6
翌朝。
昨晩の会話はそのまま打ち切りになっていた。
真人が少し遅めに起きると、すでに食卓にはラップをかけたサンドイッチが置かれていた。
夜のうちに美奈子が用意してくれるもので、これはいつも通りのことだ。
大人はこういうものなのだろう、と真人もこの年頃までには理解していた。
いっときの感情的しこりをずっと引きずることはない。
少なくとも表向きは。
いつもと違ったのは、いつもはまだ寝ているはずの美奈子がすでに起きていて、トーストを食べながら朝のニュースを見ていたことだった。
こちらから挨拶をするのは負けのように思えて、真人は無言のままテーブルについた。
美奈子は真人のほうを見ようともせず、かじりかけのハチミツトーストを手にしてテレビをじっと見ている。これは徹底抗戦の構えだろうか。
「……会社員、立川克典さん。警察の調べによると、現場は見通しのよい直線の道路で、立川さんが横断歩道を渡ろうとしたところ、車に……」
テレビのニュースは轢き逃げ事件を伝えているようだ。
「ウソ……立川さん……」
美奈子は呆然とつぶやき、空虚な表情を浮かべた。美奈子が手にしているトーストから、ハチミツがボタボタこぼれだす。
真人はそんな美奈子に、つい口を開いていた。
「どうした姉ちゃん? ハチミツ垂れてる」
美奈子ははじめて真人がいることに気付いたような驚きの顔を浮かべた。
あるいは本当にそれまで気付いていなかったのかもしれない。
「真人…」
美奈子は慌てた様子でパンを皿に置き、ハチミツ汚れの手を布巾で拭った。
「姉ちゃん?」
「この人が、昨日話した証券マン」
「え? それって…」
「あのね。私、この人のことは好きでも何でもなかったんだよ」
そう言う美奈子の顔は強張っている。
「ハァ?」
「必要だったのは、海外ってことだけ」
「どういう意味さ」
「海外旅行にでも行こうか、真人」
「海外にこだわるね。そんな、犯罪者じゃあるまいし、高飛びでもしたいの?」
「茶化さないの。次は私の番かもしれないんだよ」
「姉ちゃんが? え、その人はただの轢き逃げじゃなくて、狙われたとかそういうネタ?」
美奈子はニコリともせず無言でうなずく。
今日は四月一日ではないな、と真人は頭のなかでつぶやいた。
「それ、昨日のハガキに関係があること?」
「どうしてそう思うの?」
「どうしてって…タイミングとか、姉ちゃんのその感じだよ。昨日からおかしいって」
「…否定は、しても信じてもらえなさそうだね」
「関係はあるけどワケは話せない?」
美奈子はうなずいた。
「姉ちゃん? 俺は今まで姉ちゃんから、俺が小さい頃のことをちゃんと教えてもらったことはない。訊くのが悪いような気がしてきたから。きっと俺の親のこととか、色々良くないことがあったんだろうと思ってるよ」
美奈子は押し黙って動かない。
しかし否定の言葉が出て来ないことから、真人はその沈黙を肯定と受けとることにした。
「俺、もうハタチ過ぎたよ。もう大人だ。知りたいと思ったことを知る権利があるはずさ。俺と家族に関わることなら、なおさら」
真人が訴えても、美奈子の表情は変わらない。
しばらく真人と美奈子は睨み合うような格好になったが、先に折れたのは美奈子だった。
美奈子は息を吐いて目を反らした。
「真人、学校の時間でしょ?」
「なんだよそれ? 逃げてるだろ?」
「そんなことない。話せるときは来るよ。ただ、今はきちんと自分のするべきことをやって。真人は学校をサボるような子じゃないでしょ?」
「そりゃそうだけど…」
まだ渋る真人に、美奈子は微笑みかけた。
その日初めて見た―そして真人が最後に見た―美奈子の笑顔だった。
「私にも、考えを整理する時間がいるんだよ。真人は人の気持ちを察してくれる子だよね?」
「う、ま、まあ、うん、もちろん」
歯切れ悪く真人は同意する。
真人がそうとしか言い返せないように、うまく誘導されてしまった。
そんな、真人の性格を熟知しているあたりは、さすが美奈子だった。
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