そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、ズボンのポケットがぶるぶる震えた。

スマホの着信か、メールか。


スマホを取り出してみるが、おや、何も履歴はない。

鳴った気がしただけか。


近頃、こういうことがよくある。

身体が、着信のバイブレーションの感触を覚えてしまって、鳴っていないのに錯覚してしまうのだと聞いたことがある。


軽く鼻を鳴らしてスマホをポケットに戻す。


足はチェーンの古本屋の前に来ていた。


書店はもちろんよく通うのだが、どうしてもラインアップが売れ筋やメジャー出版社に限定されてしまう。


特に日本では、消費税導入の際に絶版になっている書籍が多い。

したがって古本屋の存在には、書店文化の破壊者として糾弾されるどころか、文化的にみてむしろ意義があると真人は考えている。


フリーライターという水商売柄、何がどうアイディアのヒントになるか分からない。書店も古本屋も真人にとっては貴重な散策場所だ。


あてもなくふらっと入り、適当に棚から本を抜いてみる、そんな行き当たりばったりな出会いが好きだ。


店内を物色しつつ、なんとなく雑学コーナーに向かう。


狭い一角に男の先客がいて何か本を持っていたが、真人と入れ替わるように奥のほうにさらに進んで姿を消した。


男は、手に取っていた本を棚に戻していたが、慌てたのか中途半端で、少し出っ張っていた。


どうもこういうものを見ると少し気になってしまう。

真人はその本を棚に押し込もうとして、背表紙に目が留まった。


なんということのない雑学の本だったが、真人の興味分野だ。

「知られざる日本の秘境百選」などというサブカルチャー本。


ついつい手に取っていた。


本から飛び出して栞が挟まっている。

いや、栞代わりにされたものが挟まっている。

どこかのお店のレシートのようだ。


感熱タイプではなく、昔ながらの紫の文字が印字されるタイプのレシートで、そのため文字がはっきり残っていた。


真人自身、おつまみのアタリメをとりあえず挟んでいたことがあるぐらいで、栞の代わりに物が挟まっていること自体はそんなに珍しいわけでもない。


このレシートも最初から気になったのではない。ただなんとなくの好奇心で、どこのお店で何を買ったレシートなのか見てやろう、とそれだけのつもりだった。


「よこまちストア」なる店名を見ると、どこかのスーパーらしい。

明細は、「生鮮」1品に「雑貨」2品。いまだにPOSシステムも未導入ということか。


だがそんな呑気な気分は、店の住所を見たときに吹き飛んだ。


総毛立つとはこのような瞬間のことか。


レシートが示す住所は、阿賀流(あがる)村となっていた。


阿賀流村。

真人はその文字を見ると喪失感に襲われる。

あれ以来、つとめて意識しないように、自分の興味関心の世界に入ってこないように、シャットアウトしてきたのがこの名前だった。


自分の何かが変わってしまった原因があるとすれば、この村の名前にすべて紐付いている。


美奈子が消えた原因となった名前。

ほとんどなんの記憶もないが、真人が生まれ、両親が亡くなった村。


心を落ち着かせようと、開いている本のほうに視線を移し、そこで二度目のショックに襲われた。


見開きページの見出しは「新幹線開通で直結! 都心から三時間で行ける三大秘境」


一位と二位は真人もよく知っている観光地の名前だったが、右下に出ていた第三位が、白琴洞(はっきんどう)という鍾乳洞だった。


その名前の下には「F県阿賀流村」の文字。


阿賀流村。


白琴洞。


決してはっきり覚えているわけではない。覚えているわけではないが、疑惑が生まれるには充分だった。


この本、このレシート、このページ。出来すぎだ。

こうなると、真人の前にいた男が気になる。

本を手に、男を探して店内を急ぎ足で回ってみたが、すでにその姿はどこにもない。


真人は震える手で本を閉じ、そのままレジへ持って行った。

震えは恐れではなく武者震いだった。


自分を取り巻くところで、自分の知らない何かが起きている。

何かが始まったようだ。


店を出た真人は、辺りを見回した。

男はいない。


真人を見ていたりするような者、何かおかしな気配がする者はいない。

もっとも、本当に真人を監視しているような者がいるとして、真人本人に見つかるようなヘマをするはずもないだろう。


逆に考えると、この本の栞に、何か真人に向けた意図があるのだとしたら。

さっきの男は、わざわざ真人の前に姿を見せて、この本を目立たせた。


真人が気にする題名の本で、栞も外に飛び出していて。

本を手に取り、栞と、挟んであるページを見るように。

真人がそうするように仕向けたと、そうは考えられないだろうか。


失踪する前の美奈子は、何かから逃げるようにしていた。

次は真人の番なのか。

望むところだ。


北澤から受けているオファーで、いずれにしても、新しい地底スポット探索が必要だったのだ。

妻も家族もいない今、足枷は何もない。


そう考えると、急に生き生きとした気分になり、ぐっと闘志が湧いてきた。


真人は北澤に電話をかけた。

幸い、北澤は社にいてすぐに電話に出た。


「本多さん、どうしました? 忘れ物でも?」

「ああ、いえ。さっきの取材の話なんですけどね。一つ思い当たった場所があったんです。白琴洞ご存じですか? 最近特集が始まってるみたいです」


「白琴洞、ああ新幹線が県境に開通しましたからね! ただ、おかげであの辺りは、このところちょっとブームというか激戦ですよ。何か、他誌と差別化がないと……」


「私、阿賀流村出身なんですよ」

「え、ホントですか!?」


「自分でもビックリですけど」

と真人は苦笑した。

「だから他とはちょっと違う味付けでやれると思うんですよ。どうでしょう。立て替えますから、領収書切っていいでしょうか?」


「うーん、チーフがOKするかな。二、三日待ってもらえないですか?」

「いやいや、今すぐにでも行きたくなってるんです。じゃあこうしましょう。成功報酬でいいです。勝手に阿賀流に行きますから、あとで出来を見て支払いは決めてください」

「ん、まあそれなら…うちは何も困らないし…」


「よし、じゃあスジは通しましたからね。早速明日から行って来ます」

「いきなり明日ですか!? 決めてからの行動力が凄いですねえ、そのへんがあの独特の着眼点につながるんでしょうか……。お気を付けて。何かいいことあったら途中でも教えてくださいよ?」


真人は北澤に協力を約束すると、電話を切った。


資金面での協力はあるに越したことはないが、いずれにしても真人は、思い立った以上は無駄に待つつもりはなかった。


いま、何が真人の周りで起きようとしているのかは、まだよく分からない。

だが、何かあるようだ。


美奈子の失踪から自分を見失い、混乱したまま刹那的に生きてきた。

その元凶になっていた、得体の知れない霧か何かのようなものの片鱗が、向こうのほうから姿を見せてきた。


それなら、正面からそこに飛び込んでやろう。

きっとそれは、美奈子の失踪の謎に繋がっている。

真人の人生が狂い始めた原因が。きっとそこにある。


なんだか分からないが、答えが分かるまで食らい付いて追ってみせる。


真人はそう決心した。

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