4-3

 僕が紫苑と出会ったのは、小学五年生の秋の事だ。出会ったと言えば聞こえがいいが、実際のところ彼女とは入学式の日から一緒の学校だった。何度もクラスが一緒になったことはあったが、如何せん彼女は地味で、いると認識していなかっただけかもしれない。(僕も同様で独りぼっちだったのだけど)


 休み時間には自分の席で読書、昼休みには図書室に行って読書、放課後になれば一番に教室を出ていたらしい(僕が彼女と話しをするようになってから、彼女自身が言っていた)。


 そんな彼女となぜ僕が毎日話すようになったかと言うと、僕の一目惚れである。


 たまたま気が向いて、初めて昼休みに図書室へ読書をしに行った時のことだ。僕は部屋の隅っこで読書をする紫苑を見つけてしまった。


 真っすぐに伸びた漆黒の髪に、読むスピードに合わせて上下する綺麗な瞳。すっと整った鼻の下には薄紅色の唇。色白ながら、血色がよい肌に定規が入っているのかと思うほどに伸びた背筋は、彼女を燐とさせていた。


 僕は美人だと素直に思った。なんで今まで彼女に気が付かなかったのかと後悔もした。


 ぽつんと紫苑だけに色が付いているように僕の瞳には映っていた。


 紫苑と話しがしたい、そう思って僕は珍しく大胆な行動を取る。当時、できるだけ人と関わらないでおこうとしていた僕にとっては、人生最大の試練だと感じていた。


 僕はその辺の本棚にある本を適当に一冊引き抜くと、誰も座っていない机をすべて無視して彼女の元へ歩み寄り、こう言った。


「隣いい?」


 紫苑は驚いたように僕を見ると、すぐ本に視線を戻して「いいわよ」と答えた。


 そう、ぶっきらぼうに。


 この日を期に僕は毎日それを繰り返した。来る日も来る日も彼女に「隣いい?」と聞き「いいわよ」の返事で座る。これを何か月か繰り返したある日、紫苑から「放課後、ここに来てもらっていいかしら?」と誘われた。


 僕は「いいよ」以外の彼女の言葉を聞けてすごく嬉しかったことを今でも鮮明に憶えている。


「これから、学校がある日はここでお話ししましょ?」


 放課後、彼女が告げたこの言葉に僕は泣きそうになるほど感激した。そして「うん、僕も君と話しがしたかったんだ。よろしくね」と言った。


 それからというもの彼女とはいろいろな話をして放課後を過ごした。好きな食べ物に嫌いな食べ物、お風呂でまずどこから洗うか(紫苑は確か頭から)やお互いの呼び方についてなどなど――話をしていない話題を上げるほうが難しいほどいろんな事柄を語り合った。家族の事も、だ。


 けれど教室で言葉を交わすことは一度もなかった(図書室以外の教室で話しかけないのが、暗黙の了解だった)。だからだろうか、僕にとって放課後のあの時間はいつも特別なものであった。モノクロが、色付く瞬間があった気がしていたんだ。


 そして一年後、彼女を見つけてから丁度一年目の秋、唐突に別れが訪れた。


 紫苑の転校である。


 僕は今でもあの時何も言えなかったことを後悔しているのだけれど、今更悔いた仕方がない。


 ここから僕は紫苑の幻想に囚われ、縋ることしかできない「図書室の番人」になるのだけれど、あまりに惨めなので省略させてもらいたいが。「その後どうなったの?」させてもらえなさそうだ。


 僕はそれでも、紫苑がいなくなった図書室に通い続けた。いつか不意に現れる気がして、思い込んで毎日、紫苑といた机で勝手に待ち続けていた。


 小学校を卒業して、地元の公立中学校に入学しても、紫苑の幻影を追って図書室に入り浸った。「いるはずもないのにね」


 同時に他生徒との距離も今まで以上に置いた。紫苑との思い出を、あの素晴らしい日々を上書きされるような気がして、必要以上に関りを持たなかったんだ。紫苑が遠くに行く気がして、怖かったんだ。そんな事あるはずないのに、僕は本当に愚か者だよ。


 もう紫苑はいないと、実感したのは高校受験が目と鼻の先まで迫っていた頃だった。「遅すぎて、笑えるよ」自暴自棄に鼻を鳴らす。


 それから僕はまず、図書室に行くのを止め、無造作に伸びていた髪も少し整えた。紫苑を忘れようと持っていた本、すべて捨てたよ。乱読派の紫苑が唯一愛読していた恋愛小説も、彼女の面影と一緒に……捨てようと思ったけど、自分ではできなかったから、妹に頼んで捨ててもらった。


 進学先も、わざと知り合いが行かないような、電車で一時間以上かかる高校を受験して、精一杯変わろうとした。


 で、今に至る。いきなり事故に遭ったり散々な高校デビューだったけれど、おかげさまでこんなに良いクラスメイト、いや友人に出会うことができた。


 そして紫苑は遠からず近すぎない記憶に、思い出になったんだ。


「今はどこにいるか分からないけれど、きっと元気でやってるんじゃないかな」

「そんなことが……」


 百合は、僕が最後まで、紫苑の全てを語り終わるのを待って意味深に俯くとゆっくり口を開いた。「ごめんなさい」と。


 僕は何の事かわからず、「どうして?」と百合を見るが、彼女はそのまま動かずに「私、あなたに嘘ついていたの」一呼吸おいて、こう付け足した「事故について、私は匙君に嘘をついてしまったの」


「それは、どう言うこと?」

「ごめんなさい。私は大きな過ちを犯してしまった……。あなたにとって秋菊さんがそんなにも……。ごめんなさい」


 何も理解できない僕は、百合の突然の涙にただ、うろたえる。


「もう一度、もう一度だけ入学式のこと語らせてもらえる?」


 百合は「お願いします」と深々と頭を下げるので僕は慌てて了承した。「ありがと。もう信じてもらえないけれど……」語りだした。


「入学式当日、あなたたちはもう再開を果たしていたの」

「ちょっと待って。再開したって誰と誰が」

「秋菊さんと匙君は、この学校でまた出会っていたの」


 わけが分からない僕は、「?」を浮かべながら間抜けに口を開けて、目を見開いていた。


「秋菊紫苑は、匙君にプロポーズしたって云う花巻紫苑と同一人物よ」




 彼と同じクラスになれるかな。


 桜満開の校門をくぐり抜ける。私は受験の日、彼に借りたシャーペンを握りしめて、一年の教室へと向かった。なんて声掛けよう、嫌われたらどうしよ。そんなことを考えながら扉の前に立って両手を合わせる。


――彼がいますように。


 他生徒は不思議そうに眺めていたけど、私は無視して数秒間そうしていた。そして目を瞑って、扉を横にスライドさせ、教室を見渡した。


――いた


 嬉しかった。歓喜、喜悦、欣幸。すべてを足したような感情に私はなった。我慢しなければ、その場で飛び跳ねていたかもしれない。


 まだ恋をしているとは気が付かないまま私は自分の席へと向かった。私は知らなかっただけなのかもしれない、恋心と言うものを。


 話しかけよう、話しかけようと何度も近付いては見たものの、あと一歩が踏み出せず、気が付けば放課後になっていた。「これありがとう」こんなにも一声かけるのに苦戦したのは、人生で初めてだった。


 諦めきれない私は、彼の後ろを尾行していた。まるでストーカーのように、怪しく白々しく。そしてたどり着いたのが図書室。


 さすがに付いて中に入ることはできず、窓越しに追いかける(これもかなり怪しいのだけど)。彼は中に入ると急に顔色が明るくなって奥へと駆け足で入っていったから、私も気になってさらに外から追った。


 そしてその先にいたのは、秋菊紫苑。彼と彼女はお互いを確かめるような身振り手振りをした後、一緒に図書室から出てきた。


 私は彼らの関係が気になって、また二人の後ろをつけた。その時私はシャーペンを返す目的を完全に忘れていた。


 どんどん校門に向かって行っているが、不意に誰もいない通路で止まって二人は向き合い、彼が彼女を抱きしめた。私が見ているとも知らずに。


 そこで私は、彼に恋をしていたのだと気が付いた。


 涙は自然と溢れ出して止まらない。


 胸が、痛い。


 彼らにとっての煌びやかな日常のワンシーンが、私にとってはモノクロに映った。私はその場に座り込むと、少しの間動けなかった。


「ここからは、以前私が話した事故につながるの……」

「そうか……そうだったのか。彼女は紫苑だったのか……」

「黙っててごめんなさい。私、秋菊さんが匙君のこと忘れていて正直嬉しかったの。私にまだチャンスがあるかもしれないって……。だから嘘を……」


 僕は慎重に彼女の涙をハンカチで拭う。「なんで」彼女は悲しげに僕を見上げた。


 普通であれば怒る場面なのかもしれない。けれど僕は自然と怒りが芽生えない。メモリーの言う通り僕は何も見てはいなかった。彼女がこんなにも苦しんでなお僕を好いてくれているのに、僕は彼女を直視していなかったんだ。


「話してくれて、ありがとう」


「酷いよ!なんでこんな私に優しくするの!いっそ嫌いって言ってよ、そうすれば諦めもつくのに……酷いよ……」


 百合は僕の膝で泣き続けた。小さな子供のようにずっと泣きわめく。


 僕はそんな彼女の頭を無言で撫でる。気が済むまで泣いて、涙が枯れたら、気が済むまで僕を非難してくれて構わない。


 紫苑のことは正直信じられないし、今でも納得できているわけではない。そんなことは今考えるべきではない。家に帰ってからじっくり、気が済むまで考察し吟味し備考して、結論を出せばいいだけの事だ。


 何時間こうしていただろうか。たまに公園へ入ってくる人たちは僕を一瞥すると気まずそうにまた、人込みへと帰っていく。それを数度繰り返した後、ようやく落ち着いきだした百合が「その水頂戴」手を出す。


「これ、僕が飲んだやつだけどいいの?」


 嗚咽交じりに鼻をすすり、顔を上げる。「全然いい」僕がペットボトルを渡すと半分以上残っていたミネラルウォーターを彼女はみるみる水位を下げていき、なくなった。「豪快だね」彼女は微笑んだ。


「匙君って、誰かと間接キスしたことあるの」


「ないかな」確か死んだ両親以外とはしたことない。「じゃあ私が一号だね」百合は誇らしげに空のペットボトルを僕に返した。意地悪な笑顔だ。


 祭りの会場は相変わらず賑やかであるけれど、夜が深くなるに連れて客足も減ったように感じる。おそらく門限がある小中学生が帰ったからであろう。


門限の相場は大体十時と聞いたことがあるが、まだ少し時間がある。けれど電車の時間を考えるとそろそろ家路についた方がよさそうだ。


「百合、帰ろうか」


 百合の云う過ちは、僕の愚行と釣り合うのだろうか。僕の中の天秤は役目を忘れて、ただ回り続ける。


「うん」吹っ切れたように立ち上がる彼女は、この瞬間、世界で一番「雅」だった。

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