第八章 シャンバラの穴
第八章「シャンバラの穴」1
真人と寛子は、駐車場に戻った。すでに昼近い。
レンタカーに乗ろうとして、ふと虫が知らせたか、真人はスマホを取り出して画面を見た。
案の定、不在着信の履歴が表示されている。
今までさんざん鳴った錯覚がしていたくせに。本当に鳴ったときはこれだ。
電話帳に入っていない、覚えのない番号だが、ミスターXのような非通知ではない。
市外局番からすると、阿賀流からの発信だ。
「どうかした?」
「着歴が…。ちょっと電話してみる」
発信してみたが、電話口から聞こえて来た軽い訛りのある声が誰のものだか、すぐには分からなかった。
「はいはい。渡辺です」
「渡辺…? さっき電話があったみたいなんですけど」
「ああ、本多さん。すいませんねえ。ちょっとね見てほしいもんがあって、探しとったんですよ」
「はあ…。渡辺さん…どなたでしたっけ」
「ハハ、私です、駐在ですよ」
「あッ!? 駐在さん?」
「はい。あのねえ本多さん。実はね、バッグ返すときに、書類袋のほうに分けて入れといた封筒があったんじゃけど、それ渡すのすっかり忘れとって」
「封筒…?」
「ええ。バッグと一緒に宿から受け取ったもんじゃから、本多さんのでしょう?」
「俺の…?」
荷物の中に、封筒の心当たりはない。
「どうかしました?」
「いえ…。分かりました。取りに行きますよ。いま、仙境開発にいるんです」
真人は横目でちらりと寛子を見た。
「これから蛇窪のよこまちストアにおばさんを送っていくんで、そちらにも寄れると思います」
「あ、そ~うですか。今からね、ちょうど蛇窪のほうに行く用事があるんで、じゃあ、よこまちストアで落ち合うで、どうです? 本官は昼食でも取って時間潰しますから」
「分かりました。お手数おかけしますね」
車をスタートさせ、真人は寛子と話した。
「浮かない顔。誰からだったの?」
「ああ…。駐在さん」
会話の内容をざっと伝える。
「覚えがない封筒なのね」
「ない。…だから、気になる。気持ち悪いねえ」
よこまちストアに戻ると、渡辺駐在の小太りの身体が食堂にあった。
制服を着ていなければちょっと警官には見えない。田舎町の駐在らしいといえばらしいことだ。
「やあ、本多さん。早かったですね」
「昨日はどうも。それで…早速ですが…」
「はいはい。これですよ」
渡辺は、どこにでもある茶封筒を取り出す。
受け取って真人は封筒を眺めた。
あて名書きはない。裏面の差出人欄ももちろんない。
封はきちんと糊付けされている。
「なんの手紙です? それとも、お給料でも入ってますか?」
渡辺が興味深そうに言う。
「これが、バッグと一緒に渡された荷物だというんですね?」
「宿からはそう預かりましたがね。違うんですかい?」
「いや…」
真人は、封を破いてみた。まさか切り口に剃刀が仕込んであるようなことはないだろう。
中には、コピー用紙が一枚。
なんと、新聞や雑誌の切り抜き文字を貼って短文が書かれている。
「これは…」
覗き込んだ寛子と渡辺も声を上げた。
「あら…」
「ほう。今どき古典的ですな。本官も子どもの頃はよくそういう遊びをしたものですが…」
「古典的…? そうですね。一体なんだろうこの手紙は」
「は? 本多さんが自分で作ったんじゃあ?」
「いや。実を言うと、この封筒にもまったく覚えがないんですがね」
「ありゃ。それなのに封を切っちゃったんで? 困りますよ本多さん」
「はは、すみません。でも、俺に宛てた手紙なのは間違いなさそうだ」
「というと?」
不格好に並んだ文字を読んでみた。
「美ナ子は選んだ 君も離レロ」
「ふうん…。なんでしょう」
「マサ君。これって…」
「なんだ、これ。なぜ姉ちゃんの名前が出てくる?」
「お姉さんですか。これはどういう…」
「『美奈子は選んだ』って? 姉ちゃんが、何を選んだ?」
「どういう意味かしらね。それに、君も離れろって。マサ君がどこから離れろって?」
「必ずしも本多さんのこととは限らないんじゃないのかねえ」
と渡辺。
真人と寛子は思わず渡辺を見て、続きを促した。
「結局、宛名も何もないわけでしょう? 本多さんにも心当たりがないのなら、宿の人間が勘違いして持ってきたってことも…」
「いや、それはないでしょうよ。姉ちゃんの名前があるんだ。誰かが、俺の手に渡すためにこの手紙を作った」
たとえば、と真人は必死に考えを巡らせた。
宿を襲った青道着の連中。真人のバッグから金目の物を奪って、代わりにこの手紙を残していく。
そんな光景は容易に想像できるが、まるでどこかの予告泥棒気取りではないか。
「渡辺さん。これは、宿から手渡されたものなのよね?」
「はあ。お客さんの物だろうということで、バッグと一緒に」
真人は、手紙を振りながら渡辺に言った。
「やっぱり、宿の連中が気になる。何かおかしいでしょう?」
渡辺の顔は曇った。
「そうは言うがねえ、これだけじゃ何も動けませんよ。盗難届を出してもらえれば、泥棒のほうは調べてみることは出来るけど、この手紙はねぇ。何か事件性があるっていうようにも見えませんしな」
「事件なら、とっくに起きてるんですよ。姉ちゃんは何かの事件に巻き込まれたんだ。この手紙で俺は確信しましたよ」
「お姉さん、何を選んだというんです」
「知りませんよ、意味不明だ。どうなってるんだ」
穴が空くほど手紙を見つめる。
いったい誰がこんな手紙を。
宿を襲おうとしたのも同じ連中?
宿の人間は本当に無関係なのか。
真人の脳は猛スピードで思考を続ける。
いや、犯人はヤスということも否定は出来ない。まさかと思うが、渡辺駐在の自作自演という可能性は?
昨日はこの話を切り出さず、今日になって急に思い出してきたという不自然さ。
だが、駐在という公僕である渡辺にとって、そんなことが何のメリットがあるというのか。
こうなってくると、なんでも疑いたくなってくる。
「おばさんは、どう思うよ?」
真人は寛子の意見を求めた。
ここまで行動をともにしてきているだけに、この件に関しては寛子には他意がないように信じたくなっていた。
「どういうことかしらね。敵さんもあまり順調ではないのかもしれない。どうにかして、探りを入れようとしているのかも」
「俺の行動を?」
「そう。たとえば比較的、中立的な立場の人間を通じて」
寛子と渡辺駐在の間に、何かが行きかっている。場に一瞬だが確かに生じた緊張を、真人は察知した。
「清水さん。滅多なこと言うもんじゃありませんよ」
渡辺が棘のある声で言う。
「それじゃあまるで、本官が仲立ちでもしているかのようじゃありませんか」
「そういうつもりではありませんけど、ね」
真人は二人の表情を見比べた。
渡辺は少し不機嫌が入って膨れた顔をしている。寛子はそれに動じた様子もなく静かに渡辺を見ていた。
何か、言葉のやり取りだけではない情報が、確かに二人の間に行きかっているようだ。
渡辺がわざとらしくも思えるため息をついた。
「とにかくね、本多さんにしろ、清水さんにしろ。あまり深く考えずに、その手紙の通り、少し阿賀流から離れたほうがいいんじゃないのかね」
「ご忠告は有難いが。俺もこう見えてもライターの端くれだからなあ。ネタになりそうなことが目の前にあって、それがどうも自分が当事者らしいとなったら、はいそうですかとは簡単に引き下がれませんよ」
「本官はね、清水さんも言っていましたが、駐在として比較的中立な立場から申し上げているんです。阿賀流の温泉にでも浸かって、ゆっくり様子を見てはいかがです?」
渡辺駐在の表情はすでに平静に戻っている。ずり落ち気味な眼鏡越しで上目遣いに真人を見るその目に、苛立ちが見えた。
「駐在さんでしょ? そんな日和ったこと言わないで、観光客が事件に巻き込まれているんです。捜査とかしっかりしてくださいよ」
「その手紙は、そういう詮索や余計な行動を控えなさい、と言っとるんではないのですかね。クンクン嗅ぎ回るのはやめなさい、と」
「……え?」
真人は思わず聞き返した。
渡辺駐在の表情が変わっている。目は先ほどまでの苛立ちのままだが、唇の端だけが微笑んでいる。
違和感がある。
また、ポケットの中でスマホが震えたような感じがした。ここは退け、と五感が告げている。こういうジンクスを信じてみるのもいいだろう。ボストンバッグといい、渡辺駐在は何か妙だ。
寛子を見ると、瞳の動きだけでうなずいていた。
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