足音と、反響する声。入り口からだんだん近付いてきている。

そうたいした深さでもない防空壕だ。すぐに追いつかれる。


真人は息を詰めた。

ここはちょうど今までの進路で一番奥にあたる。

真緒が、分かれた二手の通路が合流すると言っていた場所。


「君はそのまま、そこに隠れて様子をみたほうがいいよ。明かりを消してそこにいれば、死角になって絶対に気付かれないだろう」

真人は、そう囁いた。とっさの判断だが、真緒が今いる隙間は隠れ場所としては申し分ない。


そうしてすぐに、真人はペンライトを消した。

スマホもズボンのポケットにねじ込む。あっという間に重い闇が辺りに立ち込めた。


「本多さんは、どうするんですか」

「あとで戻ってくるから。向こう側にぐるっと回って、裏からかわせないか、試してみる」

「はい…気を付けてください」

「ああ、気を付ける」

「私、待ってますから。後で会えますから」


真人は深くうなずいた。暗い中で、岩の隙間にいる真緒に見えたはずはないが、それでもなぜか、うまく伝わったような感じがした。


真人は壁に手を当てて、先に進み始めた。

向かってくる足音は反響していて分かりにくいが、一人ではない。

ふと、足音が止まった。


「道が分かれてやがる。奥は俺が行く。お前は念のためだ、入口見てろ。この時間だ、あの辺りなら山で日陰になるだろ」

「はい、清水さん」


息を詰めていた真人だったが、はっとした。

指示を出したほうの男が、清水さんと呼ばれたのだ。寛子や佳澄と同じ苗字だ。

さきほど真緒が気付いたとおり、ここに、兄様がやってきている。


やがて、さっきまでよりもずっと静かな足音が再び聞こえ始めた。今度は一人か、少なくとも相当に少ない人数のようだ。


真人は、暗闇の中を手探りだけを頼りに静かに進んだ。緊張で鼻がムズムズしてたまらない。こんなときにクシャミだけは有り得ない失態だ。

手の平と指先の触覚が、拡張されたかのように鋭敏になっている。壁の角度が変わってきた。どうやら先ほどの合流地点とおぼしきところに、反対側から戻ってきたようだ。


そのとき、ぞっと気配を感じて、真人は思わず立ち止まった。足が抵抗した。

真っ暗な中、何も見えないというのに、確かに前方に誰かがいるということが全身で感じられた。


その気配通り、急に、通路に青白い光が二つ浮かんだ。まるで人魂だ。

「止まれ」


声と光の主は、真人と同じように、明かりも何もつけずに通路に潜んでいたのだ。


さきほどペンライトを消してから、真人の目も多少は暗順応をして、岩のおぼろな形と、前に人がいるぐらいのことは認識できるのだが、明かりがなくても、前方の人影はそれ以上の識別力だ。こちらを見分けてしまっている。まるで暗視能力があるようだ。


真人は、相手はてっきり明かりを持って行動しているものだと推測し、それで相手の位置を探るつもりだったものが、出鼻を見事にくじかれて、ペースを持っていかれてしまった。


「そっちから来たのか。俺の後ろに回り込んで逃げようとでも思ったか? 真人」


名前を呼ばれ、真人はさらにたじろいだ。

返事をせずに、少し震える手でペンライトのスイッチを灯した。


正面に、人影が照らし出された。男だ。五十代、あるいは六十代か。黒澤と近い年齢だ。

暗さでそうはっきりとは見えないが、青く光っていたものが、その人影の瞳の位置だったと分かると、真人はまた寒気をおぼえた。


「そのライトは、LEDだな。ただ明るいだけだ。問題ない」

男はつぶやき、笑ったようだった。


「…あ、あなたが、兄様って人なのか?」

真人は恐る恐る訊ねた。


たいして面白くもなさそうな口調で兄様が答えた。

「俺のことはもう知ってんのか。寛子から聞いたのか?」

「そ、そんなところだ」


「だったら、もうちょっと喜べよ。やっと会えたんじゃないか。久しぶりの里帰りだってのに、ロクに顔も出さずにお前は」


兄様は笑顔らしい。光る眼の輝きが増しているように思える。


寛子達が、真人を兄様に会わせたがっていなかったことは、言わないほうがいいと確信した。

兄様のこの存在を目の当たりにしただけで、充分すぎるぐらいに真人には分かった。


動悸が止まらない。

これは…今、真人の前に立っているのは、人間なのか? どういう生き物なんだ?

姿はもちろん人間のはずだが、なぜ目が光っているのか。


「お、俺はあなたに聞きたいことがたくさんあるんだ」

「おやおや。声が震えているじゃないか。何を聞かされてたのか知らないが、そう怖がることは何もない。昔はさんざん面倒みてやっただろう?」


「それは…覚えてないんだ」

「そうか。残念だ。恩でも着せられるかと思ったが」

兄様は鼻で笑ったようだった。


「どうして、ここにいることが分かった? 分校から見えたのか?」

「まあ、直接はそうだ。真人の帰郷だというのに寛子達の様子がおかしい。宿に迎えに行ってももぬけの殻だったとなれば、どうも黒澤が何か企んでいるんだろう。そう見当をつけていたら、案の定やってきたな。手をかけさせてくれたもんだ。血を分けた連中だって、何一つ信用出来ねえ。頼れるのは自分達の一族だけってわけだ」


兄様は、突然大声を上げた。

「一人見付けたぞ。すぐに来い」


慌ただしい足音が、入り口のほうからやってきた。

真人にはどうすることも出来ない。兄様に隙でもないかとじっと見ても、瞳の輝きはずっと真人のほうに向けられたままだ。


ずっと?


光が点滅することがないということは、兄様は瞬きさえしていないのだろうか。

足音が近づいてきた。

さらに青い光が現れた。二人ほど来たようだ。明るさに違いはあるようだが、やはり青く光る眼をしている。


「さ、まず一人だ。道場まで連れていく」

兄様が言い放った。


「もう一人はどうしますか」

「どこかに隠れている。探せ」


真人の腕が突然つかまれた。物凄い力だ。


「さあ真人、俺と来い。真緒はどこに行ったか知らないが、すぐに見付けてやる。地底は俺達の縄張りだ」


抵抗できる雰囲気ではない。今は、おとなしくついていくしかないだろう。

真緒のことは気になるが、今のところうまく隠れているのか、気配はしない。


「おい、おとなしくつかまってやるから、一つだけ教えてくれ」

「なんだ、真人?」


「白琴会は…」

そこで真人は、適切な言葉に少し迷った。

「…何をしたいんだ?」


やっとそう問いかけると、兄様は抑揚のない声でつぶやいた。

「超人による新しい日本を作るのだ」


その声を聞くと、背に悪寒が走った。

真人は腕をつかまれたまま、引きずられるように連行された。

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