夢の延長線上
刺繍工房リベラのほど近くにある、三階建ての貸家。
路地に面したポーチで、いつも無愛想に出迎えてくれるのは、目つきの鋭い、けれど体型はぽっちゃり丸顔の白猫だった。
彼が門番さながらに陣取っているのは建物の出入口。上半分が
「ただいま、チェレスティーノ」
声をかけると、彼は眠そうな顔をしながらも、透き通るような空色の瞳をわたしに向けた。すると、彼はのっそりとした動きでポーチの脇に移動し、道を空けてくれる。どうやら今日も、通行のお許しが出たらしい。
すぐに興味をなくしたのか、その場で座り直すと、そっぽを向いて大きなあくびをしてみせた。
「ありがとう。今日もお勤め、ご苦労さま」
チェレスティーノにお礼を伝えてから、扉を押し開ける。
そろそろ、時刻は夕暮れを迎えるころかしら。扉のさきにある狭い階段室は、それでもまだ、射し込む西日のおかげで明るかった。
工房からの帰り道に目にする街並。猫のチェレスティーノや貸家の佇まい。そのどれもが、すっかり馴染んでしまった光景なのに。
日常から切り離されたような感覚を引きずりながら、木造の階段を上がっていく。それでも最上階の一室まで、今日も無事、帰り着いたのだけれど。
わたしの一歩うしろからは、普段とは違い、ひとりの男性がついてきていた。扉の鍵を開けていると、真横から手もとへと向けられる視線を感じる。
無駄に緊張してしまうので、やめて欲しいのだけれど。首を傾げた彼の視線は、わたしの顔を下から覗き込むように移動していた。
「ここに……住んでいるの?」
「そう、ですけれど——」
こうして彼と並んで立っていること自体、まだ、ふわふわとした夢のなかの出来事のように感じているというのに。私的な場所を見せるという戸惑いも手伝い、おずおずと扉を引き開ける。
見苦しいところがないか、確認しながら見回したのは、ここ一年、わたしが間借りしている部屋だった。
居間と寝室。そのように使い分けられる二間続きで、充分な広さはあるのだけれど。豪華さとは無縁の古びた建物は、歩くたびに、ぎしぎしと床板が軋む。
それに、価値のあるものなど、なにひとつ置いていないのに。
なぜかしら。彼——。公爵は、興味深そうに視線を巡らせていた。
たしかに、カーテンやベッドカバーに施した刺繍、それから手作りの小物類は、彼の興味を引いていそうではあるけれど。
どうやら彼は、まったく違うことを考えていたらしく。
「ふたりで、暮らせなくもないね」
「まさか、ここに住むおつもりですか?」
「新居の手配ができるまで、それも悪くないね。もちろん、君が許してくれるならの話だけど」
「新居……ですか?」
「うん。リベルタス領も落ち着きを取り戻したし、そろそろ城館を出て暮らしたいと、考えてもいたからね」
「その……。ルクスさまが城館を出なければならなくなったのも、もとを辿ればわたしが原因……ですよね」
夢渡であるわたしが、なにを期待していたのかしら。彼とともに暮らす日々を、一瞬でも想像してしまうだなんて。公爵との再会で、心が舞い上がっていたのは否定できない。
それだけでも厚かましいのに。気落ちする心は隠しきれなかったようで。
そんなわたしに、公爵が苦笑を浮かべる。
「あのさ、アネモネ。新居には、君の部屋も用意するつもりなんだけど」
「わたしの……部屋もですか?」
「そうだよ。それとも、俺と一緒の部屋がいい?」
「……いっ、一緒ですかっ!?」
「あれ、お嫁に来てくれるんだよね? 違うの?」
俺の勘違い? そう言って公爵は、また、わたしの顔を覗き込んできた。
「俺とともにありたいと、告白してくれたよね?」
「そう……ですけれど——」
一年ぶりの再会だけでも、信じられない想いでいっぱいなのに。身に余る、誓いの言葉まで貰ってしまって。
今日一日で起こった出来事は、いくらなんでも展開が早すぎたのだと思う。気持ちの整理が追いつかないまま、流されてしまったようなもので——。
「まだ、迷っているんだね」
「申しわけ、ありません……」
「いいよ、好きなだけ悩んで。俺なら気長に待つし。さすがにもう、黙っていなくなったりしないだろう?」
口調は穏やかだったけれども。公爵から向けられたのは、釘を刺すような眼差しだった。
今度こそ彼からは離れ、完全に姿を消したほうがいいのではないか。実際、そのような考えが頭を占めていたから。
念を押す言葉は、わたしの心情を見抜いたうえでのものだったのかもしれない。
「やっと、君に逢えたんだ」
公爵の声が耳に届いて、ひと呼吸ほどの時を置いてからだった。公爵の右手が、わたしの頬に優しく触れた。至近距離でじっと見つめられ、動揺から顔が熱を持ち、一歩も動けなくなってしまう。
このように触れられるのは、初めてではないはずなのに。過ぎ去った月日は、公爵がくれた温もりの記憶まで一緒に持ち去ってしまったらしい。
動けないわたしをまえにして、公爵は、少し迷いながら口を開いた。
「アネモネ、ひとつ提案なんだけど……。まずは、恋人から始めてみない?」
どうかな? と求められた了解に、なにを言い出すのかと、わたしは思わず目を伏せてしまう。恋人も結婚も、わたしにとっては同じことで。そのようなことは、聞かれても困るだけなのに。
隔てるものなく近づきそうになった公爵との距離が、また、わたしの迷いを助長する。
だからだと思う。どっちつかずで、拒否の意思表示さえできずにいると、公爵の手は、すぐに離れていってしまった。
物足りなさを感じさせる熱だけが、心に残る。
「ごめん……。気長に待つって言ったばかりなのに」
寂しげにも感じる微笑みに、すぐに帰ってしまいそうな気配を感じ、公爵を引き止める言葉を口にしそうになる。明確な答えを返せないままで、それはあまりにも都合がよすぎるし、貪欲になっていく自分が怖くもなる。
それなのにわたしは、名残惜しそうな顔を晒していたに違いない。
「あのさ、アネモネ……。そんな表情を見せられたら、気長になんて待てなくなるよ?」
琥珀色の双眸が、まっすぐにわたしへと向けられる。
「ねえ、アネモネ。俺に、どうして欲しい?」
「……ルクスさまは、意地悪です」
「そうかな?」
「そうです。王の花より除名されたとしても、わたしが夢渡であることには変わりないのですよ?」
「なにか問題でもあるの?」
「大問題です! わたしには、道を踏み誤らない自信などありません。そうだと、わかっているのに……。それでもわたしは、ルクスさまとともに歩む未来を夢見てしまうのです」
「それの、どこが問題なの?」
「自分の身勝手で、わたしはまた、ルクスさまの夢に干渉してしまうかもしれないのですよ?」
夢渡をそばに置いたせいで、夢を操られ、意に添わない道を歩まされてしまうかもしれない。わたしとの結婚には、そのように重大な問題があることを伝えたつもりだったのに。
なぜ、公爵は、嬉しそうな笑みを浮かべたりしているのかしら。
「……ちゃんと、聞いていらっしゃいましたか?」
「うん。それって愛の告白だよね? 俺のことが好きすぎて困るっていう」
「どうして……、そうなるのですか!」
「違わないだろう? ほら、ここにも書いてある」
不意に顔を寄せられ、ぐっと喉を詰まらせる。
「それで? 君はいま、俺にどうして欲しいの? ちゃんと言葉にしてみてよ」
公爵には、わたしの警告が届かないのかしら。もしそうなら、わたしが自信を持てない以上、今度こそ本当に未練たらしい迷いなど捨て、明確な返答で遠ざけるしかないのかもしれない。
なにより、すでに公爵の夢には深く介入してしまっている。声にした願いが、影響を与えていないとは言いきれないもの。
取り返しのつかない事態を招かないためにも、結論を急いだわたしは、一歩引きそうになったところを踏みとどまった。
公爵に負けないよう、顔を上げたまま声を絞り出す。
「お願いします、ルクスさま。このまま帰ってください。そして、わたしのことなど忘れてください」
間近で睨み合いながら続いた長い沈黙のあと。溜息とともに、重い声が落ちる。
「わかったよ。それが心からの、君の願いなんだね?」
どうやら、公爵を納得させるのに成功したらしい。これでもう、わたしのことなど捨て置いてくれるはず。そう——、思っていたのだけれど。
「あの……。ルクスさま?」
帰ってくださいと、はっきり伝えたはずなのに。なぜだか手を引かれたわたしは、首を傾げて戸惑う。
「気が変わった。気長に待つのはやめにするよ。とりあえず、夕飯でも食べに行こう」
「どうして——」
「今日は君の部屋に泊まることにしたから。いやなら、君の異能でどうにかすればいい」
「そのようなことっ……!」
「できるんだろう? それくらい、君にとっては簡単なことなんだよね?」
公爵は確実に、わたしの迷いを理解している。それなのに……。にこりとした微笑みを向けてくる公爵は強引で、本当に意地が悪い。
あらためて、そう痛感した瞬間だった。
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