公爵の補佐役
港のほど近くに位置するというアスール広場には、露店が並び、人が溢れかえっていた。
行き交う人々のあいだに垣間見える売り物は、穫れたての野菜や水揚げされたばかりの魚介類、生肉から燻製品と、おもに食材が占めていたけれど。
乱雑に並べられた陶磁器のなかには、風流な山水画や、蛇のように長い胴を持った空想上の生き物など、巧みに絵つけされたものが混じっていたりして。
複雑な織り柄の絨毯は、絵画のように美しく、それこそ買う人がいるのか、がらくたとしか思えない、人の姿を摸した、珍妙な木彫りの置物まで。
交易の中継地というだけあって、異国の品も多く目についた。
わたしがそれらに興味を示せば、シエロはすぐに察し、立ち止まってくれる。嬉しいのだけれど、それは、シエロが立ち止まる理由の半分にも満たない。
残りの理由は、彼が行くさきざきで街の人たちに声をかけられるからで。
さきほどシエロ本人も、ヴェントスという名で通っていると言っていたけれど。どうやら役職はそのままに、公爵の補佐役としても周知されているようで。
「ヴェントスさん! ちょうどお会いしたいと思っていたところでした!」
後方から、人波を掻きわけやってきた年若い男性に、シエロが呼び止められる。
やはり顔見知りらしく、シエロも迷わず応じていた。
「先日届けてもらった
「そうなんです。ミネルヴァさまのお眼鏡に
「それなら安心していいよ。最高の出来だと感心しておいでだったから」
「ああ……それはよかった! 帰ってさっそく父に伝えます!」
お呼び止めして申し訳ありませんでした。と、男性は謝罪の言葉を残し、すぐに人波の向こうへと消えていった。
いまの男性のように、シエロを通し、皆は決まってミネルヴァの機嫌を窺ってくる。シエロも慣れた様子で、ひとりひとり笑顔で応対していた。
わたしはその横で、有用な情報が会話から得られればと、聞き耳を立てていたのだけれど。
話題にのぼるのは、やはりミネルヴァに関することばかり。おかげで公爵については、いまだ質問のひとつもできていない。
ソフィアがいてくれたら、よかったのに。
シエロの申し出があったからこそ、こうして露店市を見て回れているのは確かだけれど。それでも、シエロがほかの人の相手をしていて、会話に加われずにいると、じわじわと、胸に疎外感が広がっていく。
露店市には活気があり、たくさんの人が行きかい、賑やかなのに。わたしひとりだけが孤立しているようで、心細いと感じてしまう。
実際、孤立無援がわたしの現状で——。
案内など、頼むのではなかった。
沈んだ表情を隠すため、シエロから目を逸らす。距離を置くようにして、うしろを振り向いた瞬間だった。
背後から肩を抱かれ、優しく引き寄せられた。背中に感じた温もりに驚いて、相手の顔を見上げる。
「あまり離れると、はぐれてしまいますよ」
シエロの声を間近で聞くと同時に、目のまえを若い男性が通り過ぎていった。連れの女性に夢中で話しかけていて、周囲にまったく注意を払っていない。
その男性と危うくぶつかるところだったのだと、すぐに気づく。
けれど、シエロはついさきほどまで、鮮魚店の売子と話をしていたはずなのに。対応が速かったということは、一応、わたしを気にかけてくれていたのかしら。
不思議だった。胸を占領していた疎外感が、あっというまに解けて消えていく。
「ご覧になりたい品でもありましたか?」
「いえ、その……。ぶつかりそうなところを庇っていただき、ありがとうございました」
心細かったのだと、素直に口にするわけにもいかなくて。笑顔をつくり、とりあえずお礼を伝える。
するとシエロが一瞬、
「歩きながら話しましょうか」
促され、ふたり並んで歩き出す。
「案内を引き受けたのは私でしたのに。かえって退屈な思いをさせてしまいましたね」
シエロから向けられたのは、心からの気遣いを感じる暖かな眼差しと言葉で。わたしは逆に、うしろめたさを覚える。
彼の不利益になりそうな行動は、まだ、なにも起こしていないのに。むしろ彼の言葉どおり、放っておかれたのはわたしのほうで——。
その、はずなのに。
「退屈などではありません! あの、あそこっ。あのお店!」
勢いで指さしたのは一軒の青果店。
赤に緑、それから黄色やオレンジも。色彩が豊富で、形もさまざまな野菜や果物たちが、見映えよく山盛りに並べられた店頭だった。
「あのお店を覗いてもかまいませんか!?」
「青果店、ですか? はい、かまいませんよ」
了解と同時に笑みを浮かべたシエロだけれど。いま、絶対にちょっと吹き出したと思う。間違いないわ。一瞬、わたしから顔を背けたもの。
指摘したかったけれど。店を覗きたいと言った手前、シエロを置いて、自分から足早に歩き出す。
わざとらしい返答をしてしまった自覚もあって。なにより、シエロの目は、嘘を簡単に見抜いてしまいそうだったから。向き合って、気持ちを深く詮索されるよりはいい。
本当に。好意的なシエロにさえも、どう接していいのか迷うのに。相手があの公爵では、会話の成立すら無理な気がしてくる。
一歩ごとに沈んでいく気持ちを抱えたまま、青果店の店頭に辿り着いたそのとき。
「あんた、ヴェントスの旦那の連れかい?」
そうたずねてきたのは、店主らしき男性だった。
シエロと一緒にいるところを見ていたのかしら。もしかしたら今日、この露店市で、シエロがわたしを紹介した誰かから、素性を聞いたのかもしれない。
わたしが頷くと、男性は質問を続けた。
「公爵さまの婚約者——カネレ伯爵家のご令嬢が城館入りされたと聞くが、どんなかただい? 公爵さまとは上手くやっていけそうかい?」
「……公爵さまと、ですか?」
「そうさ。あんたもヴェントスの旦那と同じで側仕えなんだろう? 公爵さまは、ミネルヴァさまに負けず劣らず口煩くて、厳しいおかただと聞くからね」
商品を売り込む振りをして、シエロの目を盗み、男性から耳打ちされたその問いは、返答に困るものだった。
しかも、男性の不用意な発言は内緒話にとどまらなかった。遅れて歩いてきたシエロの耳にも、しっかり届いていたようで。
にこり、と笑ったシエロの視線は、間違いなく男性を捉えていた。
「コジモ。そのような話をするなんて、彼女は純粋だから信じてしまうよ。それとも、それが正直なところの、日ごろ抱いている不満の出所なのかい?」
「いやいやっ! とんでもないっ。不満なんかこれっぽっちもありませんって。勘違いしないでくださいよ、ヴェントスの旦那!」
コジモと呼ばれた男性は、焦って弁解していたけれど。自分の懐が潤っている限りは、実際に不満があったとしても口に出さないのではないかしら。
そう思ういっぽうで、違和感を覚えてもいた。
それは皆がみな、たとえば公爵を批判するような言葉を口にしたコジモでさえ、心からの笑顔を見せていたからなのだけれど。
わたしはこのとき、シエロの人柄が皆を笑顔にするのだと、単純にも解釈していた。
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