第九章 射影

第九章「射影」1

腕をつかまれたまま防空壕の入り口に戻った頃には、外はすでに陽が暮れ始めていた。

真緒が気にしていた夕暮れだ。それでも防空壕内よりは少し明るい。


ちらりと盗み見ると、兄様は例の青い道着を着ている。オリンピックの柔道じゃあるまいし、と真人は少し神経質な笑いを内心で浮かべた。


防空壕の表にも一人、青服の人間がいた。男が入り口から内側を覗き込んできた。

やはり青っぽい目をしているが、洞窟内にいたときに感じた光よりは少し薄いようだ。

「外は大丈夫か?」

「はい。陽も暮れます。中と大差ありません」

どうやら、青い目の兄様達は暗いところを好むらしい。まるで化け物の類だ。


「真人。外へ出ろ。外に出るには屈む必要があるな。俺は手を離すが、見張っている」

「分かってる」

真人は苛立たしく答えた。何をしても無駄、ということだろう。

とにかく今は、髪の毛一本動かせそうな隙もない状態。この状況から少しでも変化を待つしかない。


唯一、真人がいま希望を持てているのは、まだ真緒が見付かったような騒ぎが奥のほうから聞こえてこないということだ。


防空壕を出ると、後から出てきた兄様と、見張っていたもう一人に左右を固められた。兄様の手がまた腕をつかむ。

そのまま、やってきた道を逆にたどり、吊り橋を経由して分校まで不愉快な散歩で戻ることになった。


その間に、真人は兄様の様子をちらちらと観察した。

真緒と別れてから、まだ考えの整理がついていない。今はとにかく状況を把握すること、それしかなかった。


幼い頃に見たことがあるはずの兄様は、真緒達の話通りなら寛子と同じ三十歳頃だったはずだ。

その頃から二十年近く経って、いまは五十代か。妹の寛子がアラフィフと言い張っていたのだから、兄ならそのぐらいだろう。

背は低いががっしりしていて、なかなかいい体格をしている。黒澤とはまた違ったタイプだ。


気になることといえば、落ち着かないそぶりを見せているところだ。

視線や顔の向きが落ち着いていない。始終、あちこちを見ていて一つところに留まっておらず、ピリピリした気配を感じるのだ。警戒心が強いことの表れのようにも思えるが、神経質な性格をしているのかもしれない。


吊り橋では、青服の若い男が前を行き、真人を挟んで後ろに兄様がぴったりとついた。

腕をつかまれることはなくなったが、後ろからねっとりと視線を感じるのは、なんとも胃に響くものがある。


吊り橋の真ん中辺りで、兄様が声をかけてきた。

「久々の阿賀流はどうなんだ? この辺りも、吊り橋も、懐かしい場所だろ?」


「…」

兄様は、真人が昔のことを覚えていないと知らないのだろうか。

真人が返事をしかねていると、突然、吊り橋が大きく揺れた。


「ハハハッ、ホラ、ホラ! 昔よくこんなことやって脅かしたなあ! 真人はビビらなかったが女どもはピーピーしてたもんだ!」


真人はバランスを崩した。腰砕けのようになって、思わず手すりのロープにつかまって身を低くし、後ろの兄様を睨んだ。


兄様はポンポンと板の上でジャンプをしている。

「なんだ、怖い目をするな。ガキの頃のほうがたくましかったぞ、真人。ハハハ」

「…」


真人は兄様に戦慄し始めた。この人物は、異常だ。

青い目をしているとか、そんなことではない。

何かが、おかしい。

普通の世の中で言えば、関わり合いにならないほうがいいような、そういう性質の人間に思える。


怒りに加えて、恐怖より先に嫌悪感が混ざり始めた視線で兄様を凝視していると、また哄笑された。


「ハハッ、怖くて声も出ないか? 情けない奴だ。俺達を見ろ。こんな揺れなんて平衡感覚の問題だけだ」

兄様はそう言ってジャンプをやめた。


「人間は不便なものだな」

兄様はそう言ってまた笑うと、真人を小突いて、歩くことを再開させた。


ふと見ると、前に立っていた青服の男は、真人がロープにすがりついていた間も、何にもつかまらずに足場の板の上にずっと立っていた。

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