第五章「僕をなくした君に、僕は再び恋をする」
5-1
夏休みにも関わらず、僕は制服に身を包んで学校の校門まで来ている。蝉は今日も意味もなく怒鳴り散らしているが、何を言われる筋合いはないと勝手に想像の中で喧嘩する。
僕は無駄に元気を出している太陽にケチを付けようと睨みつけると、丁度屋上との接点に黒いほくろを……人影を見つけた。シルエットだが確実に人だ。
しかも、この位置から見える、と云うことは彼女は屋上の淵に立っている。(彼女、女の子と分かったのは女子便所のマークみたいなシルエットだからだ)
この場合考えられるのは……自殺?
「誰か言ってなかったか?絶望の淵に立っても、屋上と崖の淵には立つなって」言ってない。
と、ここで僕はシルエットに見覚えがあるのに気が付く。黒髪ロング、燐とした……。
僕は夏なのに、天気予報士が「真夏日になるでしょう」と言っていたのにも関わらず、背筋が凍るような寒気を感じて鞄をその場に落としてしまう。
「紫苑?なんで?」
今日は予定変更だ。先生は職員室で待つことになるが、この際仕方がない。
僕は、屋上へと向かって思い切り走り出した。脚に全神経を集中させて、地球にクレーターを作るイメージで必死に地面を蹴った。
陸上選手よりガゼルよりサラブレットよりも速く。そう、獲物を狙うチーターよりも速く階段を駆け上がる。シューズに履き替える間も勿体ないので裸足のまま「廊下は歩こう」のポスターも無視して走る。
踊り場は手すりをうまく使って最短で曲がり、階段は一段飛ばして……。
二、三、四――。
「待って!」
勢いよく扉を開き、屋上の淵に立つ彼女に駆け寄る。
「止めないで!」振り返ることもなく声を荒らげるので「この状況で止めない奴があるか!」僕は彼女の服を引っ張って内側に引きずり下ろす。
「あなたも私に酷いことをするの?私はもう嫌なの、濡れた上履きも、ゴミだらけの筆箱も落書きだらけの机も……もう嫌なの……」
僕には紫苑が言っている事が何一つわからない。
「いじめ?僕が君にそんなことするはずないだろ!」
僕の手を必死に振り払いながら「嘘!」噛みつく。焼けるような激痛で思わず離しそうになるが、歯を食いしばって何とか耐える。滲んだ血に諦めの文字が頭によぎるが、首を振って外へ追いやる。
紫苑はこのまま続けても僕が離さないと分かったのか、顎が疲れたから知らないが、噛みつくのをやめる。くっきりと歯形が付いた腕はグロテスクに日の光を乱反射させている。
「あなたは誰なの!私の何?何で止めるの……そんなに私が嫌い?」
涙でくしゃくしゃになった顔で、悲しく呟く。
僕がいない間にいじめにあったのかは知らないけれど、このまま彼女を死なせるわけにいかない。死なせてたまるか。
僕は、あっち側にいけないようがっちりと掴んでいた服の袖を話して、代わりに彼女を抱きよせた。「なんで……」力なくその場で座り込む彼女を抱きしめたまま僕は、想いを伝える。
「僕は君が、秋菊紫苑が大好きだからだよ。図書室で君を見つけた時からずっと恋をしていたんだ」
彼女の嗚咽を耳元で感じながら、僕は穏やかに、続ける。
「僕は、僕をなくした君に、また恋をしたんだ。君の冷静で落ち着いた話方、澄んだ声……君は名前を呼ぶと一度僕を見て、また本に視線を戻してから返事をする。そんな姿、全部が僕は好きなんだ」
「私は、あなたなんて知らない、知らないはずなのに……。なんで、こんなに嫌じゃないの?あなたは誰なの?私の何なの?わからない、何もかもわからない……」
紫苑はそれから何も言わず、そのまま泣き続けた。
ここまで感情をあらわにする紫苑を見たのは三度目だ。転向日と夏休みの前と今。
彼女はあの時、怯えていた。僕を「いじっめっこ」と勘違いしていたのかはわからないけれど、きっと彼女の自殺願望に「いじめ」は深く関わっているに違いない。
真夏の屋上で、日差しの照りつける中、僕たちは暑さを忘れて抱き合っていた。時間の経過なんてどうでもよくなって、ずっとそうしていた。
けれど彼女はまだ僕を思い出さない。と言うか思い出せないのかもしれない。
メモリーは彼女の大切なものと引き換えに僕の命を救った、と云った。それが僕の記憶ならば、彼女が僕を思い出すまでこの「試練」からは解放されないし、切実に思い出してほしい気持ちはある。
記憶を戻すには、一番思い出深いところに行くのがいいのか、それとも専門的に……前者だ。ただの直感なのだけど、試さない理由はない。
「暑い、頭が痛い、少し離れて」
不意に耳元で声がして思考が止まるが、意外と冴えている僕の脳が素早く再起動する。「もう死ぬなんて言わない?」問う、「わからない」彼女は首を振った。「君が死なないって言うまで離さない」彼女ほ相当暑かったのか、観念して「わかった、死なない」けれど一応「ほんとに?約束する?」念を押すと、少し自棄になって「約束するわ!」その言葉を聞いて腕を解いた。
「ハンカチ持ってる?」
僕は、汗を拭くために持って来ていたハンカチをポッケから出して渡した(まだ使ってないから安心して使ってもらえる)。
洗顔後みたく濡れている顔を丁寧にふき取ると、「ありがと」と返してくれる。落ち着きを取り戻したようだ。
「紫苑、ここで聞くのもあれなんだけど……、一番思い出深い出来事を教えてくれるかな?」
案の定「いきなり何よ」と疑問を持ったが、意外とすんなり考え始めてくれた。けれど、「私、入学式の日以前をあまり憶えていないの。事故に遭った時、まぁその事故の記憶もないのだけれど、そのショックで記憶喪失になったみたいなの。夏休みに入る前あたりに余りにも惨めな中学時代の事を思い出して、さっき自殺と云う暴挙に及んだのだけれど、あんな熱烈に告白されちゃ興ざめね」
「うるさい、じゃあ特別な思い出はないの?」
「ないわけじゃないはわ。はっきりとは思い出せないけれど、小学生六年生の秋になにか私にとって大きな出来事があった気がするわ」
そう言うと「はっきり憶えていない時点で一番の思い出じゃない気がするけれど」自嘲する。
「ありがとう」
それだけで十分だ。
僕の中でも一番の思い出。情けなく、後悔と幸福に満ち溢れた、淡い、終わり始まった記憶の源泉。僕の原点。
「熱烈な告白はまだ終わりそうにないよ」
今から向かう場所は決まっている。忘れ去られたその地に僕は希望を見出す。
「どう言う、って待って。引っ張らないで」僕は勢いよく立ち上がり、一緒に彼女も立たせ「行きたい場所があるから、付き合って」半ば強引に「どこへ?私まだ行くなんて言ってないわ」あの場所目指して「悪いようにはしないから大丈夫」
「それ悪いようにする人が口にするセリフよ」
「さぁ行こぉう」
「だからどこに?あとキャラ迷走してない?」
それは言わないでくれ。
「君が失った、大切なものを探し出しに行くんだ」
何を言っても無駄だと諦めて、紫苑は「もう好きにしなさい」力を抜いた。
自暴自棄で世界一美しい記憶喪失の自殺未遂者を連れて、僕は屋上を後にした。
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