真人達は吊り橋を渡った。


普段の様子からは意外なほど、真緒は怖がる様子もなくすいすいと真人の先に立って進む。

むしろ真人のほうが、板の隙間から見える足下の河原や、歩くたびに浮き沈みして揺れる橋に緊張していた。

冷静に考えれば高さは何十メートルもあるわけではないのだが、足元が安定していないというのはどうも落ち着かないものだ。


そんな緊張している自分の気持を誤魔化したく、前を行く真緒に声をかける。

「なあ、兄様って、君から見たらどんな人? 俺達の兄貴分みたいなもので、おばさんの実の兄で、いま白琴会にいるとか、そういうパーソナルデータは分かったけど…。もっと、人となりというか…」


真緒は、先を歩きつつ、ときどき振り返るようにしながら答える。

「兄様は、頼りになる兄様で。いつも助けてくれました。私達の父親代わりのようなところもありましたね」

「ふうん…」


真人の両親のことも良く分からないままだが、現在、寛子の清水家に住んでいる真緒の家庭のことも気になるものだ。

真緒はどういう家庭に育ったのか。いま、親を含め家族はどうなっているのか。

それに、訊ねないのがマナーだろうが、なぜ結婚していないのか。子どもはいないのか。

こういうことが気になるというのは、興味をもっているということなのだろう。不要な先入観を抜きにしてとらえれば、真緒は異性として充分に魅力的に感じる。


だが、故郷への感傷や、敵らしきものがいるという得体のしれない危機感に、そんな気持ちを煽られているだけなのかもしれない。心理学的にいえば吊り橋効果だ。

ちょうど今まさに吊り橋を渡っているという皮肉に、真人はつい苦笑した。

真緒はすいすい吊り橋を進んでいて、真人のほうが一方的に心を揺さぶられているように思えるが。


「ずいぶんサクサク行くけど、怖くないの?」

「怖くないですよ。子どものころから、何度も駆け回ったところです。本多さんだって、そうですよ」

「俺は…そうかもしれないけど、覚えてないよ。それに、覚えてないだけじゃなくて。たぶんね、大人になったからこういうのが怖いってのもあるんだろう」

「大人になると、怖くなるんですか?」


「そう。余計なこと考えちゃうからかな。この高さから落ちたらこのぐらいの怪我になるって、想像ができるじゃないか。もし大怪我したらしばらく働けなくなる、稼ぎがなくなる、保険下りるかな、とか。子どもはそんなこと分からないし、この高さから落ちた時の怪我の度合いだって、想像はつかない。だから無鉄砲でもなんでもできるんだろうね」

「そういう無鉄砲さは、大人になると失われるものですよね」

「失われるというか、怖いと思うものが子どものころからは変わるんだよ。知識と経験が、恐怖を増幅させるんだと思う」


「そうですね。得たものが増えるにつれて、失うことが怖くなるんですよ。怖いですよね、失うことって」

「俺には、思い出がない。昔のことを失っているようなものだな」


丁度吊り橋を渡り切って、真緒は振り向いた。

「昔のことを失うのは、怖いですね。…未来を失うのと、どちらが怖いでしょうか」


「そりゃあ、難しい質問だが…。やっぱり、どちらかといえば未来がないほうが、怖いだろうな。明日がなくちゃ、希望がもてないよ」

「本多さんはそう考えるんですね」

「ああ」

「未来がなくても希望はもてますよ。だって、未来は作れるものだから」

「…随分、前向きなんだな」


真人には、未来が良く分からない。

もちろん物を書いたり、地底マニアとして調べものをしている時間は楽しいが。それが、本多真人という人間がこの世に生を受けた理由なのだろうかと考えると、違うように思えてくる。何のために生きているのか。


特に、これまでロクに女性関係もうまくいかず、いわゆる人並みの家庭というものを築けたこともないことが、そう思わせるのかもしれない。

生物が存在する目的は何か。子孫を残すことである。

ヒトという生物種で考えたとき、結婚して子どもを残せているわけでもない真人のようなプータローの存在には、価値があるのか?


その思考はともすれば、子を産まない女性は悪だとする女性差別論と同じ根っこに行き着くのだろう。

生物学的に、という前提条件が、さもその考え方を正当化するように思われるが、その考えには決定的な欠点が一つある。


人間は社会的動物であるということだ。

アリストテレスを持ち出すまでもなく、人間は人間であって、人間ではないホモサピエンスという動物であったことは一度もない。


たとえば人間以外の動物においても社会は存在する。

社会が構成されるとき、生物には役割が生じる。

一個の生命体としてではなく、集団として種が保存されることを目的に機能が分化されていくことになる。


ハチやアリはその典型だ。

一個一個の個体を見れば、生殖をせず一生を終える個体もいる。

だがそれぞれの個体には集団の中で必ず役割があり、生殖をしない個体がいなければ、生殖個体が生命維持を出来ないようになっている。


生命体個々ではなく、全体として種が保存される仕組みが成立している。

子を産む役割もあれば産まない役割もあるのだ。

仮に同じことを人間で考えれば、機能や役割の分化の問題であって、必ずしもオスメスとして子を作ることが種としての必然であるとか世の理ではない、という結論になる。


もちろんこの考え方を突き詰めていくことには危険がある。

優秀な遺伝子を残そうという選民的な優生思想を支持し得るし、国や人種という単位でこれを考えていくことにどれほどの意味があるのかという根深い問題にたどり着くだろう。


そしてそんなことを考えようと考えまいと、真人という有機体はここに確かに存在する。

この有機体が有機体として機能し続けようが、灰という無機物になってしまおうが、地球や宇宙という大きな存在の循環にとっては、何の意味もないだろう。

そんな中で、人間にとって、存在している意味とはなんなのだろうか。

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