真人はほとんど四つん這い近くなって、頭に気を付けながら穴の奥を覗き込んだ。

埃っぽいような乾いたような臭気が鼻をついた。これは、入り口付近に堆積している落ち葉や乾燥した苔のものだろう。


これまでの経験上、長いこと塞がれていた人工の洞窟は、空気が濁っているものだが、ここは違った。

「空気がよどんでいない」


「え?」

後ろから真緒が訊いてきた。


「板切れとはいえ入り口を塞がれていたにしては、空気の鮮度がいい。空気の通り道があるに違いない」

真人は思い切って入り口をくぐってみた。

ライトで照らせる範囲はせいぜい五十センチ四方というところ。ライトに照らされて、ヤスデかゲジのような生き物が一匹、葉の下に逃げていくのが見えた。


天井の高さを確かめ、足元を確認してから、靴で先に地面を確かめるようにして奥に踏み込む。

「ん…? これは…」

入り口は屈まないと入れないほど狭かったが、中はごく緩く下りながら、急に天井が広がっているようだ。


「どうしました?」

一メートルほど入った真人に続いて、真緒が少し穴に入ったようだ。


「ん? ちょっと分かったよ。元々は、もっと入り口は広かったみたいだ。子どもならしゃがまないで入れるぐらいに」

「じゃあ、なんで? あ…急に、天井が…」


「違うよ。天井が高くなったんじゃなくて、地面が下がってるんだ。つまりね、大雨でも降った時だと思うけど、入り口の辺りに土砂とか礫、枯葉、そういうものがどんどん堆積して、ダム状になってしまって入り口を狭くしたんだ」

「な、なるほど…。下り坂になってるんでしょうか。ちょっと怖いですね」

「大丈夫、暗いから落ちていくような錯覚をするだけだ。傾斜はたいしたことはないよ」


さらに一メートルほど進んでみると、真人の背でも中腰で立てる高さにまで通路が広がった。

高さに連れて幅も広がり、いつしか真緒が寄り添うようにそばに立っていた。

「これは…思ったより立派だな」


「なんだか…重いです」

「重い? 何が?」

「うまく言えないですけど、入り口の明かりがないとほとんど真っ暗だから、空間が重いというんでしょうか」


「なるほど。そういう感覚は分かるよ。君も地底マニアへの第一歩だな」

真人はうなずいた。

観光用ではない本当の洞窟は、暗いものだ。暗さが重みをもって四方から迫ってくる、押し潰されそうな感じ。

それをこの防空壕は持っている。


「まだ、奥に続いているな」

真人は言いながら壁や天井を照らして観察した。少し、肌寒くなってきた。


「この防空壕…」

「何か、気になりますか?」

「誰が作ったんだろう」

「…当時の人じゃないんですか?」


「いや。黒澤さん達が言っていた通りだ。これは、元々あった洞窟だよ。ほら、天井にしても壁にしても、細かい波みたいな模様が見えるだろ?」

「はい」

「流痕だよ」

「りゅうこん? なんですそれ?」


「そのままさ。水が流れて岩を削った痕。地面は土が混ざってるから見えにくいけど、おそらく同じようになっているんだろう。壁も天井も、ところどころ人が削ったらしい跡があるけど、ほとんどが流痕のままだ。つまりこれも白琴洞の仲間で、戦時中にそれをそのまま防空壕に転用したんだ」

「そしてそこで、私達が遊んでいた…?」

「そうとも知らずにね」


真人は奥を照らした。どこまで続いているのだろうか。

「入り口が狭くて、緩やかに下りながら奥へ続いている。シャンバラの穴とは、ね。子ども心には、地球の真ん中に続くトンネルに思えても無理はない、か」

「どこまで続いているんでしょう」

「行ってみようか。シャンバラがあるかも…」

冗談めかして言いかけて、真人は凍り付いた。


真人に続いて奥に行こうとしていた真緒が、止まった真人に軽くぶつかる。

「どうしたんです、本多さん」

「シャンバラの穴って言い始めたのは、兄様なんだよな?」

「そうだと思います。みんなを連れてった頃には、もうそう呼んでましたから」


真人は、静かに歩き出しながら、自分の考えを整理するためにも真緒に話しかけた。

「兄様は、いま五十近い年ということは、その頃なら、三十代かそこら。シャンバラなんてまともに信じるような歳じゃないな」

「…!」

真緒も息を呑んだ。


「防空壕なんて言ったって、子どもには分からないだろうから。それで俺達子どものために、空想めいた名前を付けくれた。それだけの意味かもしれないが、それにしたってシャンバラなんてカルトめいた名前を使うのは、穏やかじゃないな。火のないところに煙は立たない。そういう発想を生む背景が、兄様にはあったんだ。…白琴会じゃないか?」

「その頃から白琴会はずっとシャンバラを信じているということですか?」


「ううむ…。白琴会は、どういう教義や思想を持っているんだろうな。知りたくなってきた。白琴洞を地底のユートピアにつなげて考えているのか? 洞窟信仰ってことだろうか」

「おばさんなら、たぶん兄様の持っている資料をこっそり出してくれると思います」

「そうだな。戻ったら、それもやってみよう」

奥に進みながら、真人はうなずいた。


三十過ぎた大人が、古い防空壕をわざわざシャンバラの穴なんて名付けて、子どもの遊び場にするとは。

「どうも、引っかかるな。俺は覚えてないわけだけど、君は? 何かそれらしい心当たりとか分からないかな? 例えば、兄様というのがここでアカリ虫の養殖のことを言っていたとか、何か宝物のことを言っていたとか―」


真人が訊ねても、真緒の返事はなかった。

漠然とした質問すぎて、無理もないかと思ったとき、ライトが正面に壁を映し出した。

入り口からの明かりは、もうすっかり入ってこなくなっていて、白いLEDの輝きだけが、頼りない視界を作っている。


「行き止まりか」

「違いますよ、本多さん。ここで、左右に分かれるんです」

「えっ」

「左右に分かれてぐるっと回って、結局奥でつながってここに戻ってくるんですけど」

「なるほど。ループトンネルってことなのか」


「本多さん」

「ん?」

「さっきの質問で心当たることですけど」

「うん?」

「佳澄ちゃん達がここをダメだって言った理由が、私は分かるんです」


真人はライトの向きを変えて、真緒の顔を照らすようにした。乏しい光量のせいだろうか、表情がこわばって見える。

「その理由が、シャンバラなんて呼び名に関係してるって思うの?」


「はい。…本多さん?」

「…?」

真緒が息を詰めているのが分かった。

「これは、私の考えで言うことです。この場所に、本多さんとまた二人だけで来ることができたということは、そういう運命のようなものがあるんだって、私は信じたいんです」


「はぁ…。運命…?」

「そうです。私の時間はここで止まりました。本多さんの時間はこの先しかありません。あの頃は分からなかったけど、今日、本多さんの話も聞いて確信しました。兄様は、遊ばせるふりをしていましたが、別に目的があって私達をここに何度も連れてきたに違いないんです。子どもを使って、道を見付けようとして」

「道?」


「そうです。本多さんは、覚えていないはずです。でも、私は覚えている。私と本多さんは、この奥で秘密のトンネルを見付けたんです」

「秘密のトンネル?」

「そう。この奥のほうに、岩が崩れてるところがあって。そこをくぐると―」

「くぐると?」

「シャンバラにつながっていたんです」


真人は顔をしかめた。

「そのシャンバラってのは比喩的表現だな? ただ、話の筋は分かった。この防空壕が、観光用のものではない白琴洞のどこかにつながっているんだろう? それは大いに有り得ると俺も思ってたんだ。空気が流れていたからな」


「はい。そうです。見付けたのは本多さんと私の二人だけのときで。だから、おばさんと佳澄ちゃんも、実際にその道を通ったことはありません」

「俺と、君だけが。小さい頃に?」

「ええ。それに本多さん。その後で水谷のおばさんと本多さんが、東京に行ったんですよ。あれはいま思えば、事後処理だったんです。私と佳澄ちゃんのことも、ぜんぶ」


真人は白い明かりが照らす真緒の顔をじっと見つめた。

真緒の顔が血の気がないように見えるのは、明かりの弱さだけではないはずだ。


「つ、つまり。この奥で、俺と君は小さい頃に抜け道を通って、シャンバラという場所に出た。で、そのために、姉ちゃんは俺を連れて阿賀流を出ることになった。そういうことなのか?」

真緒はゆっくりうなずいた。


「いったい何があったんだ? シャンバラって、なんだ?」

意気込むと、真緒が促した。

「行きましょう、本多さん。自分の目で見てください。私も、あそこがいまどうなっているのか見たい」

「よ、よし」


真人は左の道をとって奥に進んだ。幅がぐんと狭くなり、左右から大きな岩が何層にも重なるように迫ってきた。

まるでトランプのカードで作った山だ。

やがて、岩が複雑に積み重なって、身体を横向きにしないと通れないほど狭い空間まで来たところで、真人はシャツの裾を軽く引っ張られた。


「この辺りだったと思うんですが。もう少し岩の重なった下のほうだったかもしれません。子どもの頃のことですから」


LEDライトに加えて、スマホも取り出して違う角度から壁を照らした。じっくりと岩の隙間を眺めていく。


真緒がしゃがみこんで、張り出した岩の陰に腕を入れた。

「ここ。子どもか女性なら、うつ伏せ近くなれば滑り込めそうですよ」

「お、おい…」


意外なほどの積極性をみせた真緒が、地面に手をついた。

チノパンが汚れることにためらう様子もなく、そのままうつ伏せになって、足先から地面と壁の隙間に身体を滑らせていく。

これは、大人はもちろん、子どもでもよほどの冒険心がなければ入れるような隙間ではない。


「だ、だいじょうぶなのか?」

真人は呼びかけたが、真緒はずりずりと滑っていく。


くぐもった真緒の声が岩の下から聞こえてきた。

「大丈夫です。まだいけますし…奥のほうは少し広くなっています…」

すでに真緒の身体はほとんどが岩の隙間に入ってしまった。


そのとき、真人は総毛立った。厳しい囁き声で真緒に伝える。

「しいっ! 静かに。人の声がした!」

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