その夜。


真人はあれから結局、ずっとインターネットを彷徨って、阿賀流村のことを調べ続けていた。


仙境開発という会社のことは残念ながらたいした情報がなかった。

いまどきオフィシャルサイトもないようだから、実は規模がとても小さいのかもしれない。


阿賀流村自体については、ちょっとした鍾乳洞があることや、最近でこそやや寂れているが、太平洋戦争までは水利を生かし軍需工場があり、それなりに栄えていたこと等、意外なことが分かった。


インターネットの常で、一度あることを調べ始めると、関連した次のキーワードでどんどん検索の深みにはまって夜は更けていた。

静かな部屋に、マウスをクリックするカチカチ音と、たまにキーボードを叩く音だけ。


すると玄関ドアの開く音がした。美奈子が帰ってきたかと時計を見ると、まだ零時前。

水商売の美奈子が帰ってくるには早すぎる。いつも深夜のタクシー帰宅なのだ。


不審に思った真人は、様子を探りに部屋を出ようとした。


まさにノブに手をかけたその瞬間、ドアが向こうから開いた。

「おわっ」

面食らって真人は間抜けな声をあげてしまった。


「真人、大事な話があるの」

「姉ちゃん、急にドア開けるのダメだってのに。男には家族にドアを開けられるとまずい瞬間があるんだってば」

「いいから、聞いて」

美奈子の表情は硬い。真人の冗談にかけらも反応してはくれなかった。


それで真人も真面目な返事に切り替える。

「お、おう」


次に美奈子の口か出たのは予想もしない言葉だった。

「ね、真人。引っ越そうか」

「引っ越す? 久々だけど……また?」


そう。

美奈子と真人は頻繁に引っ越した。


ここ数年はそれほどでもなくなったが、真人が小さい頃はそれこそ一年ごとに引っ越していたように思える。


当然、転校も相次いだ。真人が大学に至るまで幼なじみや親友と呼べるような者がいないのは、それが理由の一つだろう。

まるで漫画やドラマさながら、仲良くなった頃にはサヨウナラ、というわけだ。


もちろん真人自身が、一人でいることを苦痛に思わない飄々とした性格であることも、友人の少なさには影響しているのだろう。


しかしそんな性格自体、美奈子以外に家族を知らず、その美奈子とも接する時間が限られていたゆえの、自己防衛の産物かもしれない。


なぜそれほど引っ越しが多かったのか。

水商売ゆえ、借金取りからでも逃げているのかと察していた時期もあった。


しかしこのあとに起きたことを考えると、どうやらそうではなかったようだ。

阿賀流村から、美奈子は逃げていたのだろう。真人を連れて阿賀流村を出てから、ずっと。


「そ。引っ越すのだよ真人クン」

「どこに?」


そんなわけで転居自体は慣れっこだった真人だが。

美奈子が口にした土地はまったく予想もしていなかったものだった。


「ブラジル」


真人にはその言葉が、認識はできたが理解はできなかった。

美奈子の冗談に思えて、思わず自分も冗談で返す。


「ブラ汁? 下着で蒸れた汗のこと?」

「なんだよそれー。ブラジルだよ、サッカーの」

「ハァ!? 本気でそのブラジルかよ!?」


それから美奈子が説明したところによると、美奈子目当ての客の一人に外資系の証券マンがいる。

どうやらその男、バツイチで心機一転、志願して海外駐在することに。

それを機に、美奈子を本気で口説いている、と。


「どう? ブラジル」

「海外なんて、そんなバカな。実感湧かないよ。急すぎる」


「今までだって急な話ばっかりだったよ」

「そりゃそうだけど、いくらなんでも海外ってなあ。しかも誰だよその人。俺、会ったこともないのに」

「大丈夫、いい人だって」


「あのなー、姉ちゃんに文句言える立場じゃないのは分かってて言うけど、そういうことには順序ってものがあるんじゃないの? 嫌だぜ、いきなり明日から、この人が新しい家族よなんて言われたら!?」


「それは、分かるけど…」

「ちょっとないだろ。俺の都合考えたことある? 俺だって友達もいるし、気になってるコだって大学にいるんだぞ。急すぎるよ」

「…」


「あ、たとえば。俺もうハタチ過ぎてるんだし、俺はこのまま一人暮らし続けるから、姉ちゃんとそいつが海外行くってどう?」

「それじゃダメなんだよ。真人が一緒じゃないと意味がないんだよ」

「なんでさ?」


美奈子は何かを言いかけて、口を少しだけ開いたまま、固まった。

真人は待ったが、美奈子の唇から出てきたのは息だけだった。


真人は首を横に振った。

「俺は、姉ちゃんの言うことならだいたいなんでもOKするけど、ロクに知りもしない男と、いきなり海外で生活なんて、さすがにそれは絶対ない」


そう言い切って、美奈子を残し部屋に戻る。

ドアを閉めると、美奈子との間に、ドア一枚以上の厚く冷たい壁が現れた。


ああ、イライラする。

真人は机に向かうと、腕を垂らして突っ伏した。


分かっていた。

いつかこういう日は来ると。

水商売のせいで、ずっと特定の男なんて作らないんじゃないかと、そんな期待もしていたが。


自分でいちばんよくわかっていた。

真人を苛立たせているのは、海外行きのことではない。


永遠に続くようにも思えた、美奈子と真人二人の生活が、終わろうとしていること。

それを、認めたくないのだった。

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