真緒の先導で、分校前の開けた農道を足早に通り抜けた。分校の建物に人影は特に見えなかった。


未舗装の、落ち葉が積もり始めている薄茶色の地面を早足で引き続き歩く。

道はややうねりながら、少しずつ登っているようだ。足の裏からカサカサと葉の音がする。

こういうところには虫はもちろん、マムシやヤマカガシのような蛇もよく出てくるものだ。

いまは夏ではなく冬支度の始まる季節だから、生き物の営みも静かなものであろうが、それでも真人は出来るだけ静かな歩みを心掛けた。


偽善的であろうと、少しでも元々のこの土地の自然の営みに干渉しないようにしておきたい。

しょせん、自然の中では人間は異物なのだ。生態系に取り込まれるわけでもなく、人間としての存在を誇示して、それなりに循環しているサイクルの中にずかずかと押し入る侵略者である。

地底マニアなど自称して、地球という星が営んできた悠久の時間を感じ取っていると、どうしても人間という存在の意味や価値を生命科学的に理解したくなることが出てくる。


ここを真人が歩こうが歩くまいが、地球や自然は何事もなく循環するのだろうが、そうはいっても風が吹くとどこそこが儲かるの話と同じで、このほんのわずかな干渉が積み重なって地球全体の環境を変えていくというマクロな視点もまた事実。

人間一人一人というちっぽけな存在が何をしても変わらないが、何をしても変わるともいえる。それが生態系の不思議なところだろう。


不意に、両側から迫ってきた茂みが途切れた。

目の前に、吊り橋があった。対岸までは五十メートルかその程度の、小さな小さな吊り橋。一人が歩いて渡れるだけの幅しかない。

それなりの年期のようだが、踏板も手すりのロープも、きちんとメンテナンスはされているようだ。


真人は、細い吊り橋と、対岸、そして眼下の河原を眺め渡した。

「ここは…やっぱり、なんとなく覚えてる気がするな」

洞窟探訪を通じて、山間地で渓流沿いの似たようなところを観光したこともあるし、このようなささやかな吊り橋を見たこともあるが、その記憶の混同ではないようだ。


「なぜここだけ印象が強いのか…。この対岸には何がある?」

「遊歩道のような狭いけものみちと、分校だった頃の教員宿舎があります。確か、宿舎の建物は今は閉鎖されていると思いました」

「子どもが渡るような意味はないのか。どうしてここのことを強く覚えてたんだろうかな、と思ったんだけど。やっぱり、怖かったりして印象深かったのかな」

「子どもは、冒険なら意味なんかなくてもするものじゃないですか。大人にとっては、橋の向こうにあるのがただの建物と道だけでも。子どもの想像力にとっては、大冒険が待ち受けてるんです。吊り橋を渡るだけで楽しかったんですよ。本多さんだって、何回も渡ってます」

「覚えてるのはそれで納得出来るとしても、どうしてここ『だけ』を強く覚えていたんだろうな」


腕組みをして考え込んでいる真人に、おずおずといった様子で真緒が声をかけた。

「ひょっとして、ですが。向こうにはもう一つ、子どもの冒険場所があったんです。今になって思えば、大人には冒険なんかじゃない、ただの危ない場所だったみたいですけど。そこに行く道だからかもしれません」


「何があるの?」

「遊歩道の途中に、防空壕があるんです。でも、そっちは覚えてませんよね」

「防空壕? 黒澤さんもそんなことを言っていたな。でも、本当にこんな山奥が空襲対象だったのか?」

「あの分校の建物は、昔は軍に接収されて婦人会の工場になっていたそうですよ。それで、すぐ近くに防空壕も」


「吊り橋…。防空壕」

真人はつぶやいた。

「白琴洞に行ったとき、少し違和感があった。昔、洞窟に入ったことがあるような気はしたんだけど、白琴洞は、なんというか、ピンと来なかったんだよな」

「こっちの防空壕の記憶なのかもしれませんか?」

「どうなんだろう。防空壕、防空壕ねえ…」


「小さい頃は、もちろん誰も防空壕って呼んでませんでしたよ。兄様に引っ張られて、みんなでよく探検ごっこしました。兄様は昔からシャンバラの穴って呼んでましたけど、どういう意味でしょうね」

「シャンバラ? それは、地底にある桃源郷のことだよ」


真人は、地底うんちくを語り始めた。

「チベットだかインドだかどこだかは定かではないけれども、とにかくアジアのどこかにあると言われている、伝説の地底楽園のことさ」

「地底の楽園ですか」


「そう。天国みたいなところだという説もあるし、色々な秘密や強力なパワーが隠されていて、かのアドルフ・ヒトラーも探し求めていたっていうのは、オカルト好きなら誰でも知っていることだな。別名ではシャングリラと言ったり…あッ!?」

真人は言いかけて口を半開きのまま静止した。

「…? どうしたんですか、本多さん?」


疑惑が浮かんだ。

真人は眉をひそめて、一言ずつ区切るように真緒に伝えた。

「…シャンバラは、別名をシャングリラと言ったり…アガルタ、と言ったりするんだ。アガルタ、だよ」

「アガルタ…? え、え? あ、阿賀流ッ?」


真人はうなずいた。

「俺も、今、驚いてる。阿賀流って、てっきり新潟の阿賀野と同じような語源か、上に上がる、上がるから当て字かと思ってたけど…。アガルタと阿賀流。これは、偶然なのか?」

「確かに。阿賀流の地名の由来は諸説ありますが、はっきりしていません」

「地底マニアたる俺が、うかつだったな。鍾乳洞が地面の下を巡ってるという土地の名前が、アガルタとそっくりだって?」


かつて青森県に、戸来(へらい)という村があった。

キリストの墓があると言われ、ユダヤとの関連を匂わせるような風習が残っていることで、オカルト界では有名な土地だ。戸来という名は、ヘブライの訛りだとされている。

それと同じレベルでのトンデモやこじつけではないのか。それとも、そうではないのか。


「その防空壕、どこにあるか覚えてる?」

「はい、もちろん。あ、でも、今は危険だからって封鎖されてますから、入れないですけど…」

「いや、入り口だけでも、行ってみよう。出来れば、こっそり入ってみたい。穴があったら入りたいのは男のサガだ」

「行ってみたら、何か分かりますか?」

「さあ。ただ、俺の勘や記憶を辿っていくというのなら、次に行くべきところは、そこだ」

真人は興奮を覚えながら、真緒を促した。

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